こんにちは。

 

今回は『心にある「はかり」を正しく用いる』と題して書きます。

 

突然ですが、生きていると本当に多くの決断を迫られますね。また、人は無意識にも数え切れない程の決断を一日で下しているようです。こちら(STUDY HACKER)の記事によれば、人は一日最大で三万五千回もの決断を下しているといいます。たとえば、アリゾナ大学とテキサス大学の合同研究によると人が一日に使用する単語の数は約一万六千語であり無意識とはいえ、それだけ多くの決断を下していることになります。また、コーネル大学のJeffery Sobal教授らの調査では、食事に関する決断は一日に226.7回、米国労働安全衛生局の報告では、車を1.7Km運転するにつき、二百を超える決断を下しているといいます。更には、ケンブリッジ大学Barbara Sahakian教授によると、言語、食事、交通といった事柄だけでも、一日で平均二万回以上の決断を下しているようです。

 

このように多くの決断を下している脳は、身体と同様に疲労し、「決断疲れ」という現象が引き起こされるようです。心理学者のジョナサン・レバーブ氏とシャイ・ダンジガー氏が刑務所の判事の「決断疲れ」について行った調査によると一日の終わりに近付くほど衝動的な決断が多くなり、決断の先送りも増えるということが分かったということです。繰り返しますが、人は言語、食事、交通といった事柄だけでも、一日で平均二万回以上もの決断を下す必要があります。当然ながら、その他の世の事に関われば関わる程に、人は多くの決断を迫られることとなるので脳は疲れ果て、より酷い決断疲れが引き起こされるのでしょう。その結果、衝動的で愚かな決断をしてしまう可能性は高まり、決断の先送りも増えて、益々、決断すべき事が増えて行き、いよいよ抱えきれなくなり、心労が溜まり、無気力になって自己嫌悪に陥り、自殺をも考えるようになってしまうのでしょう。いわゆる鬱病やその他の精神病で括られるような症状が出てくるのでしょう。主イエスは、「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。」(マタイによる福音書六章三十一節参照)と述べられており、どうでもよい世の事で決断疲れすることのないようにと人間を愛するが故に人間のことを思って、現代に生きる我々にもご忠告されているのではないかとわしは思います。また、主イエスは、「だから、明日の事まで思い悩むな。明日の事は明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイによる福音書六章三十四節参照)とも述べられており、この御言葉は先述したように、決断疲れの症状の一つである「決断の先送り」についての警告とも受け取ることができます。よって、人は世俗の事については極力首を突っ込まず、「何よりもまず、神の王国と神の義を求めなさい。」(マタイによる福音書六章三十三節参照)と教えられた主イエスの御言葉に忠実であるべきです。多くの世俗の事に首を突っ込み、選択し決断することが増えれば、それだけ決断疲れが生じ、精神も病み、気力が削がれ、やるべき事が益々できなくなります。

 

統合失調症、発達障害、鬱病、躁鬱病等とこないなもんは医薬業界が勝手にでっち上げた存在せえへん病気や。こちら(YouTube)で、如何に精神科が科学的根拠に基づかず、出鱈目で利権まみれか分かるであろう。(中略)現代で精神病とされてるんは、全部薬によって患者が増えただけで、大衆が無知で愚かで世俗の権威を盲信してそないな病気があると盲信し、薬を受けて中毒患者にさせられた結果や。こないな仰々しい名前を付けて病気と認定し、患者を作り上げ、薬漬けにして製薬会社と医者が患者を飼い殺しにするのが目的でしかあらへん。心労が溜まり、暗い気分、落ち込んで何もする気になられへん等という状況になったら病院の精神科や心療内科に行くのはやめましょう。そないなことしてもちっとも良うならへんし、薬を切らすと禁断症状が出てやめられへんし、一度ハマったら抜け出すのが非常に困難になる。つまり、覚醒剤等といった薬物中毒になるだけってことにええ加減気付けよ。向精神薬も立派な麻薬や。役所が認定してるとか、病院や医師がそないな病気があると自分たちの利権のために認定してるに過ぎひんのを理解せい。病院に行くよりも、まずなんでその原因が何かを考え、取り除こうと考えへんのか。学生は、学校や人間関係に疲れて行く気を感じひんのやったら休学するか退学すればよろしい。(中略)社会人が仕事に疲れたなら、そないな仕事なんか辞めてまえばええんや。命よりも仕事が大事な訳ないやろ。考えろよ。それで思い詰めて自殺なんてアホやろ。なんでそうなる前に仕事を辞めようとか転職しようと思わんのか。最悪、生活保護がある。生活保護はそのためのもんやろ。

