歯磨きはループする。

 

気づいたら同じ場所を磨いている。

 

右下奥、右下後ろ、右下前、左下奥、左下後ろ、左下前、右下奥…

 

戻っている。

 

なかなか上に行かない。

 

右上奥、右上後ろ、右上前、右下奥…

 

戻っている。

 

恐らく自分の場合、右下奥が人生で一番磨いているだろう。

 

歯磨きの最中は読書をしていることがほとんどで、

 

歯磨きには集中していないことがループを作り出している原因だろう。

 

結局長々と磨くことになる。

 

しかしどこかにざらつざらつきが残っている。

 

今度は自分が洗面台に戻っていく。

仕事が終わって、30分ほどランニングをしてきた。

 

高校の時は陸上部だった。専門は800mなどの中距離。

 

大学に入ってからは部活に入ることも無かったので、浪人1年と合わせて5年間は

 

走っていなかったが、社会人になってからまた走り始めた。

 

大会に出ることが目標ということも無く、運動不足解消と思って走り始めた。

 

走り始めて10年、土日の朝起きて最初にすることはランニング。もはや日課だ。

 

夜寝る前は歯を磨くように、土日の朝は起きたらランニングウェアに着替える。

 

ただ最近走る理由が運動不足解消だけではないような気がしている。

 

走っている時はリラックスしている。体も頭も両方だ。

 

20代はなかった肩こりが出始めたり、寝起きは背中が固まっている。

 

そんな体をほぐすにはランニングがうってつけだ。

 

20代ではなかった仕事、プライベートの悩みも出てきた。

 

20代前半は寝て起きればいいことも悪いことも忘れられた。

 

今は寝ても頭に残っている。それをフラットにさせてくれるのがランニングだ。

 

実際ランニングは、健康にいいだろうし、最近どこかでランニングはすごく脳を使う行為で、

 

体だけでなく脳にもいいと聞いた。

 

色々なことをフラットにしてくれると同時に、頭もよくなるなんて最高じゃないか。

 

ランニングをする理由は変わっても、10年ランニングしてこなければこの変化にも

 

気づけなかったと思うと、続けてきてよかったなと感じるランニング後です。

引越をしたのが昨年の3月。

 

約一年半経つが、引っ越して変わったことに読書量がある。

 

以前住んでいたのは20数平米の1K。今住んでいるのが40数平米の3K。

 

家が広くなったことで、読書をするポイントが増えたのが最大の理由だ。

 

畳に寝転がって、ベットの上で、ソファーで、デスクで、部屋の隅に置いた椅子で、

 

階段で、涼しい台所で、風呂で、トイレで。

 

リラックスして読みたい本はリラックスできる場所で、勉強など真面目に読みたいときは

 

真面目にできる場所で。

 

適材適所のように、適場適読がある。

 

また環境の変化は気分転換にもなる。リラックスできる場所でも選択肢が複数あれば、

 

より効果的だ。

 

読書の敵は睡魔だと思っている。襲ってくる睡魔は、読書欲を軽く越えてくる。

 

そんな睡魔に対するための一つ方法が読書場所の変更だ。

 

読書をする環境を複数持つということが、読書量を増やす効果的な方法だと思う。

お酒の力を借りて、日頃言えないことを言うことは悪いことではないと思う。

 

「仕事の悩みを相談してみる」「もっとこうした方がいいんじゃないかということを言ってみる」

 

「告白する」などなど。

 

自分もお酒の力を借りて日頃言えないことを先輩にぶつけたこともある。

 

日頃言えないことを言う理由を考えてみると、まずは判断力が下がっていることがある。

 

よく言えばお酒をのむことで気持ちが大きくなる、悪く言えばお酒で判断が鈍っている。

 

もう一つはお酒の場が非日常ということだろう。

 

仕事の場ではない雰囲気、距離感、会話内容。これが気持ちを高揚させ、

 

日頃言えないことを言う状況を作り出している。

 

とはいえ言いたいことをいつもお酒の力を借りて言うわけにはいかない。

 

素面ではお酒を飲んでいる時ほど判断は間違わないし(判断を間違うことは多々ある。

 

お酒を飲んでいる時と比較してということ)、日常なので非日常感はなかなか生まれない。

 

そうなると頭をはたらかせ「言うべきこと」を、「言うべきタイミング」で「言うべき人」に

 

言わなければならない。

 

ここでもう一つ問題なのが、言う相手も素面だということ。

 

