絆 〜Kizuna 夏の宵祭〜 | 夢の終わりに・・・

夢の終わりに・・・

哀しいほどの切なさとときめきを


午後の経営報告会議を終えて、真澄が執務室に戻ってくると、そこの応接セットでマヤと秘書の水城がお茶をしながら談笑していた。

妊娠七ヶ月を迎えたマヤは随分とお腹が目立ってきた。
今日も涼しげな若草色をした綿麻のチュニックブラウスに白い七分パンツ姿のマヤ。
足元は歩きやすいフラットなレザーメッシュのローファーを履いている。
若い妊婦らしく、マタニティファッションとはいえスタイリッシュな姿は大都総帥夫人に相応しい。
昔は着るものにもとんと無頓着だった彼女も、ロンドンで女優として磨かれ、真澄と再会し極上の愛情に包まれ、いつしか誰もが羨むような淑女になった。
そんなマヤが、速水真澄にとって何者にも代え難い稀有な存在であることは今更誰に語る必要もないくらい、彼の周囲は熟知していた。
あえて言うなら、マヤ本人の自覚が一番薄く、時折真澄を嘆かせることはある。
今日のマヤの足下の装いにしても散々真澄が注意して、おっちょこちょいなマヤが転ばないようにと気遣った結果だ。
真澄にとって、マヤの二度目の懐妊には格別の思いがある。
長男の怜が産まれた時には、その事実さえ知らなかった真澄だった。
怜が自分の実の息子であると分かる前から、真澄は怜を自分の子として愛そうと覚悟を決めていた。
誰よりも愛するマヤの子どもだったからだ。
だが、怜が実子であるとわかった時、この上ない喜びとともに生まれた強い後悔の念。
実の父親でありながら、注ぐべき愛情を注いでやれなかった。
だから真澄の怜に対する愛情はとても強い。
そしてそれと同じくらいに、新たな生命とそれを宿したマヤへの愛情も深くなっていった。
もうあんな後悔はしたくないのだ。

「今日はどうしたんだ・・・何処かへ出かけたのか?
もう一人で出かけるのは感心しないぞ、マヤ。
道中で何かあったらどうするんだ。」
マヤは眉間に少しだけ皺を寄せて、水城に向かって苦笑する。
「・・・ほら、分かるでしょ、冴子さん。
もう本当に真澄さんたら過保護なのよ。」
どうやら、戻ってくるまでに散々自分の事を話していたんだろうと真澄は片眉を上げて、マヤを見る。
「何が過保護だ・・・君は本当にそそっかしいから心配なんだ。」
このまま放っておくと、二人がかつてお得意の口合戦で炎上しかねない事を水城は経験で良く知っていた。
「まあまあお二人とも。
マヤさんはちゃんと運転手の方を従えてのお出かけでしたから、大丈夫ですわ、真澄様。
この後は、真澄様が無事御自宅までお連れ下さればいいだけのことではありませんか。」
水城が最後に放った言葉は、真澄に絶大な効果をもたらした。
この後はマヤと一緒にデートするもよし、早々に帰宅して家族水入らずで過ごすもよし、好きにしろと言っているのだ。
「そうか、それなら問題ないな・・・。
さあ、マヤ行くぞ。」
さっさと帰り支度を始める真澄に、今度は水城が苦笑いだ。
だが、水城としては昔の事を思えば今がどれほど穏やかで、楽な事か。
もちろん会社も安泰・・・それもこれも、真澄とマヤが納まるところに納まり、幸せでいるからこそなのである。
そう思えば、二人の仲を安生執り持つことも立派な秘書の仕事と言えよう。

「今日は何しに出かけたんだ?」
帰りの車の中で、真澄がマヤに尋ねた。
「浴衣を誂えにね。
怜を花火や夏祭りに連れて行ってあげたくて。」
マヤは怜の浴衣と身重になった自分の浴衣の注文に出かけたのだと、真澄に説明した。
「お腹が大きくなって、持っている浴衣では身ごろが足りないから。」
「そうだね。
で、どんな浴衣を選んだんだい?」
できれば自分も一緒に選びたかったと真澄は思ったが、そこは男の出る幕じゃないかと諦める。
夏祭りの夜にマヤの浴衣姿を見られればそれでいい。
「見てからのお楽しみ。怜の浴衣もね。」
マヤが嬉しそうに微笑んでいるだけで、真澄は極上の気分にさせられた。
「家族で夏祭り・・・か。楽しそうだな・・・。」

