貂の眼を得て雪野より起き上がる
小さな貂のアングルから眺めた雪野の広さ。
基本夜行性だとされる貂だが、日中も比較的活発に動く。
その貂が獲物を得る前の、息をひそめ静かに雪野を見つめている瞬間。
句集『符籙』は最終ページからも読みすすめられる形になっており、
掲句は最初のページに置かれながら、同様に句集の最後の句になっているしくみ。
この句を起点に物語は循環してゆく。
君はもういい魂は春雪野
「君はもういい」は他人からのことばとも自分のつぶやきとも。
春雪野の明るいつめたさに、俳句を表現に選んだ作者の明晰さと冷静さを思う。
魂を春の雪野に遊ばせながら、俳人は常に昨日の自分に飽きて、私を更新してゆくのかもしれない。
ノート書くやうに冷奴を食べる
冷奴をぐずぐずと崩さず、きれいな塗の箸で、升目をつけるようにして食べているのだろうか。
きれいなノートと冷奴の不思議な親和性。
冷奴を食べながら、その食べ方を客観視している自分がいる。
ノートを書くことで、知識が自分のものになってゆくように、冷奴も私のなかにそのようにして入ってくる。
白鳥ののんのんと吸ふパンのみみ
「のんのん」のひびきがやわらかい。
私の住む東北地方では「のんのん」「のんのんさん」「ののさま」は仏様を表す幼児語。
やわらかな冬日差のなかに、
ゆっくりとパンの耳を吸っている白鳥は「食べる」という行為の最中にありながら、実に神々しい。
表札の外され船のやうな家
つげ義春に「海へ」という作品がある。
その中に両親を失い川の上の船の家にひとり生活する少女が登場する。
家庭の中で居場所のない主人公の少年は、その少女と船の家で海へ行く事を企てる。
掲句からその劇画のワンシーンがまざまざと蘇った。
「表札を外された家」から発せられる物語性、しがらみから解放された自由さ、その憧れ。
〜ご恵贈ありがとうございました。
橋本直氏は1967年愛媛県生。「豈」同人。
「符籙とは、「道家の秘文」で「未来の予言書」のことだと辞書にはある。」―自跋より