まだまだ暑いけど9月に入りましたね
お盆に四十九日も終え
先週は2泊3日で猛暑の松山へ
炎天下の納骨式となりましたが、無事終えました
約12年ぶりの納骨式…。
墓地管理会社の石材屋さんがお墓を開けると、ぽつんと姑の骨壺が
ジジ様が亡くなってから、 納骨してしまうのが正直寂しいな…と思ってましたが、二つ並んだ骨壺を見たら 納骨してよかったな~と思えたり
納骨すると 気持ちも 少しずつ整理され、落ち着き前向きになるので不思議なものです
嫁いで約25年
義娘となって約四半世紀
父親が化学者の家の長男に嫁いで大丈夫なの?
結婚前、散々 親に心配され…
姑と夫には“学者は変わってるから 驚かないでね。”と 会う前に何十回も念を押され…
しかしジジ様に会った途端 、そんな心配は吹っ飛び、 全く気取ったとこもなく とても優しくて楽しい義父でした
ジジ様の高尚な考え
私の知らない世界も、近くで沢山見せてもらえました
亡くなってから思い出すのは
ジジ様がかけてくれた
沢山の温かい言葉と 優しい笑顔ばかりです
ジジ様が入院中 よく
“元気になったらドライブに行きたい!子供の頃 兄弟と遊んだ実家の庭が見たい”
と何度も言っていたので、 せめて写真だけでも!と思い、5月下旬に義父の実家へ行き お庭の写真を沢山撮りました。
(水を抜いてますが 庭の↑池の周り)
“来月剪定で今が草木が一番伸びてるのに…来月も写真撮りにいらっしゃいよ” なんて親戚に言われて撮った写真
この池の周りのデザインは100年 同じに保たれてるらしく…
昭和10年位かな?家族写真も庭の池を背景に
入院中 スマホで撮った庭の写真と動画を見せ、”元気になったら行こうね“と話していた 1ヶ月後 にジジ様は逝ってしまいました
猛暑の7月中旬
再び ジジ様の実家へ
大正生まれのジジ様
時代背景を鑑みても、とても苦労した学生時代、学者人生だったと思いますが、愚痴など 一切言わず。
”化学ってのはね…絶対に!人の為に、世の中の為に、善いことに使わないと駄目なんです!“が口癖
戦時中だった学生時代に、召集令状が一度も届かなかったのは、選ばれた化学者の卵達。複数に分かれ 山奥に隔離されたらしく、ジジ様は戦闘機の燃料となる素材の実験をさせられてたとか。
毎年 終戦記念日と戦争の話題が
TVで流れると
” 仲間は みんな僕が作った燃料で死んでいった“ と後ろめたそうに言う
今年2月の百寿の誕生日に お祝いの電話を下さった、80年以上のお付き合いで、ジジ様をいつも“兄貴”と慕う大学時代の同級生の方も同じく。
ジジ様が亡くなった後、お話する機会があり当時の話しに…
”私は山陰の山の中…○○さんは九州の久留米に行かれてね。戦争が終わり再会しました。私達の仲間はみんな私達が作った燃料を入れて死んでいったんです。“
現在は4人になった大学の同級生
毎年 近況を原稿用紙に綴り、1冊の冊子にまとめ約80年近く。
高齢になり人数が10人以下となった為、コロナ直前に 終了となりましたが、とても固い絆の仲間は 皆様同じ思いがあるからなのかな…
”最後まで 現役で化学者として活躍されたのは、私達の仲間ではお義父様だけです!ご立派です!“ と言って下さいました
約100年
最後まで全力で生きた ジジ様
人格的にも 研究の功績も、 沢山徳積みは出来ていると思うので、きっと極楽浄土・最高ランクの世界に 難なく到着してると思ってます
なので あの世のジジ様を心配する事はあまりなく…(?)
残された 家族は悲しいってよりは…
ジジ様が居ないと
つまんないんだよねー
ありがとう お父さん
どうぞ 安らかに~
おっと追伸!?
会社の新事業が ジジ様の亡くなる少し前から動き出しました。
詳しい詳細は まだ社外秘ですが、誰もが知っている大企業との事業になりそうです。
ジジ様の研究していた酵素技術が
相手企業のSDGsフードロス削減にも貢献し、新な分野の新商品の開発にも繋がりそうです。
とは言っても、商品化されたとしても数年先 (開発には時間がかかる)
心ある企業が ジジ様の研究に関心を寄せて下さり、この事業が成功すれば “化学は人の為に。世の中の為になる事に。” と言って研究してきたジジ様も 、社会貢献にも繋がる事業を 喜んで見守って、、、極楽浄土でスキップするかな~