①人はどうして詩を書くか

 

 あなたはどうして俳句を作るのですか。

 そう尋ねたら、百人に百通りの回答があるように思います。

 日々の出来事を日記のようにつづる事で、生きの証を残したい。

 もともと本を読んだり文章を書くことが好きだった。

 小説を書いてみたいけれどとても難しくて。俳句なら手っ取り早く始められそう。

 あるいは脳トレ、言葉は悪いですがいわゆる「ボケ防止」のために。

 答えはひとつではないし、「正答」を求めるものではないので実に様々あって良いと思います。

 理由はいろいろあれど、私は思います。

 どの方々の根底にも「表現したい」という欲求だけは間違いなく横たわっているのだということを。

 人はなぜ俳句を作るのか、という問いに対して、今、手元に「これ」といった論考がないので※1、現代詩の分野になってしまいますが、 わかりやすい文章があったので紹介します。「しじん」の部分を「俳人」に、「詩」の部分を「俳句」に置き換えて読んでみて下さい。

 

 しじんは、詩をかいておかねをかせぐけれど、

 おかねのために、詩をかくのではない。

 かきたいから、かかずにいられないから、

 詩をかくんだ。詩をかきたいきもち、

 詩をよみたいきもちは、

 こころのいちばんふかいところから、わいてくる

谷川俊太郎

 

詩を書く理由

 植物の中を水がとおるように―。

 つまり植物の表面において水は乾くから。

 植物は根から水を汲むポンプだから

 だから私の中を詩が通る。

 かわく作用がなければ水は揚がらない。

 汲む力がなければ水は通らない。

 そしてそれは私の心の小さな手押しハンドルなのだ。

 地球の水を汲む手押ハンドルなのだ。

永瀬清子

 

(『詩ってなんだろう』谷川俊太郎 二〇〇一年

 筑摩書房)

 

 生きているといろいろな事が起こります。素晴らしい自然を目にした、素敵な人との出会いがあった、とてもおいしいものを食べた、嬉しいこと、悲しいこと。

出来事をきっかけにしてゆさぶられた「感情」を「言葉」という目に見える形に変換して表現してみたい、それが人が詩を書く根本的な動機になるのだと私は思います。

 イギリスの詩人A・Eハウスマンに、詩は「牡蛎の中の真珠のように病的な分泌物」(morbid secretion)である、という言葉があります。

 「病的な分泌物」などというといささか気味が悪い気もしますが、詩は自身の心の奥底の感情を、「言葉」という目に見える形で濃く抽出したもの、と言いかえるとわかりやすいかとも思います。この詩を生む作業は、自身の感情を把握した上になされるというよりは、把握できていないからこその言葉による具現化を求める行為なのだと思います。

これは詩を書く根本的な動機であり、俳句もまたこの「分泌物」であると私は思うのです。

 

②人はどうして詩が読みたいか

 

次は「作る」方でなく、「読む」方に焦点を当てたいと思います。

人はどうして詩を読みたくなるのでしょう。俳句もひとつの「詩」であるということを前提に話を進めます。

 素晴らしい詩を読んだ時、あなたの体にはどんな反応が起こるでしょうか。

 わかりやすい例として、私自身に起こった反応を書いてみたいと思います。

 

うすい銀河雑巾踏みて足裏拭く  岡本 眸

 

 日本の家屋にかつてあたり前に存在していた「縁側」には、濡れ雑巾が置かれていることが多かったように思います。庭で花火をした後などに、パッと雑巾を踏んで足の裏の汚れを取ってから部屋に入る―あたり前の光景が、「銀河」の季語を得た事で一気に詩として昇華されています。

 濡れた雑巾とうすい銀河の間には目に見えない「エーテル」の様なものが漂っています。銀河と雑巾の間に、理屈では到達できない「親和性」が存在しています。

 この一句を目にした時から、私は星空を見ると、自分の身体の一部分が濡れているように感じられる事が多くなりました。また濡れたタオルを触った時などに、からだのなかに銀河を思うことも。

 優れた詩は、人にものの見方、感じ方、世界と自分とのかかわりというものを変容させる力を有しているのだと思います。

 「濡れ雑巾に銀河を思う」などと通常の会話の中で語ればとたんに変人扱いですが、この「理屈ではかたづけられない」感覚こそが詩の世界なのだと思います。

この「理屈ではかたづけられない」詩の力によって、世界を見る目が変わる、それは詩を味わうものの最大の愉楽とも言えるのではないでしょうか。

そしてその快感を求めて、人間はいつまでも「詩の読者」―あるいは「毒者」と言いかえられるかもしれない―であり続けるのではないでしょうか。

 

 

③世界を見る目を変える

 

ここにひとつの歌詞があります。


  (中略)