          (真の聖書福音と預言「黙示録十八章から分かる薬の危険性 後編」)

 

上記引用文にある動画のとおり、精神科は、米国精神医学会が出版している「精神疾患の診断・統計マニュアル(DSM)」に基づき診察しており、それは日本も例外ではないようです。しかし、当該動画にあるように、この診断基準は何と多数決や投票により決定されるとのことで、科学的根拠に基づくものではなく、それ故出鱈目であるのです。多くの世の煩いを抱え込めば、必然的に決断疲れに陥り、そのような状態が長く続けば無気力になり、苦しくなり一人では耐え切れなくなって精神科に駆け込めば、「精神疾患の診断・統計マニュアル(DSM)」に基づき診察されて、その時の症状に一番近い出鱈目の病名を付けられ、向精神薬という麻薬を処方されて精神科から抜け出すことが難しくなるのです。よって、耐え切れない程の心労を抱えてしまったなら、一旦その場から離れることが肝心であり、出来ればそのような状態になる前に離れなければいけないです。長時間労働についても本当に気を付けなければいけません。先述したとおり、定時の終業時間でさえも、それに近付くにつれて衝動的な決断や決断の先送りが増えるのに、更なる長時間労働を行っても能率は勿論の事、酷い決断疲れに陥り、そんな事を毎日続けていたら、心労は極限に達し、自殺をも考える精神状態になってしまうのは当然のことでしょう。こちら(マイナビニュース)の記事のとおり、『現代用語の基礎知識 選「2025 T&D保険グループ新語・流行語大賞」』の表彰式が太陽暦十二月一日、都内で行われ、「働いて働いて働いて働いて働いてまいります/女性首相」で年間大賞を受賞した高市首相は、「決して多くの国民の皆様に、働き過ぎを奨励するような意図はございません。また長時間労働を美徳とするような意図もございませんので、どうか誤解のなきようにお願いをいたします」、「働いて」を5回繰り返したことについては、「その場の雰囲気で、大きな意味はございません(笑)」と述べたようです。自身の発言の火消しに躍起になっているようにも思われ、報道機関も与して流行語大賞なるものを使って高市首相の失言を無かった事にしようとしているのではないかと推測します。このような火消しをしなければいけないほど批判が多かったのでしょうし、今、高市政権を潰すのは支配層にとっては都合の悪い事だったが故に発言の本心を今は否定させたのではないかと推測します。発言の本心は、やはり自分たち政治家も働くから、国民も働け、もっと長時間労働をせよということだったのでしょう。こちら(FNNプライムオンライン)の記事にもありますが、昨年度の岩手県内の長時間労働が疑われる279の事業場について労働基準監督署が監督指導した結果、121の事業場で違法な時間外労働が確認され、このうち、50の事業場では時間外・休日労働が月80時間を超えていたとのことです。調べれば出てきますが、他の都道府県でも未だ多くの事業場で違法な長時間労働が行われているのが実態です。このような状態を高市首相や政府が知らなかったとは言わせませんし、このような実態を知っているか知らないかを問わず、実際日本は長時間労働が蔓延っている実態があるのに「働いて働いて働いて働いて働いてまいります」なんて言葉を一国の首相が発言すること自体に問題があるのは言うまでもないです。また、「その場の雰囲気で、大きな意味はございません(笑)」と笑って誤魔化せるような発言でもないです。実際こちら(北海道新聞デジタル)の記事のとおり、高市首相は労働時間規制緩和に意欲的であり、規制緩和は長時間労働是正とは逆行しているのは誰の目にも明らかです。やはり、本心は国民を馬車馬のように働かせたいのでしょう。主イエスが、「心に大量にあることから口は話すからや。」(マタイによる福音書十三章三十四節 ミカエル氏訳 真の聖書福音と預言「人を判断する基準」)と教えられたとおりであり、高市首相は労働時間規制緩和によって国民を長時間労働で縛り付け「働かせ働かせ働かせ働かせ働かせたい」というのが本音なんでしょう。国民を奴隷として死ぬまでこき使い、搾取して、自由な時間を奪い、聖書を読む時間や実践する時間を奪い、地獄行きの道連れにしたいのでしょう。それは悪魔の悲願であり、悪魔に忠誠を誓い指示通りに動いている人間たちもその悲願のために働いているのです。その自覚があるのか無いのかは分かりませんが、悪魔崇拝者らは悪魔の悲願である地獄行きの道連れにする人間を増やすために日々活動していることは間違いありません。有限であるこの世において無意味な労働に長時間縛られていては無気力になって、聖書の学びや実践、福音伝道、善い行い、兄弟で集い親交を深めること等を行うことが出来ず、地獄行きになってしまいます。よって、我々大衆は皆で団結して売国政府に猛抗議し、日本人を陥れようとしている売国奴らを辞めさせるべく数万人、数十万人規模以上の大規模な抗議活動等を今すぐにすべきです。

