たまたまひょんなきっかけで心理学を学び始めた私は、、、あれ、そこで学んだ専門用語が出てこない笑汗

そうだ笑
パラダイム、という言葉でエゴの領域というか、設定、自身のプログラミングを指す言葉で学びを深めていくのだが

ある時、明確に私が違和感を感じるパラダイムを掴む 
それはその時の同期の仲間との会話の中でだ 
お互いに反応し合いながらも感じることなどをシェアしあっていた





ねぇ今私が話した私のものだと思うパラダイムって、◯◯(仲間)のものじゃないかな?




そう話すと、同期の仲間は

うーん。そんな気がする
◯◯(私)のじゃない、のはわかる。
私のものな気がする、掴めてないけど。。





なんて話をした
同期たちとはとことん話した仲間が多く
離れていても相手のことを手にとるように
というか、もうビィジョンできるように見えていた


そのことは私の当たり前だった
そうとう集中して人と関わるという期間だった
だから
あえて言葉にすれば〝見る(観る)〟許可がそもそも私に当たり前に下りていたのだろう
そこで私は同期のリーダーをしていたのも理由のひとつだ




上記で書いた仲間との一件から
私は、自分が目の前の人との間の境界線が曖昧なことを体感として知ることになる
当日、あまり言葉には出来なかったが
私には大きな気づきだった

これをきっかけに
自分が体感したもの、掴んだ気づきなど
まず〝自分のものか〟を観るようになった

その後、体感を通して今世以外の記憶が戻り
また、私のものか、それ以外かを分ける作業が数年続くのだが


淡々と分けていくことをするきっかけは
あの時の仲間との一件からだ
また内側の話は誰にも証明ができないことなので、疑いながらも私の中で分けていく作業はここから来ている



まぁ淡々と、と今は言葉にできるが
地べたを這いつくばりながら
部屋の中をのたうち回りながら
怒りと苦しみとを身体を通して知るという
かなり私には過酷な時間を数年生きた

当時は
目が覚めるたびに
なぜまだ生きているのか
まだ生きる(体験する)理由が
なにかあるんだね私は
と何度もぼんやりと思った朝があった






🌳







昨日から知る配信者さんが言い切ってくれていた




自らを責める苦しみは
この世界全体の意識のあらわれだと


 


私が受け取りやすいのは
集合意識の一端だとは思ってきた
が、言い切ってくれる人に出会ったのは初めてだった



そして、なんだ
じゃぁ確かに
それなら、ここまで苦しいのは
世界にはっきりと偏りがあり
私が受け取る必要がある、なにかの流れがあるんだと


そしてそれは
たとえ無意識でも
なんだ、多くの人がそれらを受け取っているじゃないかと





〝私〟という世界にあらわれる
〝この世界〟のあり様を知る








変容が起きている
エゴの声が遠くなる






私という媒体が受け取る世界の情報を
そのまま感じていい
ここからは文字通り淡々と
私を通して世界を体験していく

ただありのままに





私たちはこの世界を記録している
そこに今ある世界の〝苦しみ〟がある
だけだ
そして、それ以外も〝ある〟
私というフィルターですべてを許可する
そのために存在している
すべてをだ

目が覚めるたびに
言葉にならない
まだまずかゆいような幸福感で動きを止める


すごいな、意識がここに戻ると
このすべてが完璧に世界だと







あなたの感じている苦しみは
あなたのものか?
世界のものだと見直してみてはどうだろうか