WENDY 嗚咽が止まらないんだ

パンタロンが似合わないのさ

WENDY 一人目を覚ましてさ

乱気流でどこへ行こうかな

今 雲間に見えた 人食いの洞窟で 会おう


     (中略)

WENDY 嗚咽が止まらないんだ

パンタロンが 似合わないのさ

WENDY 一人でも歩けるように

シンラインが救い出してよ

今 雲間に見えた 首吊りの樹の下で会おう

(作詞水野ギイ ビレッジマンズストア

「WENDY」)

※WENDY 女性の名前 

※シンライン エレクトリックギターの種類のひとつ

 

 この曲の歌詞などは、意味付けしようとするととても混乱する部類のものだと思います。


 「嗚咽が止まらない」ことと「パンタロン」ってつながるの?雲間に人食いの洞窟は見えるの?首吊りの樹は見えるの?

 理屈で解釈しようとすると詩はとたんに色褪せてつまらないものになってしまいます。

 しかし、この曲に触れた後と前とでは、今生きている世界が少し変わって見える。

 優れた詩は、今生きている世の中を見る目を変える力を持っています。

 「うすい銀河」と「濡れた雑巾」も、「嗚咽」と「パンタロン」も意味の上では繋がりません。

「ポエジーとは」という問いに対するひとつの答えとして、詩人西脇順三郎はこう述べます。


「ポエジイは想像することである。

ポエジイは新しい関係を発見することである。」

「そうした詩的想像という形態は「相反する、または、遠くかけはなれた二つの現実または自然が連結された」ものである。」と。

※太字筆者

(「わが詩学序説」西脇順三郎『詩の本 Ⅰ 詩の原理』

筑摩書房 一九七四年)

 この西脇らのシュールレアリズムの思想に影響を受けたのが藤田湘子の「二物衝撃」の考え方と言えます。

 

④コントラストとグラデーション

 

角川『俳句』二〇一七年十二月号、二〇一八年一月号の二号に渡って掲載された堀切実「「取合せ」て「とりはやす」という手法―芭蕉から田中裕明へ―」は実に興味深い論考でした。

この評論の中で堀切氏は森川許六の用いた「曲輪(くるわ)の内」「曲輪の外」というワードから「取り合せ」と言われる句の「分類」を試みています。

「「曲輪」は遊郭のように「周囲をかこった一つの世界」を意味している。」との事。

ごく簡単にですが、氏の分類の一部を紹介します。

 

曲輪の内(題材イメージの範囲内)の取り合せ

古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉

朝茶飲む僧静かなり菊の花 同

遠山に日の当たりたる枯野かな 高浜虚子

石鹸に角といふもの初湯殿 片山由美子

 

曲輪の外(題材イメージの範囲外)の取合せ

蛸壺やはかなき夢を夏の月 芭蕉

馬の耳すぼめて寒し梨の花 支考

万緑の中や吾子の歯生え初むる 中村草田男

瓦礫みな人間のもの犬ふぐり 高野ムツオ

 

「季語」と「それ以外のフレーズ」の断絶の深さをわかりやすく分類されていて、見事に腑に落ちます。私なりにかみ砕いてみると、堀切氏の分類の「曲輪の内」と「曲輪の外」は「グラデーション」と「コントラスト」の関係である、と言えるような気もします。

少々、話題がそれますが、「自分に似合う服」を探したいとき、その人の「黒目」と「白目」の境目を見るといいそうです。境目がはっきりしていると「コントラスト」の強い服、例えばブルーと真っ白など対比のはっきしりした色合いが似合う。逆に黒目と白目の境目がソフトな人は、「グラデーション」のコーディネイト。ブルーにネイビーを合わせるような。(参考『いつも流行に左右されない服が着られる』Hana著 ダイヤモンド社 二〇一六年)。

「曲輪の外」「内」はこの「コントラスト」の中に季語がおかれているか、「グラデーション」としてほんのり地続きになっているか、という違いのように思われます。

「コントラスト」の句も「グラデーション」の句も、そこには作者の「意図」が介在しているように思います。

私は黒目と白目の境目がはっきりしている、だからブルーと真っ白のコントラストの強いコーディネイトにしよう、という「意識」。

 私は黒目と白目の境目がソフトだから、色合いが淡く繋がるようなコーディネイトにしよう、という「意識」。

 この意識の上に、「季語」と「季語以外のフレーズ」の距離感を取って句を作る。

 「季語」と「季語以外のフレーズ」の離れ具合は作者が「選択」している、という作り方です。

 「コントラスト」の句としては、

 

紫陽花や流離にとほき靴の艶 小川軽舟

 

 「グラデーション」の句としては、

 