 

先述したように、人は一日最大三万五千回もの決断を脳内で下しています。決断を下すまでには、まず決断の目的を明確にし、次にそのために必要な情報を収集し、更に集まった情報を比較・検討してようやく決断に至ります。これら一連の脳内の処理は、日常的なことで慣れたことであれば脳内で瞬時に終わるのでしょうが、不慣れなことであれば、当然、脳内の処理時間はより多く要するでしょう。繰り返しますが、どちらにせよ一日に決断の数が多ければ多い程、決断疲れは酷くなるのは間違いありません。また、決断の数が多い程に間違った決断を下しやすくなることも明らかです。些細な間違いなら後で修正すればいいだけの事ですが、時には取り返しがつかないような重大な間違いを犯してしまったり、些細な間違いでも積み重なれば取り返しがつかない事態になったりします。こちら(信仰におけるボタンの掛け違いは致命的)の過去記事では、些細な間違いや小さなズレが積み重なると取り返しがつかない事態を招くことになることついて書いていますので、ご一読いただけると幸甚です。

 

人間は皆必ず死にます。そして、最大の取り返しがつかない事態は必ず死後に訪れ、この世で生きている内に間違った決断をし続け、悔い改めないなら、各自の行いに応じて神から裁かれて、地獄行きに定められます。こちら(真の聖書福音と預言「死後の世界」)の記事に詳しく書かれていますので死後の世界を信じていない人も現実逃避せずに読まれることを推奨したします。

人は不完全であるが故に誰でも間違えを犯す生き物です。わしも今まで小さなものから大きなものまで多くの間違いを犯してきました。それは多くの間違った決断を下してきてしまった結果です。過去に犯してしまった愚かな決断を嘆いていても仕方がなく、今後同じ過ちを繰り返さないように対策を取らなければ、人は成長しません。それでは正しい判断をするにはどうしたらいいのでしょうか。

 

京セラ等の名誉会長であった故稲盛和夫氏は、『私たちの心には「自分だけがよければいい」と考える利己の心と、「自分を犠牲にしても他の人を助けよう」とする利他の心があります。利己の心で判断すると、自分のことしか考えていないので、誰の協力も得られません。自分中心ですから視野も狭くなり、間違った判断をしてしまいます。一方、利他の心で判断すると「人によかれ」という心ですから、まわりの人みんなが協力してくれます。また視野も広くなるので、正しい判断ができるのです。(稲盛和夫OFFICIAL SITE より引用)と正しい判断には利他の心を判断基準にすべきだと述べられています。確かに利己の心で判断するより利他の心で判断した方が、視野が広くなるので正しい判断を導き易く、間違った判断は減るはずです。とても有益な言葉ではありますが、不完全である人間が正しい判断をし続けるには曖昧な基準であるのは否めません。利他の心で判断しても判断すべき事が複数あれば、判断するのは不完全な人間であるのでいずれ判断を誤る時が来るからです。

