私にとっての生きる意味とは








36才の時にメンタルトレーニングを
その時の気になる人に誘われて始める
手に入れる目標があったとしたらその気になる人だった笑

その人との出会いは
神さまに泣きながらお願いをし続けた数ヶ月後
家族写真を撮ろうとしている
知らない家族のシャッターを
私が代わりに押してあげた
それは気づくと声をかけてしまう私のクセで

ありがとうとたくさん喜ばれると恥ずかしくて
目を合わせずに歩き出す
これもクセで

空に向かって
私は特別いい子じゃないと思うけど
これぐらいなら今余っている私の手を使うことができるよ



まぁまぁだよね?
だから神さま
私を見つけてください





と泣いた

本当は恋人募集のお願いなのだが笑






その2時間後
同じ場所を通る帰り道声をかけられた
若い男の子で運命だと思った

一年後、その人が学んでいた勉強に誘われて
一緒にいられるならと勉強を始めて






人生で初めて人がそれぞれに違うことを知る








私はみんなが同じ考えだと思って生きてきた
ようだった
そのことにも気づけないほど
人と距離があり
自分を客観視することはなく
人との比較がみんなのようにわからなかった
今なら理由があったのだろうと


誤魔化さないと生きられなかったとか
今ここで気づく必要があったとか
そもそも視点がちがうみたいだった、とか


なにかしら思うが
そこから自分を見つめることの選択以外できない時間を生きることになる
そして今世以外を思い出し始めるが
それがなんのためかわからない
どうしたらいいのか
どう扱えばいいのかわからない
苦しくてのたうち回る時間を生きた
逃げられるなら男の人にだってに逃げたかった
けど、そのことも私の中の違和感でちがうことがわかる
冷静な自分と混乱する自分
すべて私が作り出しているからすべてウソなんじゃないかと、思い出した記憶も疑い続ける


 

私の中にあるものと
世界や人にあるものが
ちがう




なんのために私は生きているのか






この記憶が世界を救う





みたいなことを思いたくなかった
書いていても虫ずが走る
思考は現実化してしまう
私が活躍する世界を創り出すことに酔いしれる感覚は気持ち悪かった








自分の中の違和感と混乱と冷静さと
わけるように
わけるように
よくここまで生きてきたと思う





生きていることからも逃げる選択もあるなと思った





そう思ったらふと笑えた
そんな日を何回か生きた




私は自らを終わらそうとは思わない
それはなぜか




なにが起きるかは誰もわからないから
私の想像は遥かに超えて
なんだこんなもんかとか
私がこんなことを‼︎とか
なんでもいいし
どれでもいい
たぶんどちらでもないと思う

そんな私の想像を超える今が目の前にくることは
鼻で笑えるくらいに楽しみにできる
私の想像なんてそれぐらいへっぽこだと思っている







たくさんの記憶を持っていても
なにを手に入れてもいい




ただ少しでもなにかの役に立てるなら
そのために今が私にあるなら
今余っているこの手でなにかがしたい






今もなんのためにあるのかわからない記憶と
生きる場所もわからないまま
日々苦しさと悲しみを持つ自分と生きている






そこからは逃げていない