愛はもはや、ニューロンや脳神経学からの解析によって解明され人間だけの物ではなくなってしまった
つまり、哺乳類や動物でも遺伝子や教育、BMIを通しての学習によって(創造論側で言われている)人間だけが愛を理解する時代は終わりを迎えようとしている
私が宗教学を個人的に学ぼうと思ったきっかけとして、キリスト教における人間の愛の証明である自己犠牲と多神教における生贄の自然性に興味をもったからだ。
いっけん、両者は同じようにも見えるが、少し解釈が違うのだ
自然界としての自己犠牲はシステムや集合体への支援、要は生贄ともとれる
とわいえ自然においては動物も愛や共感を有するのではないかと言う声もある
実際、オオカミが人間の子供を育てる事例もある上にチーターやライオンなどの肉食動物がガゼルやシマウマなどの捕食対象となっている子供を養っている場面も見受けられる。しかも、一介の子供のように育てられているのだ。
このような、涙ぐましい場面を見て「どうして自然において愛はないと言い切れるのか」という意見がある
至極真っ当な意見だと思う、多くの日本人なら私たちは自然から生まれ、それらの能力(共感や愛)は進化の過程を得て、他の動物も幾つもの分岐と進化を繰り返せば、私達と同じ、感性や共感、そして愛と言われている感情を得る可能性は高まるだろうと考えるが多いのではないだろうか。
実際、ヒトとチンパンジーのゲノムは98%以上が相同で、ほとんど差がない
しかしながら、現在、動物が本当に人間と同じ感性を持ち、共感する能力があるかどうかは確認しきれていないというのが現状だ
そして、一部の哺乳類は母性愛を他の子供へも適用し保護しようとする事がある。それは同種だと思い認識の間違ったという可能性もある点、そして別の種の子供を救うという行為に見せかけた(結果としては救っているが)母性本能の回帰なのだ。博愛ではなく、自らが必要としたために保護したのだ。
ここに人の博愛と動物の自然性が見え隠れしている。
もしあなたが、仮に親だったとして仮定し、どこかに閉じ込められ手元に食料は殆どなくパンが一つしかない状況で餓死寸前の自分の子供と他人の子供がいたとしよう。出口はなく、いつ応援が来るかはわからない
その時、仮にあなたが親なら自分の子供に率先してパンをあげたいと思うのが親心として自然と考えるのではないだろうか
自然は過酷である、生と死が常につきまとい、自らの子孫を増やすために、殺し、奪い、利益を最大限、譲受しようとする
(自然界のシステム維持のために奪いすぎないという習慣がある虫や動物もあるが、全ては自己と自らが所属する集団のためである)
しかしながら人間はその中で愛を持ち慈愛という名の元、他人の子供にもパンを分け与えるという可能性もあるのだ
無論、動物でも集団内で食料を分け合う習慣はおおくある、実験として全く別の集団から選ばれた二つのチンパンジーを別々の檻に入れ、片方にだけ餌を入れても、いくつかの餌を隣のチンパンジーに分け合う姿が確認されている
だが、しだいに入れる餌を減らし、両者共に餓死寸前の状態にし、片方にだけ餌を入れると、自分だけ食料を食すようになる。
これらの別のパターンで実験を何度も繰り返しても、最終的にはそのチンパンジーは他の檻のチンパンジーに餌を分け与える事をやめてしまう。
キリスト教やイスラム教では、動物は絶対的な慈愛や自己犠牲、そして博愛を有さないと言われている
そのため、アダムの息子である人間側と多神教側の自然崇拝の人間側では認識が違うのである
しかしながら、愛という名の神から与えられた尊き精神は、ニューロンの発火と神経の伝達によって作られる、本来の人間、つまり自然の可能性から作られたのだ。例え、自然が神から与えられたとしても、猿や一部の哺乳類は、BMIを利用した学習やニューロンの移植を受けて、人と共感し同じ感情を持ち、何より愛を持つ生物が生まれた時、多くの宗教のロジックが壊れる事になるだろう(というかもう壊れてる)
ただ、そういった改造を受けた猿や一部の哺乳類が現れた時、それは人の手で生み出されたのだから、結局は動物には博愛は持たないと主張する側と、全ては自然の未知数にあり、後々の何億回物DNAの分岐の可能性を証明したまで側とに分裂するような未来がすでに来ているのかも知れない
そして、やがてAIが愛をインストール出来る日の暁には全ての価値観がひっくり返る事間違いなしである