1980パイレーツキュレーターの集い@アメブロ

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3月10日、Facebookに新しいメディアが誕生~「1980パイレーツ」で今すぐ検索!
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1981年1月1日、「ビートたけしのオールナイトニッポン」でこの年は開ける。


1990年12月27日の最終回までこのラジオ番組は80年代を駆け抜ける。
とにかく「キレキレ」である。エッジがきいてて、ものすごいスピードで一切を切り捨てていく。常識的な大人はついていけないような疾走感。高田文夫の早口の合いの手も更にリズムを加速させた。

ビートたけしは極めて1980的だと思う。いつもフィッチェのニットを着たビートたけし。「フライデー襲撃事件」を起こしその記者会見の模様を改めて見た。そのエネルギーの放出のあり方が1980的だと感じた。「何を言ってやがるんだい、バカ野郎ども」メディアの記者たちに発せられるエネルギー。


この年、フジテレビで「スター千一夜」が終了。そして「オレたちひょうきん族」が始まった。「スター」とか「芸能」とかのあり方が変化し始めた時であった。タモリの「今夜は最高」が始まり、アニメ「
Dr.スランプアラレちゃん」が大ヒット。「キャプテン翼」が少年ジャンプに「タッチ」が少年サンデーに連載開始。手塚治虫はビッグコミックに「陽だまりの樹」という幕末テーマのストーリーを連載していた。


アメリカではレーガンが大統領に就任し、スペースシャトルコロンビアが打ち上げられた。
郵便局が大幅に郵便料金を値上げし、ロッキード事件で議院証言法違反で小佐野賢治が有罪判決。ローマ法皇が初来日し、イギリスでチャールズ皇太子とダイアナの結婚式が行われ、この年初めて「AIDS」が報告される。70年代は決着しつつ、80年代はムクムクと起き上がる。


日本人の留学生がパリで殺人・死姦・人肉を食らう「パリ人肉事件」が起こり、ノーパン喫茶が大流行、横浜銀蠅が「つっぱり
HigtSchoolRock’nRoll(登校編)」でベストテン入りし、「つっぱり」は「なめネコ」ブームを呼ぶ。


Focus」が出版され、写真週刊誌なるものが世に出る。スクープとゴシップのヴィジュアル化。スキャンダラスなフォトグラフが市民権を獲得し、やがて80年代はグラビアタレントの全盛期へと突入する。


フジテレビで「北の国から」スタート。都会に出てきた田舎の若者を描いてきた倉本聰は北海道を舞台としたホームドラマを手がける。ラジオ・オールナイト日本は月曜/中島みゆき、火曜/松山千春→所ジョージ、水曜/タモリ、木曜/ビートたけし、金曜/吉田拓郎、土曜/笑福亭鶴光、ちなみに3月まで木曜2部が明石家さんまという時期であった。


NHK
FMサウンドストリートに4月から坂本龍一と佐野元春がDJとして登場。月曜/佐野元春、火曜/坂本龍一、水曜/烏丸せつ子、木曜、金曜/渋谷陽一。ロック的な世代交代が現れたキャスティング。坂本龍一のサウンドストリートにはその人脈から多彩なゲストが訪れる。栗本慎一郎がゲストであるあたり、ネオアカデミズムとミュージックシーンが最も近づいた時=1980年代と言える。

文壇に「さようならギャングたち」で高橋源一郎がデビュー。重くのしかかる1970年代を抜け出す糸口を探し、詩やサブカルチャー・
POPカルテゃー、古典文学を象徴的きっかけとして痛みと次への希望を表現した。言語の行う最初の偉大な作業「名前を付けること」を冒頭に物語は進む。


81年は福岡・北九州地区出身のいわゆる「メンタイロック」が台頭した。伝説のロックバンド「サンハウス」の影響の下、80年暮れに「ザ・ルースターズ」「ザ・ロッカーズ」81年に「ザ・モッズ」が次々とデビュー。「シーナ&ザ・ロケッツ」「
ARB」と共にそれぞれオリジナリティーのあるロックンロールを爆発させた。


この年の日本の映画興行成績№1は
、デビッドリンチ監督の「エレファントマン」。これも極めて1980的だと思う。デビッドリンチ監督のツインピークスの大ブレイクは1980的感性を最も刺激した作品であったと思う。猟奇的で、非日常的なサスペンス。しかしSF的でないリアリズムを感じる、その作品を見ること自体が文化的な匂いを放つものであった。


そして、FRIDAY
創刊の年にビートたけしのカリスマ化はスタートする。メディアの一種の下品な暴力と大衆の先導者は、全く違うベクトルでどんどんスピードUPして時代を突き進んでゆく。

