さくら・賀喜「皆さん、こんにちは」
さくら「乃木坂46、4期生の遠藤さくらです」
賀喜「乃木坂46、4期生の賀喜遥香です」
い「いてまえです」
賀喜「…なぜこんなに静かなんですか?」
い「語るレース内容が内容なんで…」
ということで、今回はF1の歴史の中でも必ず語らないといけないレースの一つ…
1994年サンマリノグランプリを紹介します。
1994年にマクラーレンからウィリアムズに移籍したアイルトン・セナ。
しかしハイテク装備が禁止され、制作されたFW16は、挙動が神経質なマシンとなってしまった。
セナの運転するFW16。
シーズンが始まってからも、セナはマシンを上手く乗りこなせていなかった。
第1戦ブラジルグランプリ、第2戦パシフィックグランプリではポールポジションを獲得するも、決勝レースではリタイア。
その間、ベネトンのミハエル・シューマッハが2連勝していた。
イモラに向かう前に、セナはブラジルに寄り、家族と過ごしリフレッシュをしたという。
そして、第3戦サンマリノグランプリ。
セナは『ここが自らの開幕戦』とし、乗り込んできた。
しかし、セナの思いとは裏腹に、悪魔が牙を剥いた。
4月29日の予選初日。
ジョーダンのルーベンス・バリチェロが最終シケインでクラッシュ。
縁石に乗り上げ、時速230キロで金網に衝突。
数回転し、マシンは裏返しし、停止。
バリチェロはその衝撃で気を失った。
い「うん。鼻骨骨折で済んだよ。事故を見る限り大事故だったから、奇跡とも言えるレベルだったよ」
セナはバリチェロの元に見舞いに行き、報道陣にバリチェロの無事を報告していた。
しかしこれが悲劇の序章だった。
4月30日の土曜予選。
今度はシムテックのローランド・ラッツェンバーガーが『ヴィルヌーブ・カーブ』でコースアウトし、アウト側のコンクリートウォールにほぼ正面から衝突した。
マシンは惰性でトサ・コーナーにまで滑ってきた。
モノコックは潰れ、ラッツェンバーガーの頭が揺れた。
この時ラッツェンバーガーは頭蓋底骨折を起こしていた。
ラッツェンバーガーはこの直前の周回でのシケインで縁石を乗り越えた際、衝撃でフロントウイングにダメージを負った。
ダメージを負った後もピットには戻らず、次の周もタイムアタックを続けた。
そして時速306キロで走行中、フロントウイングが完全に破損。
ラッツェンバーガーはコントロールを失い、クラッシュしたのだった。
い「昨日も話したけど、ラッツェンバーガーは亡くなってしまった」
い「ラッツェンバーガーは全日本F3000に参戦してたこともあり、日本のファンにはセナよりラッツェンバーガーの死がショックだったという人もいたよ」
ラッツェンバーガーは事故から約1時間後の14時15分に死亡が確認。
頚椎骨折、内蔵破裂などでほぼ即死だった。
予選セッション自体はその後も続いた。
が、ほとんどのドライバーは棄権。
金曜のタイムが最速となり、セナの通算65回目のポールポジションが決まった。
2番手にはシューマッハ。
実は当時の医療チームのリーダー、シド・ワトキンスがセナにレースをやめ、釣りにでも行こうと誘っていた。
しかしセナはレースに参戦する意思を語っていた。
また当時の彼女、アドリアーナには電話で『もう走りたくない』と伝えていた。
だが夜には落ち着きを取り戻し、レースに参加しようとしていた。
5月1日、イモラ・サーキットは異様な雰囲気に包まれていた。
セナはウォームアップの走行時、かつてのライバルでフランスのテレビ局で解説者として来ていたアラン・プロストにこう語りかけていた。
賀喜「泣いちゃいそう…」
決勝レース前、ラッツェンバーガーに対し、黙祷が捧げられた。
26番グリッドはラッツェンバーガーを悼んで空けられた。
そして、セナはGPDA、つまりF1ドライバー組合を復活させようとしており、次戦のモナコグランプリから自らリーダーを引き受けると申し出た。