ばたばたばたばたっ・・・!
和室の縁側廊下で子供の足音が響く。
「こら、怜。
そんなに走ると転ぶわよ!」
和室からマヤの声が飛ぶ。
相変わらずよく通る声だ。
久しく仕事を離れていてもマヤの発声は健在だ。
土曜日とはいえ、そのほとんどを仕事にとられる真澄が今日は夕方前に戻ってきた。
何故なら今夜は浅草のほおずき市に出かけるためだ。
身重のマヤと怜を二人だけで人混みに出すことなどできる筈がない。
それに家族で夏祭りに出かける事をずっと夢見ていた真澄が、こんなチャンスをみすみす逃すわけもなかった。
玄関から賑やかな声のする和室へ向かった。
「パパぁ、おかえりぃ〜」
真澄の姿を見つけた怜が一目散に走って来る。
浴衣の裾で走り難いのも御構いなしの勢いだ。
真澄は勢いよく飛びついてきた怜を抱き上げて抱きしめる。
「ただいま、怜。浴衣、カッコいいぞ。」
怜は歌舞伎の名門成田屋所縁の柄 “かまわぬ” が染められている浴衣を着せられていた。
「かまわぬか・・・渋いな。」
「この前、呉服屋さんで成田屋さんの若様に偶然お会いして、反物をプレゼントして頂いたのよ。
ぜひこれで御子息に浴衣をって。」
「そうだったのか、また今度お会いしたら御礼を言っておくよ。」
「さあ、真澄さんもシャワーを浴びてきて。
貴方の浴衣も用意してあるのよ。」
畳の上に正座して、脇に置いてあった畳紙(たとうし)を開く。
そこには熨斗目花色(のしめはないろ)と呼ばれる青みの強い鼠色で染められた絽の浴衣に、枯草いろの角帯が用意してあった。
真澄はマヤに言われた通り、シャワーで汗を流して再び和室に戻ってきた。
真澄がシャワーを浴びている間に、マヤは自分の浴衣の着付けを済ませていた。
マヤの浴衣は天竺木綿の絽の浴衣で、白の地色に利休色で一面に葵の葉が描かれており、所々に黄色の差し色が使われていた。
そこに早苗色と呼ばれる柔らかな緑色の博多帯をゆったりと締め、夏らしく涼しげな装いをしていた。
そんなマヤに目をとらわれて見惚れているうちに、真澄の着付けはマヤが手早く済ませてしまった。
そして慌しく速水の邸を出た。
近くまでは速水の家付きの運転手に頼んで、車で行く事にした。
浅草寺の少し手前で車を降りた三人は、怜を真ん中にして手を繋いで歩く。
昼ほどではないにしろ、人出が多い事には変わりない。
緑と朱色のコントラストが鮮やかな鬼灯の群れに、色とりどりの硝子の風鈴がチリンチリンと夜風に吹かれている。


鬼灯以外にも、仲見世や境内近くの屋台店などで、その賑やかさはお祭りそのものだ。
まずは浅草寺でお参りをして、怜が喜びそうな屋台を何軒か見て回る。
怜が選んだのは、よくテレビで見ているウルトラマンのお面だった。
「このお面を被った怜が正義の味方になって、きっと俺を倒しに来るぞ・・・」
真澄がマヤに耳打ちする。
「真澄さん、明日の朝は早起きした方がいいわよ。
怜にキックされないように気をつけなきゃ。」
マヤも笑って同調する。
明日、起きたら真澄のお腹の上にクッションを置いておかなければと、本気で考えているマヤだった。
真澄は常に怜の手を離すことなく、そしてマヤを庇うように気を遣っていた。
人混みの中で、お腹をぶつけられたりしないかと気が気ではない。
それでもこうして家族水入らずで、ほおずき市に来られた事が嬉しくて仕方がない。
来年はきっと、自分がこの腕に赤ん坊を抱いて歩いているんだろう・・・そんな先のことまで考えては、思わず笑みが零れる。
やがてマヤが速水の邸の広縁の軒先に飾りたいと、ほおずきを選び始めた。
葉がしっかりしていて、実も沢山着いているものを店主が選んでくれた。
サービスの風鈴は好きなものを選んでいいと言われ、マヤと怜が仲良く相談していた。
怜の希望で、打ち上げ花火が色鮮やかに描かれたものを選んで付けてもらった。
青竹で編み込んだ手提げ籠に入ったほおずきの鉢を受け取って、真澄達は雷門に向かって歩いた。
門から少し離れたところで待っていると、迎えの車がスッと寄ってきて、三人は素早く乗り込んだ。
せっかく浴衣を着てのお出掛けをこれだけで終わらせるのはもったいないと、マヤがファミレスへ行くと言い出した。
「昔、よく “速水さん“ にご馳走になったわ。」
マヤがあえて速水さんと自分の事を呼ぶ。
あの頃の二人にこんな未来があったなんて、思いもしなかったよねと。
「本当によく食べてたな、“チビちゃん” は。」
今では全てが懐かしい思い出だった。

