ここのところ
また眠さがたまらず
書きたいことやタイトルが浮かぶのだが
なかなか書く気も起きない
久々
なんだか面白い言葉からの気づきだったので起きて書くことにしたが
このキャッチーじゃないタイトルで笑う
寝ぼけ眼で頑張ってこのタイトルだ笑
誰にひっかかるのか笑笑









私たちは物理次元におり
その視点は、目で見える範囲でまず認識する

これは一般的な現代
または今の私の世界において
(とわざわざ書いてみる)
違う時代(または世界線、人)には
その捉え方ではなかったと思うからである
いつぐらいかとイメージして
ふと2,500年前ぐらいから変わったのかなと

検索すると
なるほど弥生時代辺りに差し掛かるところか
まんざらイメージと時代背景がまちがいでもなさそうかな


弥生時代が偶像崇拝だったと言いたいわけではないし、どうだったかは知らないが



あくまで、偶像的視点がどこら辺から人間が扱うようになったか、である

イコールの書き方のようにしてしまうが
分離の考え方がいつ頃から当たり前になったかを私の中に探していた

今現在、私の中にある分離と向き合っていて
ふとタイトルのような視点で見出して面白くなったのである


大きくわけて縄文と弥生としてしか
私たちが認識する分け方がないのが難点だが笑
ここはきっと大きい転換期だったのだろうとは思っている

その前のことが、ひとくくりって認識の曖昧さ笑
2,500年も経つと、そうそうは記録として物理次元に残らないものなのだな




さて、偶像である


私たちは、なにから分離しているかで
多く聞く表現で
神さま、大いなるもの
などとの世界からの分離で
この肉体を個として、分ける視点にいるから起きていることだと思っていて

それらはわかりやすく
名前がついたりイメージできる偶像があったりする

ユダヤ教かキリスト教か
プロテスタントかカトリックか
みたいに偶像崇拝か否かでもあるように

で、どうしたら分離を超えるかなと
次元の視点を増やすとはどんな感じかなと
夢うつつで考えていた


時代背景にある
分離を作り出す恐れや概念について
また機会があれば書きたいのだが





とにかく
ひとりでぶつくさ考えていたら
私の視点が〝内包する〟という角度で見ると世界観が変わるので、それを書きたかった




私という意識は
肉体を通しての
個の視点からの体験のためにあるが

個以外の視点は、それらを内包する意識だなと
それが連なるように広がるのだなと

それを例えば大いなるものと呼んで
大いなるものは
私を内包しており、私も大いなるものであり
よく大いなるものの一部なんて表現もあるが
一部であり、結果全体、すべてであり
に繋がるのかとひとりごちた


神でもいいのだが
偶像的に視点を絞るよりも
泡のようにそれを包んでいる視点の方が
私にはしっくりきた
みんながいろいろ表現しているが
視点を持ち体感するとなかなか面白い



表現としてはおかしいが
そもそも偶像されたのは私たちか
なんて思ったりする

私たちは神をかたどったらしいじゃないか笑
視点を絞りたかったのは、そもそも大いなるものや神である





その視点から私を体験する






が当たり前になる時代への転換期
に私はいる