七夕の夜に | 夢の終わりに・・・

夢の終わりに・・・

哀しいほどの切なさとときめきを

 十年ひと昔とよく言われるが、真澄にとってこの十年の時は少しも流れてはいない。

勿論時間は確実に色々な景色を変えてきたのは分かっている。

けれども真澄の心の核にあるものは何も変わっていない。

たったひとつの望み。

どんなに願っても、祈っても叶わなかった真澄の夢が今夜叶う。


羽田の国際線到着ロビーのゲートから小さなバゲージをひとつ転がして出る。

三年半ぶりに祖国の他を踏めば、自然と足取りは軽くなった。

何も日本が恋しかったわけではない。

もうすぐ最愛の人に再び逢える。

その高揚感が真澄を突き動かしていた。


紫織との婚約解消に端を発した鷹宮財閥との事業統合の白紙。

この影響は想像以上に大きかった。

全ての責任を追って大都の副社長を退き、単身インドに渡った。

成長目覚ましいグローバルサウスの中核となる彼の地で、大都を建て直す為の道筋をつける為だった。

言わば禊の左遷である。

腹心の部下も一人も持たず、辛くなかったと言えばそれは嘘になろう。

だがそれでも真澄はたったマヤという一条の光を縁に耐えに耐えた。

いつか堂々と彼女の前に、彼女を愛する一人の男として立つために。

だから、日本を離れてからはマヤとの接触を一切たった、、、電話もメールさえも。


そしてマヤもまた真澄の離日よりも一週間早く、ニューヨークへ単身留学に出た。

鷹宮からの阻害で、舞台も映画も全て失ったマヤは、一から演技を学び直したいと思った。

芝居ができるなら日本でなくてもいい。

女優として己の人生を全うする。

それが亡き恩師、月影との約束だった。

舞台に真摯に向き合って来たマヤに女神は微笑んだ。

幸運と奇跡の成せる技かもしれないが、マヤはブロードウェイで活躍する某日本人演出家の目にとまり、舞台に立つチャンスを得た。

舞台に立つことさえできればこっちのものである。

全身全霊をかけたマヤの演技に、厳しいニューヨークの観客たちも一瞬で魅せられた。

そしてその作品はロングラン公演を果たし、日本でも大いに話題となったのである。

鷹宮翁の逝去に伴い、その呪縛から放たれた日本演劇界がそんなマヤを放っておく筈がなかった。

マヤは真澄よりも一年早く帰国して、日本で再起の足場を固めていた。

マヤの様子は、秘書の水城冴子から業務報告と共に情報が共有されていた。


東は太平洋、西は大西洋という大きな大海に隔たれた遠く離れた地で、真澄がたった一人で孤軍奮闘できたのも、マヤも同じくそうして闘っていると思ったからだ。

自分よりもはるかに小さくて華奢なあの身体を目一杯使って、飛び散る汗もものともせずに目標に立ち向かうマヤの姿が、瞳を閉じればリアルに思い浮かべることができた。


そんな苦労も今日で終わりだ。

真澄はタクシー乗り場に向かって歩き始めた。

空港は海外からの観光客で溢れかえっていた。

その中の誰かが歓声をあげ、何かを指差す。

それにつられて視線を負けると、Welcome Japanと描かれた大きな壁面の前に、色とりどりの短冊や装飾が施された大きな笹竹が数本立てられていた。

真澄は左腕の時計を確認して気づく。

「今日が七夕だな、、、」


「北島ぁ、お前昼からぶっ通しで経過してるだろう。ちったぁ、休んだらどうだ?

いくらお前さんでも、この暑さではぶっ倒れちまう。

おい、全員休憩だ!