お互いお酒を飲んでいれば、「言うべきでないこと」を、「言うべきでないタイミング」で

 

「言うべきでない人」に言ってしまっても何事もなく話が進むことも多い(烈火のごとく

 

怒り出すことももちろんある)。

 

と書いてきて言っていることが間違っていると気づく。

 

素面が日常、通常、基本である。その時どうするか考えないといけない。

 

自分が酒ばかり飲んでいるのがバレバレですが、日常の中で意見を交換するには

 

どうしたらいいか常々考えていく必要があると、お酒を飲みながら改めて考えています。

 

お酒の場での言いたいことは、おまけみたいなものと思っておきます。

「なる早でやります。」「なる早でお願いします。」の「なる早」は便利な言葉だと思う。

 

この「なる早」とは、「なるべく早く」ということ。

 

仕事などで取引先から何か依頼されたとき、それがすぐに対応できないことであれば

 

「なる早で対応します。」と答える。

 

これが「なるべく早めに対応します。」と答えると一気にいやいや感が増す。

 

言葉には言い方を変えると丸くなったり、尖ったりと、同じ意味でも全く違う形になる。

 

また文章にする時も同様のことが言える。

 

例えば漢字で書くときつい印象になる言葉をカタカナで書く。

 

「死ぬ」「シヌ」、「駄目」「ダメ」、「嫌い」「キライ」。

 

外国人がカタコトの日本語を話すようにユーモラスになったり、角が取れて丸くなる。

 

同じ意味でも違う言葉はもちろん、同じ言葉でも言い方・書き方を変えるだけで

 

印象は大きく異なる。

 

言葉のチョイスは大切だ。だから言葉を大切にしたい。

千葉県の佐倉市にある国立歴史民俗博物館の

 

「URUSHIふしぎ物語-人と漆の12000年史-+」を見てきた。

 

先日金沢に旅行し、能登に行った際に漆のお椀を買ったことがきっかけ。

 

行った日に、たまたま博物館に在籍する研究員による講演会が

 

あったので参加してみることに。

 

その中でおもしろかったのは、漆は今も昔も高級品で、外交や貿易の「商品」の一つとして

 

流通していたということ。「商品」として強く意識されていることが印象的でした。

 

(ここで言う漆の高級品とは、日常使いするようなお椀ではなく、蒔絵や螺鈿が

 

施された華やかなもののことです。)

 

とくに江戸時代には、オランダ人が発注⇒日本の職人が制作⇒西洋で消費という

 

流れがあり、現代でいう「~別注」というようなことが行われていたらしいです。

 

例えば、日本の漆の箱は、本体と蓋は分離するが、西洋の箱は蝶番で蓋と

 

くっついているなど、西洋の生活や趣味嗜好に合ったものを制作していたらしく

 

結構柔軟に対応していた。

 

これには「売るため」の漆を施された商品があったということが言えると感じました。

 

さらには日本を真似て制作した、中国やベトナムでつくられた漆器もあったようで、

 

こちらも現代で言うと、メゾンブランドの商品をファストファッションが真似るような

 

流れがあったと言えると感じました(模倣品にしてはクオリティが高かったですが)。

 

そして明治以降になると、「~別注」という形ではなく、日本人が自ら開発・発案した

 

漆器が海を渡るようになりました。

 

こう見てくると、受け身から技術を高め、自発的に商品を開発していくという、

 

自分がいるファッション含めいろいろな分野の現代と同じ流れを進んでいっているなと、

 

おもしろさを感じました。

 

逆に言えば、今うまくいっていないいろいろな分野に、この流れはあてはめられそう。

 

そこを見つけたり、何かとつなげる仕事を今後はしていきたいと決意を強くした時間でした。

赤面症は恥ずかしいからなるんだけども、恥ずかしいにも種類がある。

 

恐らく、多くの人は間違ったことを人前でしてしまった時に恥ずかしいと感じるのだろう。

 

自分ももちろんそれに当てはまるが、もっと恥ずかしいと感じる時がある。

 

それは真面目な話を、真面目にしている自分に気づいた時。

 

お酒を飲んで大言壮語を吐いている時は、自分を客観的に見る気なんて毛頭ないので

 

真面目な話を真面目にしていても恥ずかしくはない(間違いなく顔は真っ赤ですが)。

 

そう考えると、正確に言えば、素面の時に、真面目な話を真面目にしている時となるだろうか。

 