浴衣姿とはいえ、こうして親子三人で店に入れば、ごく普通の幸せな家族連れに見える。
店のウィンドウに映った自分達の姿を真澄は感慨深げに見た。
怜はどこにでもいる普通の子供で、目の前のお子様ランチに目を輝かせていて、それを見守るマヤの姿は優しい母親そのものだ。
そこにかつての実母と幼き日の自分を重ねる。
この穏やかな幸せを大切にしたい・・・真澄は心から願った。

邸に帰ると、怜の入浴と寝かしつけは執事の朝倉と家政婦長がやってくれると言うので、真澄とマヤは和室の広縁で晩酌に興じた。
浅草で買ってきたほおずきは早くも朝倉の手によって軒下に吊るされている。
檜の木桶にクラッシュアイスとともに入れられた硝子の徳利と盃。
マヤは盃をひとつ取り出すと真澄に差し出し、続けて冷えた徳利で酌をする。
真澄はマヤに勧められるままに冷酒をひとくちで飲み干す。
香り高い辛口の純米大吟醸は真澄の好きな京都の酒蔵のものだ。
真澄はマヤにも勧めるが、何分身重であるため、ほんの真似事程度だ。
それでもこうして夫婦で盃を交わせば、酒の美味さもひとしおであった。
「マヤ、疲れていないか?」
「ん、大丈夫・・・行きも帰りも車だったから。
怜も良い子にしていてくれたし。」
「怜、ものすごくはしゃいでいたな。」
真澄が怜の姿を思い出しては微笑う。
「あの子、パパとのお出掛けが嬉しくて仕方ないの。
初めて真澄さんと会った時も、あの子はすぐに貴方に懐いたわ。
怖いくらいに急速に、そして自然にね。
これが血の繋がりなのかって・・・。」
真澄は怜が誘拐された時のことを思い出した。
あの時、怜が自分を呼んだ気がした。
マヤを愛するあまり、怜が自分の子だったらいいのにと勝手な妄想を抱いた挙句の幻聴かと思ったが、そうではなかったのだ。
目には見えなくても、真澄と怜の間には親子の絆がしっかりと紡がれていたのだ。
「怜が・・・俺の子でよかった・・・マヤ、ありがとう。
あんな良い子を俺に会わせてくれて。」
改めて真澄はマヤに感謝する。
「私こそ真澄さんには沢山御礼を言わなきゃ。
こんなにも私や怜を大切にしてくれて。」
真澄はマヤを抱き寄せて言った。
「当たり前だろう・・・俺にとってはマヤと怜・・・そしてこのお腹の子が、何よりも大切なんだから。」
真澄がマヤのお腹を優しく撫でる。
お腹を庇うため、ゆったりと着付けられた浴衣の襟元から覗くマヤの頸は、ほんのりと色づき始めていた。
舐める程度の酒でも程よく色づいてしまうみたいだ。
真澄は思わずそこに唇を這わせた。
「マヤ・・・」
マヤの妊娠が判ってから、マヤと身体を繋げたのは、ほんの数回のことだった。
医者からも止められているわけではないが、やはりマヤが心配で、無理をさせたくないと、真澄は必死に我慢していた。
けれども今夜は、その自制もあまりあてにならなさそうだった。
浴衣姿のマヤの艶さに当てられて、真澄の身体に熱が隠る。
襟元にそっと手を差し込めば、肌襦袢だけで他には何も身につけていない乳房の感触がダイレクトに伝わった。
コロン・・・とガラスの盃が檜木張りの床に音を立てて転がった。
マヤを自分の胸にしな垂れ掛からせて、より深く抱きしめる。
はだけた裾からマヤの脹脛が露わになると、その白さに真澄は目が眩む気がした。
「・・・止めてくれ、マヤ・・・。」
このままでは本当に抑えが効かなくなりそうだ。
自分からはどうしても離れられないない真澄は、マヤに助けを求めた。
マヤが嫌だと言ってくれれば、この胸の熱も少しは冷める。
後は、浴室で本当に冷たいシャワーを浴びて身体の熱も冷ましてしまえばいい。
「・・・真澄さん・・・」
マヤが何か言おうとした。
真澄の望み通りにやめろと言おうとしているのか。
だがその瞬間、真澄が再びマヤを強く抱きしめて、その唇を奪った。
「い、嫌だ・・・離したくない・・・離したくない・・・」
ギリギリまで追い詰められた雄の叫びだった。
「・・・いいのよ・・・我慢なんてしなくていいの・・・。」
マヤの口から出てきた言葉は慈悲深いまるで母親のような優しさと愛に溢れたものだった。
「マヤ・・・」