誰か、奥から冷えたペットボトル持って来い!」

黒沼のスタジオでは、秋の紅天女の再公演に向けて猛稽古の最中である。

海外のストレート物ばかりをここ数年やっていたマヤとしては、少しでも早く勘を取り戻したいと躍起になっていた。

昔は鬼軍曹ばりにマヤを追い込んでいた黒沼だが、今ではマヤのブレーキ役だ。

自分がついていながら、マヤを潰してしまっては速水に顔向けができない。

真澄は渡航後も黒沼を私費で支援し続けていた。

マヤがいずれ戻る場所である、、、それを失くす訳にはいかなかった。

「ほれ、北島、お前は30分の休憩だ。」

黒沼がキンキンに冷やされたスポーツドリンクをマヤに手渡す。

マヤも素直にそれを受け取り、壁際のベンチに腰掛け、一気に半分ほど飲み干した。

若手の研修生が冷やしタオルを持って来てくれ、マヤの頸に当ててくれる。

「ありがとう、気持ちいぃねー」

マヤは研修生にはにかんで声をかける。

タオルをもう一本手渡されると、マヤはそれを両手に広げてそのまま顔を押し付けた。

身体の表面の夏は幾分クールダウンができた。

だが、マヤの芝居にかける情熱は北極の氷を全部使っても冷める事はない。

黒沼の言いつけ通り30分きっちり休憩を取ったら、すぐに自主稽古を再開した。


タクシーを降りて、通い慣れた路地を進んでいく。

コンクリート打ちっぱなしの角張った二階建ての建物にはなんの装飾もなく、鈍色のプレートがひっそりと掲げられてあるだけだ。

ガラス扉のエントランスをくぐり、廊下を奥に進むと、懐かしい怒号が聞こえてきた。

その声の主がいるだろう部屋の前のドアの前に立つ。

「小坂っ、お前もっと阿古夜の動きをよく見ろっ。」

阿古夜というフレーズを聞いて、真澄の胸が高鳴ると同時にえも言われぬ緊張感に包まれた。

この扉の向こうにマヤがいる。

どんな顔で入っていけばいいんだろう。

すぐにでもマヤに会いたくて、スタジオまで来てしまったが、このまま引き返した方がいいのではないか。

真澄はドアの前で逡巡して立ち尽くす。

しばらくすると、スタジオの中が静まり返り、やがて瓏々と水が流れるように懐かしい響きが真澄の耳に届いた。

マヤが放つ阿古夜の台詞が真澄の心に直接響いてくる。

この声を聞いて立ち去ることなどできようか。

真澄は静かに扉を開いた。


阿古夜が憑依したように、その世界に入り込んで空気を作り上げると、一種の結界のようなものができる。

マヤの演技に魅せられたものたちは皆、その結界の中に取り込まれる。

その結界が破られる。

それは開いた扉の向こうから現れた人物をマヤの眼が捉えた瞬間に起こった。

マヤの異変にいち早く気づいた黒沼がマヤの視線の先を見る。

「若旦那っ!」

声を発したのは黒沼だけで、当の二人は強く視線を絡めたまま、その距離を縮めることもなく立ち尽くしていた。

そしてどれくらい時間が経過しただろう。

ようやく真澄がマヤに向かって一歩足を踏み出せば、マヤも次呼応するようにその足を前に踏み出した。

「・・・ただいま。」

「・・・おかえりなさい。」

たった一言ずつ。

その言葉に秘められた幾千もの思いと涙が、黒沼には見えた気がした。

演技ではない、人間の生の感情がそこにある。

北島マヤを知るものならば、誰もが速水真澄との間に起きた出来事を知っていた。

その場に居合わせた者たちはただ静かに二人の再会を見守った。


二人がスタジオを出ていくと、にわかに稽古場が騒がしくなった。

「速水さん、前よりも男前になってない?」

「ドラマよりドラマチックだ、、、」

「七夕の再会なんて、素敵ね。」

研修生達が興奮気味に喋り合っている。

そんななか、黒沼はやれやれといった感じで、窓の外を眺めた。

気がつけば陽も落ちている。

東京では見る事はかなわない天の川だが、あの二人を隔てていた天の川はもうない。

いや、実際はまだ幾つもの困難はあるのだろう。

だが、その障害も乗り越えるに違いない。

現にあの男は己の力で、あの大河を飛び越える翼を手に入れた。

鵲の橋も必要なかったのだ。

そして男にそんな力を与えたのは、天帝でもなければ神でもなく、マヤであったに違いない。

「天女様に恋した男は無敵だな、、、」

黒沼はひとり呟いた。


「君のことは水城から聞かされていた。

・・・流石としか言えないな。」

「私も速水さんの活躍は水城さんから聞いてましたよ。」

「君には要らぬ苦労をかけてしまった。

すまない、許してくれ。」

「苦労なんて思ってないです。

それより速水さんは?

もう大丈夫なんですか?」

「ああ、禊は終わった。

義父もようやく赦してくれたようだ。

まあ、許されなければ、大都の復活を見届けたら、全てを捨てて、君のところへ行こうと思っていたからな。

でも、できる事ならそんな不義理はしたくなかったから良かったよ。」

「じゃあ、もう何処にもいかない?」

「ああ、行かない。

君を置いてはもうどこにも行かないよ。

もう一人で生きるのはごめんだ。

どんなに苦しくても、君のそばにいる。

君のいない苦しさに勝るものなんてどこにもない。」

「もう離れないから、、、私。」

「離れるな、ずっと俺のそばにいてくれ。

君を愛してる・・・」


二人には、七夕の夜の再会後に待つ別離が訪れる事は永遠にない。


Fin