―――…‥・



『普通じゃない世界――
普通じゃない視界、とは言っても』


黒髪の彼は、
そこで言葉を一度区切ると
煙草を咥え直し、
深く煙を吐いた。
そうして、面倒くさそうに
心底面倒くさそうに続ける。


『……別に霊が視える、とかそんなんじゃない』――




それはかつて、
僕が彼に
その“視力を失った右眼に視えている世界”について
尋ねた時のことだ。


通常の視力を失った彼の右眼には、
僕たちに見えているものが見えなく。
僕たちに視えないものが視える――



彼は煙草を灰皿に押しつけると
あらためて僕に向き直った。



『コレに映ってるのは
どうやら、ヒトの感情……心情、ってヤツらしい』


そう言うと彼は
こんこん、と
右の眼窩周りの骨を軽く叩いて指してみせた。
自然と視野に入り込む、
その灰と翠の入り混じった色の瞳。




感情……心情。
ほぅ、と
思わず、感嘆に似た溜め息が洩れる。



彼は僕の反応が気に入らなかったらしい、
忌々しげに眉間の皺を深めて僕を見た。


肩を竦めておどけてみせて
悪意はないコトを示し、
次の質問をぶつけてみるコトにする。


悪意はなくとも
興味はあるのだ。



『その、感情……心情?てのは、
具体的にどんな風に視えるんだ』


『靄、だな』


『もや?』



まるで僕の尋ねる内容がわかっていたかのように、
彼は即答で返した。
思わず聞き直してしまう、
どっちにしろ真意が掴みにくい答だった。



『よく漫画とかであるだろ……
その人間の周りに纏わりついてるような…
エネルギーの流れ?みたいな表現』


あんな感じだよ、と。
どうやら彼自身にも表し難いものらしい、
珍しく困ったように頭を掻きながら
彼は言った。


なるほど、と思う。
よく漫画でみる表現と言われれば
なんとなくイメージしやすい気はする。


気、とか
念、とか
チャクラ、とか
少年たちが心踊らせるアレのコトだろう。
それが靄のようにヒトの周りを包んでいる、らしい。


それで、と
目線だけで続きを促す僕に
彼は頷く。




『その人間が動揺すれば
“それ”は波みたいにゆらゆら揺れるし、
その人間の気分がよかったり
体調がよかったりすると
“それ”は大きくなる』


逆もまた然り、だ
彼はそう蓮っ葉に付け加えると
もういいだろ、と言わんばかりに
背を向けて寝転がってしまった。


ここ俺ん家だぞ自由すぎねーか、などという
仲睦まじいツッコミは今は不要だった。




ヒトの心が視える眼――
それこそ漫画のような話ではある。



しかし幸か不幸か
彼はそんな幻想的な
非現実的な思想を忌み嫌う傾向にあり、
虚言や妄言を吐くとは
到底考えられない。



つまり本物――
想像しただけでも身震いするような代物。
実際、僕は自身の高揚を抑えるのに必死だった。



僕はその眼が欲しい。――


素直に率直に実直に言ってしまえば、
そう思ってしまった。


そんな高揚や欲求さえも、
彼のその眼は捉えているのかもしれない――



――と。



『……心なんて視えても、さ』


不意に彼の背中が言う。



『それが理解できないんだったら……
意味なんかねぇんだよな』――



そう続けた彼の口調は、
いつも通り平淡で冷淡で。
けれど。
けれど少しだけ――
寂しそうな雰囲気を纏っていた。





・‥…――




耳障りな電子音で目が覚める。


朦朧とした意識のまま、
喧しい音をあげる携帯電話を止めて。
カーテンの隙間から射し込む日差しに、顔を歪める。



ひどく懐かしい夢をみたものだ。
まだ開ききらない瞼で、
硬直し気味な頬で、
小さく笑みが零れる。




が、
徐々に意識が明瞭になるにつれて、
そんなノスタルジィな気分は霧散していった。





ここ数日間、
僕の周囲は俄かに騒がしかった。



“連続通り魔殺人事件”――
そんな名で呼ばれ、
連日、世間を騒がせているその事件は
つい身近なところで起こっていたのだ。









足りない。
足りない。
まだ足りない。



指先を滴る紅い熱。
生臭い、錆びた鉄のようなにおい。
耳元で聴いた、くぐもった悲鳴。
恐怖と痛みに歪む表情。