あぢさゐや雨を憩ひのひと日とし 鈴木真砂女

 

 などを例として挙げるとわかりやすいでしょうか。

 「コントラスト」には季語を「離す」という意識が、「グラデーション」の句には季語がうっすら「地続き」という意識が働いているように私には思われます。

 

 そして、このふたつの分類に当てはまらない「取合せ」の手法がある。それが「二物衝撃」の句だと堀切氏は述べます。

以下は氏の分類の一部です。

 

二物衝撃の手法

  万有引力あり馬鈴薯にくぼみあり 奥坂まや

  蛇口の構造に関する論考蛇泳ぐ 小澤 實

  シャガールの春星廱(よう)の目がいたむ 宮坂静生

※廱(よう) 急性の腫れものなど。

 

 

 これらは「曲輪の内」と「曲輪の外」の分類の句が作者に「主体的な「とりはやし」の意識が明確にあった」(※とりはやし=両者を結びつける)があったのに対し、二物衝撃の句には作者の「意識」が「稀薄」であり、「読み手の鑑賞にほとんどゆだねられている。」のが特徴的だと氏は述べています。

 「作者の主体的な「思考」の働きが明確にあれば、「取合せ」の句とみられるし、その「思考」の働きが希薄で、「結合」の働きを読者の方にゆだねたかたちの表現になっているなら、「二物衝撃」の句とみなしていいのではないか。」―この堀切氏の見解は藤田湘子がその著作※2において、

芋の露連山影を正しうす 飯田蛇笏

初蝶やわが三十の袖袂  石田波郷

天の川鷹は飼はれて眠りをり 加藤楸邨

を「二物衝撃」の句として紹介し、読者を少々混乱に陥れた事へのひとつのまとまった解答であるとも思えます。

 これら三句はここで言う「取合せ」の分類であり、季語とそれ以外のフレーズに深い断絶は感じられません。

 

⑤二物衝撃の句

 

堀切氏の見解をふまえ、「コントラスト」「グラデーション」のいずれかにもあてはまらない、「二物衝撃」の句を思いつくまま挙げてみたいと思います。

「二物」ではありますが、必ずしも「モノ」と「モノ」だけではなく「モノ」と「コト」、「コト」と「コト」の句も混じっています。

ここで言う「二物衝撃」の句とは、

 

●季語を含むフレーズとそれ以外のフレーズに深い断絶がある

●取合せに作者の意識が働いていないかもしくは稀薄

 

と定義づけたいと思います。

 ここでは作品の背景や作者の自句自解等によらず、純粋に作品のみからの判断になることをご了承下さい。

 

死後も貧し人なき通夜の柿とがる 西東三鬼

狂女死ぬを待たれ南瓜の花盛り 同

青梅が闇にびつしり泣く嬰児 同

滅びつつピアノ鳴る家蟹赤し 同

びびびびと死にゆく大蛾ジャズ起る 同

 

隣室の診断(みたて)ひそひそ林檎一つ 中村草田男

基地は金魚も唄ふよD・D・Tのけむり 同

渋柿たわわスイッチ一つで楽湧くよ 同

 

雉子鳴けりほとほと疲れ飯食ふに 加藤楸邨

 

かんな燃え赤裸狂人斑点(しみ)あまた 金子兜太

土人の足みな扁平に蟹紅し 同

強し青年干潟に玉葱腐る日も 同

 

一月の畳ひかりて鯉衰ふ 飯島晴子

 

階段が無くて海鼠の日暮かな 橋 閒石

 

本の山くづれて遠き海に鮫 小澤 實

かげろふやバターの匂ひして唇 同

 

父を焼き師を焼き蓬餅あをし 黒田杏子

 

これらの句、例えば三鬼の四句目「滅びつつピアノ鳴る家」と「蟹赤し」、晴子の句の「一月の畳ひかりて」と「鯉衰ふ」は意味の上ではまったく繋がりを持たず、一句の中に深い断絶があります。

杏子句はこの中では少し異質の様には思えますが、お父様と先生を失くした事と、蓬餅が青いことには意味上の繋がりがなく、また季語を「コントラスト」として置くか「グラデーション」として置くか、という作者の季語を配置するにあたっての「意識」めいたものが感じられない、という点で「二物衝撃」の句である、とここでは位置付けたいと思います。

 

これらの句には、ある共通した原始的な「匂い」があるように私には感じられます。そしてこれらの句を並べた時、全く作り方の違う俳句にも同じ匂いがある事に私は気が付いたのです。

 

⑥写生句の匂い 

 

雪に来て見事な鳥のだまり居る 原 石鼎

頂上や殊に野菊の吹かれ居り  同

 