 

確かに、善を行い、罪を犯さへん正しい人間はこの地に居れへん。」(コヘレトの言葉七章二十節拙訳)と聖書にあるとおり、誰でもこの悪い仮の世に生きてる限り、人生において、生まれてから死ぬまでずっと完全無欠な人は一人も居らず、必ず神の律法に違犯する罪を犯し、それ故に人間全員が神にとっては死刑囚であり、その死刑囚であるすべての人間が永遠の命を得て神の王国に入るには、主イエスによる救いが必須であり、救われるには信仰と悔い改めが必須で、主イエスを模範として同じような生き方(この世の富や快楽等を追求せず、神の律法遵守、慈愛から出るええ行い、伝道等)をせねばならんということや。

        (真の聖書福音と預言「成功するためには」)

 

上記引用文にもあるとおり、聖書(※当ブログでは偽使徒パウロの書簡を除いたものを聖書と定義しています。)には、この世には正しい人間は一人も居ないことが書かれています。不完全で正しくない人間には、いくら利他の心で判断しても正しい判断をし続けることは不可能です。よって、まずは自らの不完全さを矯正するための完全な正しい基準が必要であり、また物事を正しく判断するためにも完全な正しい基準が必要です。その基準は不完全な人間が作ったものでは意味を成しません。

人間よりも優れている完全であられる御方は神しか存在しません。その完全であられる神の御言葉、律法、掟、戒め、秩序が記されているのが聖書なのです。よって、聖書を読んで学び実際に行うことによって、その完全な正しさ等を身に付けることになるので不完全な人間が完全な神に少しずつ近付くことになるのであり、完全である正しい御方の言葉を身に付けてそれを判断基準にすれば、間違った判断をすることが無くなるのは当然のことです。神など存在しないと頑なに認めない人が多いですが、自分自身や目の前に広がる天地や海、目の前に存在する動植物や正確に運行する天体等は誰かが創造しなければ絶対に存在しません。無から有を創造できるのは神のみであり、神がすべてを創造されたことは聖書の創世記に書かれています。聖書の言葉は神の御言葉であるので、神など存在しないとかすべてのものを創造したのは神ではない等と言うならば、神は嘘つきだと言っているのに等しく、そのような人は自分の不完全さを棚に上げて間違ったことを言い、間違った判断をしていることに気付いていません。一度も聖書を読んだことがない人は、死後に後悔することがないように是非この機会に聖書を通読してみることを強くお勧めします。何故なら、まずは読んでみないことには判断のしようがないからです。通読後、どのように判断されるかはその人次第です。また、こちら(真の聖書福音と預言「【第七回】何故聖書を信じるか」)の短編動画を視聴すれば、何故聖書が信用出来るのかがよく分かります。

 

聖書には多くの人間が実際に行ってしまった間違った判断等も数多く記されており、その過ちから学んで、自分を正すことにも役立てることが出来ます。今回は真の聖書福音と預言「神に砕かれるか、神に逆ろうて滅びるか」の記事にある原語に忠実に訳された下記の翻訳を用いて考えたいと思います。

 

「別の例えを聞きなはれ。ある人、家主が居って、ぶどう園を建設し、それに垣根を付け、その中に搾り場を掘り、櫓を建て、それを農夫たちに貸して旅に出た。しかし、実の時(実を結ぶ時)が近付いた時、その実を取るために、彼の僕たちを農夫のところに遣った。すると、農夫たちは彼の僕たちを捕まえ、一人を打ちのめし、一人を殺し、一人を石で打った。
再度、最初のよりも多くの別の僕たちを遣ったら、農夫たちは彼らに同様にした。
しかし、最後に、彼の息子を遣って言う、

