眠くてたまらないのに
深夜に目が覚める
ほとんどが自分がうるさい音を体感してなのだが
耳鳴りかもしれない
起きていることを見て自分を知る





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今ここに来るまでに7年
自分の内側、体感から起きる記憶を分けて
とにかく変態的に冷静さを見つけて
自らの中をわけることをし続けてきた


今世以外の記憶が多いが
その感覚から
いつしかこれをスピリチュアルというのか?
と疑問が湧いてきた


スピリチュアルを一般的に解釈する日本にあるイメージとは違うということだ
占いや宇宙人や神さまや天使や悪魔の話ではない
(私の記憶には地球人以外が多いが笑)


私は世界と人との違いを見続けることになる




私が、持つ未来だと感じる記憶があり
今年は特にその情報と生きることは
ここまでの流れでわかっており
ふと父を相手に今私にあることを出し続けた
そこでの気づきが加速度的に
次の気づきにと広がりの中にいて
それをここに残す






すべて私の解釈
私のフィルターを通して出てくるものです








例えば
今ここから
未来の話をする場合
それは選択からなる無数のパターンがある

無数のパターンとは
今ここに許されているすべてのものこと生命が
またこの世に存在する選択のパターンのすべてを取った時のことを指す






私は可能性の話をしている






時間の流れとして存在するのではなく
ただパターンとして今ここに過去も未来も〝在る〟だけで、そこに決まった流れはない



私たちはすでに在る範囲の中の選択を生きている



その数が途方もないので
私たちはその中にいることに気づきにくい
そしてその途方もない選択肢には
その範囲内に置いて自由意志と表現される選択権が私たちにはある

ただ目の前のことだけではない
目に見えないところの可能性も含まれるので
それは人智を超えるパターンの数になるだけで
すべてはもうすでに用意されている




分けたいわけではなくただ役割として
あるのだと読んでもらえたら嬉しいのだが


人智を超えると書いたが
それは人によって理解の範囲が違うだけで
それすら可能性の選択の中を自分で生きているものであり
それもパターン内のひとつで
広い狭い、大きい小さいは
甲乙、良し悪しなど評価するものはそこにない
そのすべてが存在を許された可能性である


なので
すべての正、負
ポジもネガも
もちろんそのどちらでもないものも
そのすべてが今と次の可能性のために
ここに存在する



自分がマクロにいるのかミクロにいるのかが
少し混乱するが
たぶんただ波打つ渦のように
行ったり来たりを繰り返している感じがする




ただ私の気づきのために
この世界は存在する
私は私を知るためにここにいる







可能性を知るものの視点が
それもここにただ存在するだけである