今日は令和6年(2024)6月16日(日)

 

昭和39年(1964)6月16日(火)発生の新潟地震から今日で60年が経つ

 

当時小学校1年生だった私は、給食に出されたマーガリンを床に落としたままにしていて午後の授業が始まる前に(小林?)先生に注意を受けた

 

正にその時(午後1時02分)に震度5の激しい揺れが襲った

 

揺れが収まり一階の教室から皆がグランドに避難したが、既に液状化により地面が割れ地中から地下水が噴出していた

 

落としたマーガリン(チョコマーガリンだったような記憶も?)を拾うよう言われた私は一番最後にグランドに出ることになってしまう

 

グランドにクラスごとに整列して待機して数分〜10分くらいで自宅自営業の父が迎えに来て、先生から父に引き渡された

 

父は用意周到に私の長靴を用意してきており、それを履き、徒歩5分位の自宅に向かって冠水した道路を進むが。第1波の津波により破堤し急激に水位が増したため父に背負われたが、水位が父の胸まであり怖かったことを記憶している

 

床上浸水している自宅に着き、二階に上る 

 

当時の家族は父母、祖父母、弟妹、叔父叔母、石川さんという住み込みの職人で

私を含めて10人の大家族だった

 

だが母、妹は出生間もなくのため長岡市に行っており、弟は高台の保育園におり、叔父、叔母は中心部の職場にいた

 

したがって自宅二階には父、祖父母、石川さんと私の5人がおり恐怖と不安の中で夜を明かしたはずである

 

翌朝、義理の叔父二人?が筏に乗ってやって来て、私一人を乗せて同じ新潟市堀之内の叔父宅に連れていかれた

 

そこで小学校再開までの長い?期間を過ごすことになる

 

小学校再会により実家に戻り、また様々なこと共があったが、今も記憶に強く残っているのは、地震発生時のこと、父に連れられ実家に向かう途中、浸水により父に背負われたこと、水位は父の胸まであったことなどである

 

以上、被災時の最初の一部を回想してみたが、泥水に埋まった実家を再び住めるよう奮闘した父、祖父母らの苦労は如何ほどだったことか、想像に難くない

 

被害の無かった叔父宅で不自由なく過ごし、復旧途上の自宅に戻った私は被災者としての苦労を体験しなかった

 

当時33歳の父は24年後にこの世を去り、母、祖父母も相次いで逝った

 

60年の歳月は瞬く間に去ったが、この日、被災した場所を訪ねて往時を偲んでみた

 

この時10年日記に書いたものを以下に転記する

 

 

(10年日記)

 

「昭和39年(1964)の新潟地震から今日で60年」

正午頃、自宅を出て、当時小学校1年生で被災した現場である北部総合コミュニティセンター(旧入舟小学校〕へ向かう 

近くの旧北部コミュニティセンターは壊され跡地にダイソー、ひらせいが入っている施設が建っていた

北部総合コミュニティセンターの駐車場に駐車し、コミセンや付近の写真を撮る

 


当時小学校1年生で被災した現場である北部総合コミュニティセンター(旧入舟小学校)手前右の建物は消防出張所
 

 

5階建ての3階舟江図書館ほか建物内部を見学し、当時の1年2組の教室、避難したグランドの場所を現在の場所で照らし合わせてみる

薄曇り時々晴れの天気は、1時5分前に一瞬霧雨になり風も吹き始める

玄関前で午後1時02分を迎え、スマホで03分の地震訓練の配信を受ける

しばらく周囲を逍遥し津波第1波の想定到達時間の1時17分ころ北陸ガスを過ぎた場所、つまり津波による浸水で父に背負われた付近で60年前を回想する

 


津波による浸水で父に背負われた北陸ガス付近



実家の跡地(浮洲興源寺駐車場)で以前から隣の早川さんのご主人(50歳)と昔話、現在の近所の様子などを聞く

 


実家の跡地
 

 

コミセン跡地のダイソーで買い物し、高台の旧舟栄中学校(現 柳都中学校)、石川宅から再び実家跡地を通り自家用車に戻る

自宅には午後3時前に帰宅

 

 

 次に「水害と記憶」という新潟市の編んだ文章を上げる

 

昭和39年(1964年)6月16日午後1時1分、粟島沖を震源とするマグニチュード7.5の地震が発生しました。新潟市内では激しい揺れと共に地割れが走り、大量の水と砂が一気に噴き出しました。土地の隆起や沈降によって道路や橋は波打ち、建物が倒壊したり沈んだりしました。これらは地中の砂と水の均衡が崩れて液状化したことが原因で、被害をさらに大きくしました。
 信濃川の河口に近い入舟小学校では、昼食後の休憩時間に激しい揺れが襲いました。児童と教職員はいったん中庭に避難しましたが、信濃川を遡上(そじょう)した津波が護岸堤を越えて浸水してきたことを知り、避難場所を屋上に移しました。近隣住民も続々と避難してきたので、屋上は多くの人で満杯になりました。
 1週間後に水が引くと大量のごみと土砂が残り、処理には多くの労力が必要でした。液状化現象と津波による水害は、信濃川河口に位置する砂上の都市・新潟を象徴する地震被害でもありました。

 

 

 

 

市内が浸水し学校の屋上に避難した人々(旧入舟小学校所蔵写真)

 

 

 

 

 

水が引き切らずに残った泥水と残骸(中央区横七番町通1付近)