『(彼らは)我が息子に恥じ入らされるだろう。』

だが、農夫たちはその息子を見て彼らの内で話し合った。

『これは相続人だ。さあ、彼を殺して、彼の相続財産を取ろう。』

そして、彼を捕まえ、ぶどう園の外に追い出して殺した。
それ故、ぶどう園の主人が来たら、この農夫たちに何をするやろか。」
(彼らは)彼(イエス)に言う。

「それらの悪人どもを酷く滅ぼし、それらの時(実を結ぶ時)に実を彼(主人)に納める別の農夫たちにぶどう園を貸すだろう。」


イエスは彼らに言わはる。

「聖書にあるのを一度も読んだことがあらへんのか。『建設者たちが拒絶した石を、これが隅の頭とされた。これは主から生じ、我等の目には驚くべきことや。』
これにより、神の国はあんた方から取り上げられ、王国の実を結ぶ民族に与えられるだろうと、あんた方に言うとく。
そして、この石の上に落ちる者は打ち砕かれるだろう。しかし、(その石が)落ちる者を、その者を粉砕するだろう。」

そして、祭司長たちとファリサイ派は、彼の例えを聞いて、(イエスが)彼らについて言うてると理解した。
また、彼(イエス)を捕らえようとするが、群衆を恐れた。群衆は彼(イエス)を預言者のように思てたからや。

(マタイによる福音書 二十一章三十三節〜四十六節 ミカエル氏訳 真の聖書福音と預言「神に砕かれるか、神に逆ろうて滅びるか」

 

上記聖句の例えの解釈等については聖句引用元の記事を是非読んでいただきたいです。当記事では解釈等の深い話ではなく、当時この例えを聞いていた祭司長、長老、ファリサイ派等といったこの世の指導者や現在この例えを読んでいる我々読者が、そもそも当該例えから弁えるべきだったこと、弁えるべきことは何であるのかを考えたいと思います。

 

当該例えを話されたのは主イエスであり、当時それを聞いていたのは祭司長、長老、ファリサイ派等であり、現在我々もその例えを読んでいます。主イエスは当該例えを聞いているすべての人に農夫たちから酷い仕打ちを受けた家主は農夫たちに何をするやろうかと問い、彼らは、「それらの悪人どもを酷く滅ぼし、それらの時(実を結ぶ時)に実を彼(主人)に納める別の農夫たちにぶどう園を貸すだろう。」と返答しました。彼らは酷い仕打ちを受けた家主に感情移入して自分が家主の立場ならどのような仕打ちを農夫たちに返すのか想像して返答したのではないかと推測します。当該例えを聞いて何一つ悪くない家主とその息子や僕たちの立場に立って考えることは容易です。この例えを考える際に最も重要なのは、すべて正しい家主らの立場に自分が立つことではなく、自分が悪い農夫の立場に居ると自ら自覚することだと考えます。当該記事で何度も述べているように、すべての人間は不完全であり、過ちを犯す存在だからです。即ち、主イエスからこの例えを聞いた際に、「自分はこの例えに出てくる農夫のような考えはないだろうか…。」、「この例えに出てくる農夫について他人事として捉えていいのだろうか…。」、「農夫が行った暴力や殺人等は行わないが、自分の心の中にそのような悪い思いがあるのではないか…。」、「自分の内にも少なからず農夫たちのような肉の欲や肉の思いがある。この例えから自分を戒めよう。」等と考えることが必要ではないかということです。家主の立場になって考えることも当然必要ですが、自分は農夫の側の人間であると弁えて悔い改めることがこの例えでは最も重要なことだと考えます。先述したとおり、神の律法、掟、戒めを破ったすべての人間は神にとっては全員死刑囚であり、神の御目からは、当該例えに出てくる農夫と何ら変わらないからです。当該聖句箇所において、自分たちが農夫の立場であることに気付かなかった祭司長、長老、ファリサイ派等の人たちは、例えの中にある『(彼らは)我が息子に恥じ入らされるだろう。』という言葉のとおり、主イエスから彼らが農夫の立場であることを指摘されて、自分たちが家主の立場だと思い込んでいたが故に恥じ入らされました。当然、この事は彼らだけでなく現代を生きるすべての人間に適用されており、我らは当該例えに出てくる農夫たちと同じ罪人であると弁えて、悔い改めなければ最後には神によって酷く滅ぼされることを知らなければいけません。指摘される前に自分が農夫の立場であることに気付けるなら最高です。また、指摘された時に、素直に受け入れ、悔い改めるなら何の問題もないのでしょう。しかし、問題なのは、指摘されても感情的になり、自分がそうだと頑として認めない人や心では認めていても指摘されたことに腹を立て、口では反抗するような人たちです。まさしく祭司長やファリサイ派の人たちはそのような感情的な態度をとったのであり、主イエスの指摘に腹を立てて、感情的になり、彼を捕らえようとしました。彼らは指摘を受けても正しさと何かを天秤にかけて正しさを軽んずる人たちです。例えば、彼らは正しさと自分自身、正しさと権力、正しさと富等を天秤にかけ、正しさよりも自分の思いや欲を取る自己愛者であるといえます。言うなれば、完全なる正しさ、正義とは主なる神のことであり、それよりも自分の思いや欲を重んじるならば、神を軽んじる自己愛者であり反キリストであるといえます。主イエスは、「あなた方の量るそのはかりで、あなた方にも量り与えられるだろう。」(マタイによる福音書七章二節参照)と述べられており、正しさを量るのに相応しくない「はかり」を用いて量るなら、自分が受ける裁きはいいものではないことは確かです。繰り返しますが、正しさ、正義を軽んずることは、主イエスの御言葉に逆らうことと同義です。主イエスから恥じ入らされたのなら、その指摘を素直に受け入れ、自分を退けて悔い改めるのが真のキリスト者なのです。