二物衝撃の句を並べる作業の中で、私の頭の片隅にこれらの句が、「私を拾って」「拾って」と言わんばかりに顔を出してくるのです。

「あなたたちは〈ニブツショウゲキ〉の句じゃないよ。あなたたちは見たまま、あるがままを描いた〈シャセイク〉だよ。だから仲間にはいれられない。」

それでもどうしても私にはこれらの句が見捨てられない。

なぜか。

これらの句には上記に挙げた「二物衝撃」の句と同じ「匂い」があるのです。

どこに。

それは、句の中にあからさまな「作者の意図」が介在していない、という点です。

「写生」の定義にはいろいろあり、見解もさまざまですがここでは「見たままありのままを描く」という点を重視します。

これらの句は二物衝撃の句同様「作者」の存在が消されている。

そして、一句の「意図」があからさまでないために読者に読みを「投げ出した」かたちになっている、というのが特徴的です。

雪に来て見事な鳥のだまり居る 

 ―え?だから?

 初めてこの句を読んだ時、そう思いました。「見事な鳥」っていうのもずいぶん拙い表現の様に思えるし、この句のどこに感興を見出せばいいのだろう。

 けれどなぜか心惹かれる。

 それはこの句が、読者に対して「余白」を存分に与えているからだと気づいたのは二物衝撃の句をはじめ、いろいろな句を沢山読んでしばらくたった頃の事でした。

一月の畳ひかりて鯉衰ふ

 ―え?なんで?

 写生句を読んだときの「え?だから?」と二物衝撃の句を読んだ時の「え?なんで?」。

この相反する様に思えるふたつの感想は、実は共通したものがある。

それは「一句の読みを読者に委ねている」という点です。

これらの句を読む時、私たちは人間の「脳髄」という広い広い宇宙空間に「ポン」と投げ出されたような感覚を覚えるのです。

 

⑦ポエジーのありどころ

 

 冒頭の話題に戻ります。

人はなぜ詩を書くか。また詩の読者でありたいか。

そのひとつの見解として、「言葉にならない自分の感情を言葉によって具現化する」ため人は詩を書くのではないか。

「理屈ではかたづけられない詩の世界に触れることで、世界を見る目が変わる」その快感のために詩を読みたいのではないか、ということを述べました。

二物衝撃の句も、写生句も「まだ言葉にならない感情を十七音に表現した」という点で「詩を書く」動機につながっているように思います。

また「二物衝撃の句」「写生句」の読者に共通する「え?」という感慨。これも「理屈ではかたづけられない世界」に触れる、ということで「詩を読む」根本的動機に繋がるものであると思われます。

 

 花粉飛ぶ種痘ほてりの児の眠り 菅原鬨也

 (『祭前』所収 一九七四年作)

 

 いわゆる「二物衝撃」の句だと思います。ただ、この句は、菅原鬨也の次女が産まれた翌年に作られ、一歳未満までに受ける「種痘」の接種のあとに詠まれたものだということを付け加えさせて下さい。

 体の丈夫でなかった私の妹はなにかにつけて熱を出しました。種痘の後も副反応が出て苦しそうにしていました。その真っ赤な顔をした春先の妹の姿を幼い私の脳が記憶しています。

 ここで事実に基づいたコンテクストを追加することは、いささかルール違反ではありますが、この句は写生句を「事実に基づいたありのまま」と定義すれば、まぎれもなくその部類の句であるということも出来ます。

  実際の出来事を知っていても知らずにいても、ここにも「二物衝撃」と「写生句」に共通する同じ「匂い」があるように感じられるのは、私だけでしょうか。

花粉が飛ぶことと次女が種痘の後に熱を出したことには因果関係はない。しかし、なぜだかこの瞬間を切り取らずにいられなかった。

谷川俊太郎のいうところの「かかずにいられない」気持ちがここにはあるのです。

それを鑑みると、私が前記した二物衝撃の句群も限りなく事実ありのままの句に近いのではないかと思われてくるのです。

全く関係のないふたつの事柄を繋ぎ合わせる時、作者の脳内には、「無意識の必然」が働いているように思えるのです。

二物衝撃の句の根底には「かかずにいられない」というデモーニッシュな衝動がある。

写生句も「ここを切り取らなければ」という衝動がある。

それはなぜなのか作者にもわからないし、読者にもわからない。

しかしその素晴らしい詩的世界に触れた時、私たちの世界を見る目が変容していくことは間違いありません。

 二物衝撃の句と写生句に共通する匂い。

「ポエジーのありどころ」は実は同じではないか、私にはそう思えるのです。

 

※1なぜ俳句を作るのか、という問いに対して『現代俳句』二〇一七年十一月号所収 「何のために詠うのか」松下カロ は示唆に富む。

 

※2『俳句作法入門』一九九三年 角川選書