真面目に何かをするというのは、恥ずかしがることではないというのは頭ではわかっている。

 

思春期でもないのに、いい加減にしたらいいのに。

 

しかし恥ずかしいのだ。

 

これはいつからだろうか。思春期だから中高生だろうか。

 

いや小学校の低学年だ。今でも鮮明に覚えている。

 

運動会のダンスで、真面目に踊らず先生にこっぴどく叱られたことを。

 

真面目に踊っている自分に気づいた時、妙にむずがゆくなり、恥ずかしくなった。

 

周りの友人たちは皆、真面目に踊っていたような気がする。

 

いや、私と同じようにみんな恥ずかしかったのだろうか。

 

今考えると何も恥ずかしがることではないのに、どうしてだったのだろうか。

 

小学生の低学年からこんな感じだったら、根が深い。

 

頭ではわかっているのだ。

 

 

結局のところ自分を客観的に見えていないのだろう。未だに。

 

見ているつもりだが、自分が客観だと思っている視点には

 

自分がぴったりとくっついて離れられない。

 

「真面目にやることは恥ずかしいこと」という体に染みついたものを、取り去るのは難しそうだ。

 

いっそ、ほんとにどうでもいいことを真面目にやることで、

 

今まで恥ずかしかった真面目なことを、普通だと思えるようにすることぐらいしか、

 

この状況を抜け出せない気がする。

「ここから江戸川橋まで800mだって。だったらすぐそこからバスが出てるから

 

飯田橋までバスで行って、電車に乗り換えていきましょうよ。そしたら

 

歩かないですむわ。」

 

スマホで道順を調べながら、おばあさんというには若いか、60代であろう女性が言った。

 

話しかけられているのは赤ちゃんを抱えたお父さんだ。

 

「ホテルからも近いし、そうしようよ。」

 

どうやら家族旅行のようだ。

 

気になって耳に入ってきた最初の言葉が引っかかる。

 

それは800mという具体的な数字のためだろうか。

 

その距離長いか短いか、それぞれの感覚によるのだろうけど、

 

スマホで調べれば具体的な数字として表れる。

 

「ここから歩いて7~8分ですよ。」

 

と人から伝えられたら実際にその距離が800mだとしても、長いと感じないかもしれない。

 

家族みんなでゆっくり歩くのもいいような気がする。

仕事が終わり、いつもの電車のいつもの車両に乗っていた時のこと。

 

その日はノー残業日で、仕事が終わったのが18時半過ぎだったので、

 

19時頃だったと思う。

 

きっとこの後何かがあるんだろう、付き合い始めたばかりの彼氏に会うのか、

 

これから彼氏になるかもしれない人に会いに行くのだろうか。

 

必死に鏡を覗き込んでお化粧を直している女性がいた。

 

20代中盤から後半ぐらいでそれなりにかわいらしい子で、

 

自分が乗った豊洲から、永田町までだから12,13分だろうか、

 

彼女のお顔はデート仕様(?)に変わっていく。鏡を覗き込む。

 

お顔はかわいくなっていく。鏡を覗き込む。

 

鏡しか見ていない。いや鏡に映った自分のかわいいお顔しかみていない。

 

肩から掛けたバッグは、ぱっくりと口を開け、効率よく化粧道具が取り出せそうだ。

 

電車が左右に揺れるたび、ヒールを鳴らして踊っている。

 

この後の時間が待ち遠しく、心踊っているようだ。

 

永田町で降りて歩く彼女は颯爽と歩いていく。

 

渋谷か、恵比寿か、中目黒だろうか。

ふと電車の中で思いついたこと。

 

自分は子供の時、100%人を信用していたなと。

 

小学生ぐらいの時、伝言ゲームをやった記憶がある。

 

当時1クラス32人ほどで、席は縦に4人、8列になっていた。

 

8列の先頭の人が先生から伝言する内容を聞いて、後ろに伝え、

 

一番後ろの人が先生に伝言内容を伝えるというもの。

 

当時の自分は、「4人しかいないし間違うわけがない」と思っていた。

 

そこまでしか考えが及んでいなかった。

 

今の自分なら、「本当に間違える人もいるし、

 

わざと間違える人もいるかもしれない」と考える。

 

小学生の自分は、無知だったし何も疑っていなかった。

 

できる子、できない子。うそをつく子、つかない子。ユーモアがある子、ない子。

 

それぞれの違いが分かってきたのは、やっと最近のような気がする。