 

実社会でも正しい事が軽んじられ、正しい事を言う人は煙たがられることが多いですね。例えば、ある組織において実際に間違ったこと、改善した方が良いこと等があっても、長い間、その組織でそれらを常識として行ってきた人たちは、後からその組織に入って改善の提案や正しいことを言ってくる人を疎ましく思ったり、面倒なことを言う厄介者として扱ったりして、中々正しいことや改善提案を受け入れません。このような事が世に蔓延っており、正しい事なのに面倒だとか後から入った者がうるさい等の正当な理由もないのに正しい事を言う人の芽を摘んでしまう人が実に多く、この世が良くならない一つの要因だと感じています。自分たちの決めたことが正しい、長年行ってきたことだから今更変えるのは面倒臭い、後から来た者が偉そうにうるさい、年下のくせに出しゃばるな等の不当な理由で正しい提案を受け入れない者が多いのは非常に問題だとわしは思います。「一世紀当時、ファリサイ派どもは、自分らの間違うた不法の権威を守るため、正しい教えと行いをしはった主イエスを身勝手にも憎み、殺そうと狙い続け、最終的に鞭打ち、侮辱、暴行を加え、十字架刑という残虐な行為によって殺した。(真の聖書福音と預言「神に砕かれるか、神に逆ろうて滅びるか」より引用)と引用文にあるとおり、ファリサイ派たちが自分らの間違った不法の権威を守るために主イエスの正しい教えと行いを退けて最後には残虐な十字架刑で殺したことは、わしが列挙した世の問題とは事の重大性は大きく違いますが、根にあるものは同じように思います。このように正しい事を自分の思いや欲等によって退けることは、実に罪深いことであると認識すべきではないでしょうか。

 