決勝レースがいよいよ始まる。
セナはふっと躊躇いの表情を見せた。
そしてレースがスタート。
しかしまたアクシデントが。
ベネトンのJ.J.レートがスタート出来ずに立ち往生していたところに、ロータスのペドロ・ラミーが追突。
マシンのパーツの一部が観客席に。
8人が怪我をした。
い「普通レースは赤旗中断になるはずだった。だけど、赤旗がなかったらしい…そのため、セーフティーカーを出したという話がある…」
賀喜「そんな…」
レースはセーフティーカー先導で5周進んだ。
6周目からレースは再開。
セナはシューマッハを引き離そうとする。
しかしシューマッハも食らい付く。
3位以下を引き離していく二人。
そして7周目。
フジテレビの映像はシューマッハのオンボード映像を映していた。
そのカメラからセナが消えた。
次の瞬間、セナのマシンはタンブレロをコースアウトし、コンクリートバリアにクラッシュしていた。
セナの身体は動かず、頭が少し動いた。
赤旗中断。
セナは臨時の緊急手術が行われた。
事故発生から15分後、セナはヘリによって搬送された。
セナを乗せたヘリはボローニャのマジョーレ病院へ運ばれた。
セナの治療中、ラルースチームのクルーがピットからエリック・コマスをピットアウトさせるというミスを犯してしまう。
コマスはほとんどフルスピードで事故現場に向かってきた。
マーシャルがスローダウンするように必死に旗を振り、惨事は免れた。
コマスはその後リタイアとなった。
い「いや、再スタートしたよ」
賀喜「えっ!?」
14時53分、レースは再スタート。
コース上ではフェラーリのゲルハルト・ベルガーがトップだったが、レース自体は2ヒート制、つまり最初のレースとの合算で行っていたため、シューマッハがトップだった。
16周目、ベルガーリタイア。
ハンドリングのトラブルだった。
残り10周。
またアクシデントだ。
今度はミナルディのミケーレ・アルボレートのマシンから右リアタイヤが外れた。
外れたタイヤはフェラーリとロータスのメカニックに直撃。
病院に搬送された。
さくら「なるほど…」
レース自体はシューマッハが優勝。
2位にはニコラ・ラリーニ。
ラリーニはこれが唯一の表彰台だった。
3位にはマクラーレンのミカ・ハッキネンが入った。
5位には片山右京が入った。
その頃、セナの身体は病院に着陸し、集中治療室に搬送された。
一度セナの心臓は停止したが、医師たちが心肺蘇生に成功し、生命維持装置につながれた。
だが18時40分、宣告は告げられた…
アイルトン・セナ、死去。
神と話し、神を見たというセナは、神の元に帰っていった…
い「…セナの死亡原因については諸説あるし、分からない。未だに原因は不明。だけど、共通してることとして『大破したマシンの部品が、セナのヘルメットを貫通した』という点は一致している」
日本で最初にセナの事故を報道したのはF1の中継権を持っていたフジテレビ。
『スポーツWAVE』内で報道された。
この時既にセナは昏睡状態に陥っていた。
その後中継が始まるが、セナの死亡が速報で出されると、録画中継は中断し、中継を担当していた三宅正治アナ、今宮純氏、川井一仁氏の3人が改めてセナの死亡を伝えた。
今宮氏は涙ながらに
『こういう事実は、とくにモータースポーツに働いているものの一人とすれば、やはり受け止めなければいけない』
『来来週のモナコグランプリにセナはいませんが、F1は続いていくわけです』
とコメントした。
セナと関係の深かったホンダはセナが1992年に運転していたマクラーレンのMP4/7Aとロータス時代のヘルメットを青山の本社1階に展示。
セナとお別れをする日本のファンのために展示したという。
セナは国葬され、今はブラジルのモルンビーの丘に眠る。
今頃、ラッツェンバーガーや、ニキ・ラウダたちと一緒に空から今のF1を見ているだろう。