プロ入り後
1988年 、ヘッドコーチの島野育夫 と総合コーチの木俣達彦 からも素質を見抜かれ、2番・遊撃手に抜擢される。前年のベストナイン 遊撃手 の宇野勝 を二塁手 にコンバート してまでの抜擢であった[2] 。
開幕戦 でもスタメン でフル出場(高卒新人としては球団史上唯一)。開幕戦先発出場のセ・リーグ 高卒新人は、阪神 の並木輝男 、巨人 の王貞治 以来29年ぶり3人目。パリーグを含めても、近鉄 の飯田幸夫 以来22年ぶり。立浪以降も、西武 の銀仁朗 まで18年間出現しなかった。大洋 の欠端光則 から6回裏の第3打席に初安打となる二塁打 を放ち(通算二塁打487本の1本目)、4番・落合博満 のタイムリーヒット で生還し初得点 も記録した。当時の応援歌は光GENJI の「ガラスの十代 」の替え歌。
同年のオールスターゲーム には遊撃手部門でファン投票選出され、全セ監督の王から3試合連続で出場機会を与えられた。西宮球場 での第1戦では8回表代打 で津野浩 からオールスターゲーム初打席初安打、ナゴヤ球場 での第2戦では2番・遊撃手でスタメン出場したが3打数無安打に終わった。東京ドーム での第3戦3回表2死まで打者8人をパーフェクトに抑えていた先発西崎幸広 に三振を喫した。
レギュラーシーズン110試合出場し打率 .223ながら、22盗塁 、21犠打 を記録し、中日のリーグ優勝に貢献、同年の日本シリーズ には全試合先発出場した。守備・走塁技術を高く評価されて新人王 を受賞。また、高卒新人としては初のゴールデングラブ賞 を受賞した。日本赤十字社 のイメージキャラクター就任。
1989年 は故障の影響でシーズン30試合出場にとどまる。
1990年 は主にリードオフマンとして活躍し、シーズン打率.303、155安打を残す。この年のオフに結婚し長女が誕生した。
1991年 は藤田元司 の抜擢でオールスターゲーム に自身初の監督推薦で出場。東京ドーム での第1戦に1番・二塁で先発出場したが、初回表先頭打者として野茂英雄 に三振を喫した。
1992年 は遊撃手を種田仁 らに譲り、二塁にコンバートされる。故障で序盤は欠場したが、2年ぶりの打率3割を記録。
1993年 6月11日からシーズン守備機会連続無失策を続け、それまでの記録を更新。シーズン守備率 .997を残し、記録を継続したままシーズンを終える。
1994年 6月11日の対巨人戦で松井秀喜 の放った強烈な打球を弾いて失策を記録、無失策記録は712回でストップしたが監督の高木守道 及びコーチの徳武定祐 が現役時代に記録した数字を上回るものだった(この記録は後に関本健太郎 に破られる)。10.8決戦 では8回裏先頭打者として桑田真澄から内野安打を打った際に一塁にヘッドスライディング し左肩を脱臼して負傷退場した[3] 。また、この脱臼の後遺症として左肩は痛いままだと本人は引退後に語っている。
1995年 には2度目のゴールデングラブ賞を受賞。この年から3年連続で受賞する。
1996年 のオールスターゲーム に二塁手部門でファン投票選出、10月6日中日の逆転優勝の可能性が残るナゴヤ球場最後の公式戦では、9回裏2死から川口和久 に三振を喫し最後の打者となり巨人の優勝が決まった(メークドラマ )。自己最高となるシーズン打率.323を記録(リーグ3位)、ベストナインに選出される。
1997年 開幕戦の対横浜戦で盛田幸妃 から初回先頭打者本塁打を放ち、ナゴヤドーム 初の公式戦で同球場第1号本塁打となる。8月22日の対阪神戦ではサイクルヒット を達成。
1998年 は久慈と李鍾範 の加入で左翼手 にコンバートされ、外野守備コーチに就任間もない二宮至 の特訓を受ける。広島市民球場 での開幕戦 (相手の先発は42歳大野豊 )に3番・左翼手で出場し4打数無安打。ナゴヤドームで第1戦開催の同年のオールスターゲーム に松井、新人の高橋由伸 と共に外野手部門でファン投票選出された。外野手部門での選出であったが、ナゴヤドームで開催の第1戦は野村克也 に9番・二塁手で先発起用された。
1999年 は内野手に復帰し開幕戦で「5番・二塁手」で先発出場、6回裏に玉木重雄 から勝利打点 となるタイムリー二塁打を放ち、プロ野球タイの開幕11連勝を飾った。同年9月30日マジック1で迎えた明治神宮野球場 で、9回2死から宣銅烈 がロベルト・ペタジーニ を内野フライに打ち取り二塁手として捕球し優勝決定、チーム最多の勝利打点 を記録し選手会長として牽引。しかし、星野に中村武志 と共に監督室に呼び出され、「来年、お前らの引退試合 を用意してやる」と最後通告受け、シーズンオフに身体を鍛え直し復活。王が率いるダイエーとの日本シリーズ 第1戦では13奪三振で完封勝利の工藤公康 から4打数2安打、第2戦では若田部健一 から先制タイムリーと一人気を吐いた。
2000年 5月6日、ナゴヤドームでの対横浜戦で、立浪自身の喫した判定への不満から星野が主審の橘高淳 に抗議して胸を突き、同僚選手の大西崇之 が肋骨を骨折させた事でファンから大西・星野と共に刑事告発 されるが、起訴猶予 処分となっている。詳しくは橘高の項を参照。
