大震災から一年。
一年前の今日は、ちょうど目黒で仕事をしていた。
体験したことのない大きな揺れに思わず悲鳴を上げた。
ビルから出て最初に目に飛び込んできたのは、道路の向かいの電柱が激しく揺れ、一軒家も大きく揺れていた。
地震で大きく揺れる電柱や建物を目にするのも初めて。
女の子2人が中央分離帯でギャーギャー言ってた。
震度は!? 震源地はどこ!?
普段はほとんど使わない携帯のワンセグをつけた。
宮城県沖、震度7、津波に注意。
そばにいたのは気仙沼出身の友達。
第一報を知った途端すぐに実家に電話をかけるけど繋がらない。
ビル内に戻り、会議室で各自ワンセグをつける。
1人はNHK、1人は日テレ、1人TBS、1人はテレ朝。
津波の映像が映し出された途端、友達が震えていた。
「もうやだ、帰りたい、家に帰りたい」
結局、その後すぐに仕事は中止。
だがすでに交通網はマヒ状態。
私も親と連絡が取れなかった。
都内在住だけど1人で猫4匹と同居。
地図を頭に叩き込んで徒歩で実家に向かうを決意した。
歩きながら電話をかけ続けても一向に繋がらない。
メールも送信できない。
歩き始めてから4時間後、やっと連絡がついた。
家具が倒れたり、テレビが倒れたりなどは一切ないし、全員無事だから来なくても大丈夫だよ、と。
その言葉に甘えてまっすぐ家に帰ったら、えらい飛び散っていた。
まず、枕の上にテレビが吹っ飛んでいた。
寝ていたときだったら、確実に頭割れていたと思う。
台所の洗いカゴも床に転がっていた。朝食器類を片付けていたよかった。
幸いにもパソコン&プリンタは微動だにせずデータも壊れてなかった。
翌日は朝から実家に行って、猫用カートを玄関に準備。
懐中電灯とラジオの電池チェック。
非常袋の中身確認。
集合場所の確認。
ほかに、近所のスーパーに買い出しに行ったけど、人が凄かった記憶がある。
そして、宮城にいるおばさんと連絡が取れないでいた。
内陸の方だからたぶん無事でいるだろう、無事でいてほしいと願った。
おかげ様で無事だったけど、連絡が取れたのは1週間以上経ってからだった。
前出の気仙沼出身の友達が、お母さんと連絡がとれたのは1ヶ月近く経ったくらいだった。
たまたま、また仕事で一緒になり、私がトイレから戻ったらすごくうろたえていた。
恐る恐る聞いたら、彼女のいとこから電話が入り、道でばったりお母さんに会い、その場で電話をくれたそうだった。
お母さんは気仙沼港のお土産物屋さんでのパート上がりで、さあ帰るか…というタイミングで地震に遭遇し、みんなで建物の屋上に逃げていたと。そのときに携帯電話をなくしていて連絡ができないでいたと。
「お母さん生きてたー!」と号泣していた。
ずっとずっと不安な気持ちを隠したまま気丈に振舞っていたんだ。
人前で泣くというのが大嫌いと言っていた彼女がわんわん泣いていた。
それからは、微力ながら少しでも手伝えることがあれば…と、着てない服、使わないバッグ、ストックしていた文房具、生理用品、カイロ、ほかにも必要なものを少しだけど集めて一緒に送ってもらった。
季節ごとに必要なものは変わる。
暑い季節にはハエと異臭の被害に苦労する。
乾燥する季節には瓦礫の粉塵被害に苦労する。
今日で丸1年だけど、復興への道のりはまだまだ長い。
阪神大震災で15年はかかっている。
波にすべてを飲み込まれ流された分、さらに時間もかかるだろう。
1年経ったからって、終わりにさせてはならない。
原発の状況も不安だし気になるだろうけど、それだけではないということを忘れてはならない。
岩手、宮城、福島以外にも茨城、千葉も大きな被害を受けているということを忘れてはならない。
もし、この先関東大震災が起きてしまっても、できる限り平常心を保つよう努力して今回の教訓を忘れてはならない。
人間1人ではないということを忘れてはならない。
どんなに小さくても希望を持ち続けて1日1日を大切に生き続けようと思う。