足りない。
足りない。
満たされない――







このところ、
少しばかり派手に動きすぎたかもしれない。


連続通り魔殺人事件。
巷ではそんな名で呼ばれ
騒がれているらしい。
大袈裟なことだ。
俺はただ、探しものをしているだけなのに。





足元に横たわる
次第に温度を失っていく、さっきまで生物だったものを見下ろす。


淀んだ暗い瞳に映る自分の姿は、
無表情に無関心に
それを眺めていた。


虚しさだけが残る。
今回もまた
探しものは見つからなかった。




ほら、
こんなにも簡単に失われていく。
命の意味だの尊さだのを、
かつて俺に説いたのは誰だったか。


今となっては思い出せないが、
俺に語りかけるその目つきが
ひどく不快だったというのは憶えている。




――『生きているコトに意味があるか、なんて
そんなモンは俺にもわかんねぇよ』


割れるような頭痛。
フラッシュバック。
不快な眼差し。
リフレイン。
耳障りな砂嵐。
あの“誰か”の声。



――『重いかどうかなんて、わかんない』


やめろ。


――『けど、その意味を
答えを探す為に
生きてるんじゃねぇのか?
ヒトって』


やめろ。
やめろ。


――『お前が…俺たち他人が、
簡単に奪っていいような
軽いモンじゃないハズだ』


……うるさい…!



頭の中で響いて離れない、
既に忘れてしまったハズの
ようやく忘れられたハズの
“誰か”の声。



そうか。
そうだったな。
あれは、
かつて相対した
気味の悪い色の眼の男だった。


男は語った。
その不快な色の眼で。
蔑むような眼で。
憐れむような眼で。
命を、語った。




何を言う、と
微かな記憶の中の男に吠える。
お前だって一緒、
俺と同じだったハズだ。
奪う者、壊す者だったハズだ。




わからない。
わからない。
お前が考えを改めた理由も
お前が説いた命の意味も
わからない。
わからない。


だってこんなにくだらない
脆く儚い
簡単に失われるような
ちっぽけなモノじゃないか。
どこに価値を見出だせる?




殺しても殺しても
壊しても壊しても
あの“誰か”の言葉の真意は掴めない。
命の重さがわからない。
生きている意味がわからない。




すっかり冷たくなった風が、
鼻腔をつく生臭いにおいを運んでいく。


はっ、と我に返る。
東の空が、わずかに明るみ始めている。


過去の柵が
時間の経過から意識を離してしまったか。


帰らないと。
帰らないと。
まだ捕捉されるわけにはいかない。
まだ探しものは見つかっていない。



疲弊した身体を引き摺る。
帰らないと。
帰らないと。



まだわずかに残響する頭痛に
思わず顔をしかめる。



――『誰かを想う痛みが。
繋いだ手の温かさが。
流した涙の数が。
それが“心”だと。
俺は彼女に教わった』



…『彼女』…?
あの“誰か”に“心”を教えた女がいる…?



――『“心”が…ヒトの、
“命”の重み…らしいぜ』




心、ね…


く、くく、く。
思わず嗤いが洩れる。


甘い。
甘い。
まったく甘い。
堕ちたものだ。
忘れてしまった“誰か”の面影に
嘲笑してみせる。




足りない。
足りない。
まだ足りない。


身体を引き摺り、
熱を失った抜殻――亡骸に背を向ける。





明るみ始めた空の色は
どこか、
あの不快な瞳に似ている気がした。









ここ数日間、
僕の周囲はわずかに騒がしかった。



季節が移ろい
風の冷たさが増して
夜が時間の多くを占めるようになると、
人々はより早めに帰路に就き始める。
それは毎年の、いわば習慣に近いが、


今年は少しばかり
事情が違った。



連日、テレビのニュースや紙面を賑わせている
連続通り魔事件――


それがこの街が起こっていることであり、
まして犯人が未だ逮捕されていないとすれば。


普段は賑わっているはずのこの街の夜でも、
通りから人々が消えるのも当然の展開なのだった。




被害者の内臓が引き裂かれていたり
四肢が引きちぎられたりするような
残忍な手口でありながら、
既に十件近く犯行を重ねておきながら
これといった証拠を残さないという