旧約聖書のヨブ記を読んだことがある人ならご存知かと思いますが、ヨブ記三十二章~三十七章には、エリフという若者が自分よりも年長者であったヨブと彼の友人三人に対して彼らの物言いは間違っているとして正すために物申しました。エリフは、「ヨブよ、耳を傾けて我に聞け、黙せよ、我は語ろう。あなたがもし言うべきことがあるなら、我に答えよ、語れ、我はあなたを正しい者にしようと望むからだ。もし語ることがないなら、我に聞け、黙せよ、我はあなたに知恵を教えよう。」(ヨブ記三十三章三十一節~三十三節参照)と語り、自分よりも随分と年上であったであろうヨブらに自分の思いを語り続けました。そして、ヨブと彼らの友人三人は、エリフの言葉に一切反論することなく黙って聞き入れたのでした。それはエリフの言葉はすべて正しかったからでした。ヨブらは年下であるエリフの言葉を感情的ではなく理性的に素直に聞き入れ、自分を退けて悔い改めたのだろうと思います。彼らは自分よりエリフは年下であるから彼の話は聞き入れない等のおかしな判断基準を持ち合わせておらず、彼の発する言葉が正しいか正しくないかを理性的に判断したに過ぎなかったのでしょう。神の民であるキリスト者は、決して感情的では無く、正しさと自分自身や肉の思いや肉の欲等を天秤にかけるような人たちではないことが分かります。また、もしそれらを天秤にかけたとしても正しさを重んずる人たちです。しかし、反対に、ファリサイ派や現代のファリサイ派(偽使徒パウロ教信者)らは、指摘を受けるとすぐに感情的になり、正しさと自分自身や肉の思いや肉の欲を天秤にかけて、正しさを軽んずる人たちです。冷静になって、自分がそのような対応をとっていないか、見極めてもしそうであれば、早急に改めて行く必要があります。

 

少し話が逸れますが、今回ヨブ記を読んでいてふと思ったことですが、エリフの働きは、主の初臨と再臨の前にそれぞれエリヤの働きをする方々の予型ではないかと感じました。何故ならエリフはヨブに悔い改めを説き、主が現れる前に主の道を整え、その後、主なる神がヨブに言葉を発しられたからです。エリフの働きはエリヤの働きをする方々と同じです。それは悔い改めた人々を主の御前に用意する大きな仕事です。神が現れる前に、悔い改めを説く人が居なければ、人々は悔い改めることが出来ず、すべて神によって滅ぼされてしまうのでしょう。それは義人であったヨブであっても同じことで、神が現れる前にエリフがヨブの前に現れ、ヨブに悔い改めを説き、ヨブはその悔い改めの勧告を聞き入れて、悔い改めたので神によって滅ぼされることはなかったと考えます。もしヨブが、自分が絶対的に正しいと思い続けて、自分を退けずにエリフの正しい言葉を受け入れなかったのなら、ヨブ記の結末はまったく違うものになっていたのではないでしょうか。ヨブ記の当該個所から、自分の心の中で正しい言葉と自己愛に基づく自分の思い等とを天秤にかけて自分の思いを優先させるならば、誰であっても滅びてしまうという教訓を得ることができます。神の民は正しい言葉かどうかを感情的に判断することはなく、神の御言葉に基づき理性的に判断し、自分が間違っていたら自分を退けて、素直に悔い改めます。主の再臨の前に現れるエリヤの働きをする方の悔い改めの勧告を受け入れる人は、最期まで忍耐すれば、ヨブ記の結末のように主なる神に祝福されるのだろうと改めて思いました。エリヤについて詳しく知りたい人はこちら(真の聖書福音と預言「洗礼者ヨハネとキリストの再臨前のエリヤ」)(真の聖書福音と預言「エリヤを信じひんのなら滅びる」)の記事を参照ください。

 

主イエスは、「兄弟で互いに愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書 十三章十四節、十五章十二節、十七節)と御命令され、これを新しい掟とされました。しかし、この主イエスの呼び掛けを軽んじる人は多いです。主イエスを愛し信じているなら、この御言葉をも受け入れて呼応して、実践するはずです。実践することによって、この御言葉もその人の魂の奥底に根付くのだろうと思います。人は一人で居ては何も出来ません。信仰の一致した兄弟姉妹が居なければ、切磋琢磨出来ませんし、間違いを犯しても指摘し合うことも出来ません。それ故に信仰の一致した兄弟姉妹が集う必要があるのです。残念ながら、真の聖書福音と預言の著者であられるミカエル氏が運営していた「兄弟の集いの場」は廃止され、「神のイスラエル教会」に一本化されました。こちら(真の聖書福音と預言「兄弟の集いの場」の廃止の告知)を読んで納得された人は教会への入会申請を行い、入会試験を受けてください。残された時間は非常に少ないと思われます。お互い後悔することが無いように頑張りましょう。最後まで読んでいただきありがとうございました。