前田慶次のブログ
奥村永福




奥村 永福(おくむら ながとみ、天文 10年(1541年 ) - 寛永 元年6月12日1624年 7月27日 ))は、戦国時代 の武将、前田氏 の家臣である。通称は助十郎、助右衛門。別名は家福。官位は伊予守。快心と号した。漫画『花の慶次 -雲のかなたに- 』の影響で奥村助右衛門という名前で呼ばれることも多い。妻は 。子に栄明易英栄頼

生涯

尾張国 に生まれる。奥村氏 は代々前田氏に仕えた家系で、永福は前田利家 の父前田利春 (利昌)や、兄の前田利久 にも仕えている。前田家が永禄 12年(1569年 )に養子問題から織田信長 の命により、利家が前田家を継ぐことになった際に荒子城代を務めていた永福は、利久の命が無い限り城は明け渡さないと抵抗。改めて利久の明け渡しの命により、前田家を辞し浪人する。

天正 元年(1573年 )に織田家が越前 侵攻を開始すると帰参する。柴田勝家 の与力である利家の家臣として朝倉氏 攻めなど各地で活躍。後に加賀国 に利家が入った際には要衝末森城 を与えられる。主君利家が羽柴秀吉(後の豊臣秀吉 )に属した天正 12年(1584年 )に越中国佐々成政 に1万5千の兵で末森城を攻められるが、二の丸まで落ちたものの、永福は寡兵で利家の援軍到着まで耐えぬき成政軍を撃退した。籠城戦の時、永福の妻である (つね、加藤氏娘)の方は、薙刀をもって城内を巡回し、粥を振る舞って負傷者を介抱し城兵を元気づけたといわれる。

その後も利家の重臣として村井長頼 と共に加賀前田家の基礎を作る。九州の役小田原の役 にも参加し、大坂の役 では金沢城 代を務めた。利家が死去すると隠居して出家する。84歳で死去。法名は永福院殿快心宗活居士。

3男の栄頼は藩主・前田利常 の信任厚く、政敵の横山長知 を一時出奔に追い込んだが、大坂冬の陣真田信繁 相手に面目を失い、横山の帰参に不満だったこともあって加賀藩を立ち退いた。その際、兄の栄明・易英や、栄頼と大の知音であった本多政重 ら万石以上の大身がともに出奔しようとする事件が起きた。永福は彼らを説得して栄頼だけが出奔することとし、家中の混乱を最小限に食い止めた(『加賀藩史料』)。

子孫は加賀八家 のうち二家を担い、代々家老を務め、加賀藩 の中枢として活躍。江戸時代末期の子孫が奥村助右衛門の名前を継承していた。

墓所は石川県 金沢市永福寺 。肖像画も所蔵されている。