2001年 はシーズン終盤より三塁手 としての出場が多くなる。12月より日本プロ野球選手会 理事長に就任。労働組合 日本プロ野球選手会副会長も兼任し、選手の地位向上や野球の普及活動にも力を注ぐ。
2002年 シーズン当初は5番打者を任されたが、レオ・ゴメス の帰国に伴い7月7日から4番打者を任される。この年はチーム最多、自己最高の打点をマーク。5月21日には五十嵐亮太 から自身初となるサヨナラ満塁本塁打を放った[4] 。
2003年 7月5日の対巨人戦(東京ドーム)で、PL学園の先輩である清原和博 の前で猛打賞 を記録し2000本安打を達成。同試合後に日本プロ野球名球会 入会記者会見。同年、三塁手としてゴールデングラブ賞を受賞した。通算では史上初の3つのポジション(遊撃手・二塁手・三塁手)で受賞の快挙となった。直後のオールスターゲーム にも監督推薦で選出され、大阪ドーム での第1戦8回先頭打者で原辰徳 に代打で起用され、斉藤和巳 から二塁打を放った。オフに球団選手会長を井端弘和 に譲る。
2004年 は5月と6月に月間MVP を獲得し、チームを5年ぶりのリーグ優勝に導き2度目のベストナインに選出される。同年の日本シリーズ 第2戦(ナゴヤドーム)7回裏、松坂大輔 から同点弾となる3ラン本塁打を放ち勝利に貢献したが、同シリーズは3勝4敗で惜敗。
2005年 開幕戦は3番・三塁手で先発出場、0-0で迎えた9回裏先頭で横浜先発の三浦大輔 から三塁打 で出塁、アレックス・オチョア のサヨナラ満塁本塁打で生還。同年は打率こそ低迷したものの、5月19日に札幌ドーム での日本ハム との交流戦 で金村曉 から450本目の二塁打を放ち、福本豊 の持つ通算二塁打の最多記録を更新。さらに6月4日、2275本目の安打を放ち、高木守道 の持つ通算安打の球団記録を更新。
2006年 4月7日の対巨人戦で上原浩治 からサヨナラ満塁本塁打を放つなど2年ぶりのリーグ優勝に貢献したが、後半戦から森野将彦 に正三塁手の座を奪われてからは先発出場から外れるようになった。優勝決定の翌々日10月12日の対阪神戦(阪神甲子園球場 )で片岡篤史 の引退試合では志願して先発出場を果たし、試合後に片岡の胴上げに参加した。
2007年 は中村紀洋 の加入もあり出場機会が減ったものの、代打としての年間最多出場記録樹立。日本シリーズ 制覇やアジアシリーズ 制覇に貢献。同年オフより打撃コーチを兼任。
2008年 はコーチ兼任で臨んだが、開幕から不振でプロ入り後の最低の成績でシーズンを終えた。オフの12月5日、契約更改の終了後に会見を行い、「来年が最後のつもりでやります。1年悔いのないように。思い切って、最後の力を振り絞ってやります」と、2009年限りでの現役引退を示唆した。
2009年 は、前年オフに引退を示唆したことで開幕前から注目を集めた。40歳という年齢もあり守備につくことはあまり無かったが、代打でチームに貢献した。4月24日の対巨人戦では豊田清 から同点本塁打を放ちチームの勝利に貢献。入団以来22シーズン連続でホームランを放った[5] 。8月1日にプロ野球史上7人目の1万打席を達成。シーズン終盤に正式に引退を表明し、9月30日の本拠地最終戦後に引退セレモニーを行った。試合には6番・一塁手で同年シーズン初のスタメン出場(一塁の守備に入るのは初)。2-6で敗れたが、4打数3安打の猛打賞で自らの引退を飾った。また、3安打目は二塁打で、自らの持つ二塁打の日本記録を487に伸ばした。試合後のセレモニーでは桑田真澄 、清原和博 、片岡篤史らから花束が贈られた。
その後も10月4日の対阪神最終戦(甲子園球場)や、10月11日のヤクルト とのレギュラーシーズン最終戦(明治神宮野球場 )で代打出場して凡退した。4日は桧山進次郎 から、11日は宮本慎也 から、花束が贈呈された。レギュラーシーズンでの現役最終打席は9回表2死無走者の場面で押本健彦 から二飛を打ち、前年までの同僚森岡良介 が捕球した。また10月24日の東京ドームでのクライマックスシリーズ 第4戦9回表、7番・藤井淳志 の代打として出場が最終打席となり、マーク・クルーン に左飛に仕留められたが、両チームの観客から盛大な拍手が送られ、ベンチに戻る際に帽子を取り挨拶をし、その後一礼をしてベンチに戻った。
ドラゴンズファンの間で「背番号3を永久欠番 に」という運動が沸き起こり、署名活動も行われたが、2010年からは森野将彦が受け継ぐことが球団から一旦発表された。しかし、森野の要望により2010年は欠番扱いとなった[6] 。なお、この「背番号3」は2011年から高校の後輩である吉川大幾 がつける。
2010年1月6日、ナゴヤドームで「立浪選手に感謝する会」が開催された。2月27日にロッテとのオープン戦で引退記念試合を行った。2010年1月26日、同じく前年限りで現役引退した赤星憲広 ・清水崇行 と共に日本テレビのプロ野球中継解説者となることが発表された(主に中日戦。ただし、中京テレビは中日主管試合の放映権なし)。ゲスト解説者としてCBC のテレビ・ラジオの中継にも不定期出演する。また、片岡篤史の後任として北海道文化放送 の「スポーツワイド Fの炎 」のレギュラー解説者にも起用された。