妙に賑やかで騒がしいアカデミズムと、下世話と文化と大衆がごちゃまぜの80年代。私たちは、糸井重里の「ヘンタイよいこ新聞」(ビックリハウス)のように「不思議、大好き」と宣いながら、春の雪崩のようにカオス化して膨張しつつ、車軸を回し続けたのだった。

END

 チームメキキストの創成を目指して

1980パイレーツ主幹 M. Fence. MATSUSATO

 
私は1966年生まれ。1980年は中2で14才。80年代最後の年である89年は22才で足立区竹塚に住んで、確かピザ工場の掃除のアルバイトをしていた。

 

時は79年のオイルショックの直後で山口百恵と王貞治が引退しジョンレノンがダコタハウス前で凶弾に倒れる。モスクワオリンピックが開催されるもソ連(ソ連!)のアフガニスタン侵攻に抗議してアメリカ、西ドイツ、日本などIOC加盟148カ国中67カ国が不参加。マラソンの瀬古俊彦選手の無念はなぜか自分の事のようだった。

 

ポールマッカートニーは大麻不法所持の容疑で現行犯逮捕され国外退去処分に。6月に発売されたYMOのミニアルバム「増殖」に収められたスネイクマンショー伊武雅刀のパロディーは鮮烈だった。映画「エレファントマン」が封切られ日本では「ツィゴイネルワイゼン」や黒沢明の「影武者」が大ヒット、石井聰亙の「狂い咲きサンダーロード」も話題となった。石井聰亙のめちゃくちゃなエネルギーと疾走感、山田辰夫の男ざまにしびれた作品だった。

 

アメリカのヒットチャートではケニーロジャースが「LADY」と歌い、ブロンディーのデボラハリーは「Call Me」と叫んだ。ジョンレノンは奇しくも「Just Like Starting Over」と歌った。今でもジョンは歌っている。

 

沢田研二は「TOKIO」を谷村新司は「昴」をシャネルズは「ランナウエイ」をヒットさせ、日本はTBS「ザ・ベストテン」が全盛期。松田聖子とたのきんトリオがデビュー「哀愁でいと」と「スニーカーぶるーす」と「青い珊瑚礁」。「スニーカーぶるーす」の作詞は松本隆。芸能界の80年代はこんな幕開けだった。プロ野球はセ・リーグが広島、パ・リーグは近鉄が勝ち、日本シリースは広島が制す。

 

誰かが銀座で1億円を拾い、誰かが新宿のバスに放火し、川崎で予備校生が両親を金属バットで撲殺した。夏の高校野球では愛甲猛擁する横浜高校が荒木大輔擁する早稲田実業に6-4で勝ち優勝。日本テレビで「池中玄太80キロ」関西テレビで「裸の大将放浪記」TBSで「3年B組金八先生(腐ったみかんの方程式)」が放送、中島みゆき「世情」にあわせて警察が介入しスローモーションの中、加藤優は捕まった。

林家三平が亡くなり、ツービートが「赤信号、みんなで渡ればこわくない」とのたまい、竹の子族が原宿を席巻し、前年に発売された
SONY・ウオークマンが爆発的に売れ、Drスランプが少年ジャンプで始まりあだち充は「みゆき」をリリース。

大平首相が急死し、自民党は圧勝で鈴木善幸が総理大臣就任。オールナイトニッポンは第一部が月曜/中島みゆき、火曜/所ジョージから松山千春、水曜日/タモリ、木曜日/桑田佳祐、金曜日/長渕剛から吉田拓郎、土曜日/笑福亭鶴光。
NHKFMサウンドストリートは月曜/松任谷正隆、火曜/森永博志、水曜/烏丸せつこ、木曜、金曜の2日を渋谷陽一が担当した。坂本龍一教授は翌年4月から火曜日を担当する。

YAMAHARZ250が発売され、カワサキはKH250。最後のツースト3気筒。Z400FX。オートバイと暴走族。モテたければこれだった。

 

村上龍は「コインロッカー・ベイビーズ」を発表、村上春樹は「1973年のピンボール」で芥川賞を取りそこない、「街と、その不確な壁」は文學界に発表されたが文庫本にはならなかった。赤川次郎の「三毛猫ホームズシリーズ」第3作目の「三毛猫ホームズの怪談」が書店を賑わした。

 

80年は記録的な冷夏であった。

 

こうやって並べてみるだけ、なんだか意味ありげでしょう。確かに何かを象徴しているような気がしないでもない。山口百恵にとって変わって松田聖子が現れたり、林家三平が死んだ年にツービートを筆頭とした漫才ブームが巻き起こったり。