犯罪者史上でも稀に見るレベルであろう
冷酷かつ繊細な殺人鬼が、この街にいる――





そんな現状に置かれながら、
実際のところ
僕はそれほど
警戒や畏怖を強いられていなかった。


というよりは、
それどころではなかったのだ。



世間が殺人鬼による命の危機に晒されていた頃、
僕は病魔に命を削られていた。



もともと持病であった
偏頭痛の悪化。


眼球の奥から発生する、
突き刺すような痛みが侵食し
脳を素手で鷲掴みにされるかのような感覚に
気を失うことが少なくなくなってきている。


常に微弱な痛みは継続しているものの、
慣れてしまえば生活に支障はない。
ただ発作的に起こる激痛、
それによる失神は
何より僕を悩ませていた。




『他に症例がなく、効果を保証できる治療法がない』。


医師は言った。
そんなものだろう、と僕は
諦めにも似た溜め息をついて
病院を後にした。



今にして思えば、
その時に入院だけでもしてしまえばよかったのだ。



失神した僕には
当然、気を失っている間の記憶がない。


おかしな話ではあるが、
最初の頃はそれでも安心していた。
ただ気絶し、時間が経てばその場で目を覚ます。
それだけのコトだったからだ。



しかし。
深夜、就寝中に発作が起こり
ベッドで気を失ったはずなのに
翌朝、目が覚めると
浴室やソファの上で倒れている・
というようなコトが起きるようになったのだ。



まして。


「……なんだ、これ…」


思わず独り言を呟いてしまうような状況――


衣服や皮膚に、
覚えがない無数の擦り傷があり、
血に濡れた状態で目覚める。


気を失っていたはずなのに
まるで完徹したかのような倦怠感、疲労感が
全身に残っている――




以前は不定期で突発的に起こっていた発作が
夜に集中するようになり
対処はしやすくなったものの


全身に残る傷と疲労感に
日に日に衰弱していくのが
手に取るようにわかる。




古くから僕を知る、
腐れ縁の相方は言う。



「夢遊病、てヤツじゃねーの?
寝る時、カメラでもセットして撮ってみればいいんじゃね?」


普段どおりの、
面白がっているような
軽薄な口調ではあったものの
これでいて案外、彼は心配してくれているようだ。
翌日、彼はカメラを貸してくれた。




その夜、
僕は早速カメラをセットして眠りに就いた。



翌朝。
例によって玄関で目を覚ました僕は、
軽い筋肉痛に似た身体の痛みと
酷い倦怠感に包まれながら、
撮影した映像を確認してみた。



録画可能な時間を越えたからか、
撮影は勝手に停止されていた。
冒頭部分から再生してみる。




画面に映る、穏やかに眠る自分の姿。
しかし程なくして、
やはり発作に襲われ
もがき苦しみ始める。


が、予想に反し
頭を抱えて悶えていた時間は短く、
すぐに落ち着いた様子が映し出された。


僕は怪訝に思いながら
食い入るように画面を見つめた。




すると。
発作が治まった画面の中の僕は



緩慢な動作で
ゆらりと
立ち上がり



ふら、ふらと
揺れながら
カメラに
歩み寄り


撮影を
停止した。





画面に浮かぶ、
『再生終了』
『停止』の文字。


僕には震える身体を抑えるのが精一杯で
カメラを操作する余裕なんてなかった。




なぜなら、
最後に映った光景が



生気のない眼で
吊り上げた口角で
あまりにも不気味な、



歪んだ笑みを浮かべた
僕の姿だったからだ。