マヤが自ら解いた帯がシュルッと衣摺れの音を立てて、床に落ちた。
マヤを硬い床の上で寝かせるわけにはいかないと、真澄は和室の奥から敷布団を持ってきて、敷いた。
そしてマヤが落とした帯を脇に放り、立ったままのマヤの前で跪いた真澄はそっと彼女を抱きしめた。
背中に回した腕を戻して、ゆっくりと両方の手のひらでマヤから浴衣と襦袢を剥がす。
甘い果実の皮を剥くように、そこからマヤの膨よかな肩と胸が現れた。
そして腰紐を解き、浴衣もマヤのお腹を守っている腹帯も全て取り去り、真澄は再びマヤを抱きしめる。
真澄の頬がマヤの丸く膨らんだお腹の上部に重なった。
「・・・マヤ・・・優しくするから・・・」
真澄が甘く掠れた声で囁く。
それはまるでお腹の中の子への囁きにも聞こえた。

真澄はまるでガラス細工に触れるように、マヤの肌に触れた。
細心の注意を払い、マヤのお腹を気遣って、真綿で包むような優しさでマヤを愛してゆく。
己の欲望のままにマヤを激しく抱くことはできなくても、それでも真澄の心と身体は満たされていった。
緩やかに時間をかけて、ようやくマヤとひとつになれる瞬間を迎えれば、それだけで真澄の心は歓喜に震える。
「・・・辛くないか・・・マヤ・・・」
自分を見下ろすマヤの頬にそっと手を伸ばす。
「・・・だい・・・じょうぶ・・・」
十分に彼女も感じさせてやりたくて、真澄はマヤに合わせてその時を待った。

疲れて眠ってしまったマヤの身体が冷えないように、脱がした浴衣で包んで抱きしめて、一緒に布団に横たわる。
そして今日の出来事を思い返していた。
浅草のほおずき市は四万六千日の縁日といわれ、人の一生分の功徳が授かると伝えられている。


真澄にとってはマヤと巡り逢い結ばれたことが、何よりも有難き神仏からの功徳だった。
己の生涯でこれ以上に望むものなどありはしない。
それだけでなく、可愛い子供まで授けてもらった事に、真澄は唯々感謝して、日々を生きていきたいと思う。


マヤ・・・ありがとう・・・
君と一緒になれて本当に良かった・・・
これからもずっと側にいる・・・
君と子供達をどこまでも愛して守っていきたい・・・


気持ち良い疲労感に、やがて真澄も微睡みに落ちてゆく。
そして軒先では月に照らされた朱いほおずきが夜風に揺らされた風鈴の音色と共に、夏の宵に寄添い睡る二人をいつまで優しく見守っていた・・・。



〜Fin〜