 

en-taxiという雑誌で最近、「1970年代とはなんだったのか」という特集があった。


触発されて「1980年代とはなんだったのか」と考えてみる。そんな考察に意味があるかどうかわからない。でも意味があるかどうかなんてどうだっていい。

 

とにかく「新しいこと」を求めていた。それが進化だと信じていた。既成の価値観は疑っても自分の進化は疑わなかった。70年代の反体制の空気を嗅ぎつつしかし体制が何なのかも不明確だった気がするこの頃の私はそのエッセンスはいただきつつも、「何か新しいことないか?」「何かもっとしっくりくるものないか?」と探し訪ねていた気がする。


青臭いけれど、「金持ち」よりも「カッコイイ奴」を目指したかった。

 

とにかく人と違うことがやりたい、新しいことをやりたい、カルチャーの垣根みたいのを超えたい、新しいこと、面白いことに対する創造の(または探し当てることの)モチベーションは尽きず、確かに自分が能天気にも思えた。元気で能天気!

 

行動的なアホが世界をリードする。何となく今でもそう思っている。70年代の反権威主義と比するなら80年代は反常識主義だったと思う。「失敗したらどうしよう」と心配しなかった。やりたいことが成り立つかどうかは別な問題でやろうと思ったら、少なくとも始めることはできる。表現する人々には「できない」=「やらないだけ」のムードがあったと思う。斜に構えたペシミスティックな側面はあったけど、ニヒリストではなかった。


新しいことを求めること=創造的であること、は楽しい。意味なんか求めない。楽しいからつくる。意味も金も後からついてくる。妄想かもしれなかったが私はそう思っていた。

 

1980パイレーツは、きっと「人は誰でもキュレーター」=「それぞれの目利き」→「メキキスト」ということを掘り起こしてクローズアップしたい。できれば創造的でありたい。

「カッコイイ」を媒介として「何らかの共同幻想」のもと「関わる活力」を味わいたい。


私は、馬鹿馬鹿しくもその「関わり」に引っかかってみようと思う。

 

意味なんてないかもしれないし、とんでもない発見が待っているかもしれない。どっちだって構わない。そもそも「だからどうした?」という質問のオバケみたいなのに脅かさることなんかない。私が生きて過ぎた1980年代。バブル前夜だ、新人類だと語られたその時代のパッションとカルチャーエッセンスを世界へ、後世へ発信してみたいと思うのだ。


浮世絵に影響を受けたヨーロッパの絵かきのように、「クロサワアキラ」にガツンとやられた映画人のように何か生まれたら楽しいじゃないですか。

 

「人は誰でもキュレーター」。是非とも一過言頂戴したく、よろしくお願い申し上げます。

 

1980パイレーツが誇る最強キュレーター陣の一部を、いち早くご紹介いたします。彼らがいったい何を考え、何をメディアで語るのか。皆さんのその目で実際に確かめてみて下さい。では、3月10日のFacebook「1980パイレーツ」でお会いしましょう!

MASARU プロデューサー(45歳)
商社や飲食業等のビジネスで数々の偉業を成し遂げるも、プライベートではカルチャー・サブカル(音楽・演劇等)に異様なまでの執着を示す奇妙人。一家言、多数あり。

KEI プランナー(43歳)
年に似合わず苦労人。インテリな風貌と様々な職種経験を持つが、中身はおタクなギャンブラー。「緻密にして大胆」な視点を切り口に、経済・投資方面に活躍。

MASAMI ITビジネス(46歳)
日本中を飛び回るビジネスパーソン。思考の網をときほぐす達人だが、その才能ゆえに他人の考えはお構いなしの超マイペース人間。1980年代に深い造詣を示す。

KAZUAKI インテグレーター(45歳)
ITエバンジェリストにして、酒と音楽をこよなく愛する文化人。新宿ゴールデン街の怪人。海外文化をキャッチアップする傍らで、日本の1980年代に誰よりも愛着を示す。

TATSUYA コンサルタント(45歳)
東京を拠点とし、さまざまなプロジェクト活動に参加。物静かな風貌と、それにふさわしい言動でビジネス界の人望も厚い。それゆえ、裏の顔はいまだに不明。


2012年、Facebookに突如現れた、1980年代をあつく語る「1980パイレーツ」~Fecebookで活躍するキュレーターがそれぞれの知性と感性を駆使して、カルチャー・ミュージック・クルマ・経済・スポーツの各分野における先人の功績と現代社会へのメッセージを投げかけます。

3月10日、いよいよ公開。

1980年代が現代に与えたジャパンカルチャーインパクトの数々を、超レアな映像とトピックスでお楽しみください!