絆 〜Kizuna 覚悟〜 | 夢の終わりに・・・

夢の終わりに・・・

哀しいほどの切なさとときめきを


「マヤ、今度の水曜日、午後から時間が取れるんだ。
もし君の体調が悪くなければ、出かけたいところがあるんだが・・・。」
ある日の夜の寝室で、真澄が改まってマヤに言った。
「なーに?デートのお誘い?」
マヤがニヤニヤ笑いながら問う。
「目的を果たしたらそのあとはデートしてもいいぞ。
マヤが観たいって言ってた歌舞伎座のチケットも押さえてあるしな。」
マヤは歌舞伎観劇と聞き、目を輝かせる。
相変わらずの芝居好きだ。
これは何年経っても、速水真澄の妻になっても、母親になっても変わりそうもない。
「行きたいわ。真澄さん、連れていって。」
「じゃあ、水曜日にはちゃんと体調を整えておいてくれよ。」
真澄はマヤの唇にchu!っと軽い口づけをした。
そしてマヤのお腹の中にいる我が子にも「おやすみ・・・」と優しく口づけをする。
マヤはそんな真澄を温かな微笑みを湛えた瞳でじっと見ていた。

そして約束の日。
いつも通りに仕事に出かける真澄が、間際にマヤに言った。
「無理に着物なんか着るんじゃないぞ。
ヒールのあるものもダメだからな。」
二人目を身ごもって以来、すっかり過保護になった真澄。
もともとマヤと長男の怜には人目を憚らぬ溺愛ぶりを発揮している真澄であったから、これもまた不思議はないのだが、マヤにしてみれば、子ども扱いされているようで、微妙な思いもなくはなかった。
だが、それも真澄の愛情だと思えば嫌とは言えない。
この幸せな日々を与えてくれる真澄には感謝するばかりだった。
「この前、真澄さんが買って来てくれたワンピースを着ていくわ。
靴も合わせてプレゼントしてくれたし、それでどうかしら?」
マヤのリコメンドに、真澄はクールに微笑んで、「完璧だ♡」と満足げに一言・・・そして “行ってくるよ” のキス。
人前でのキスに今だ照れてしまうマヤは、頬を染めてアワアワしながら真澄を送り出す。
寸分の隙なくスーツを着こなした男の後姿に見惚れる。
一度玄関の外に出た真澄の背中からは先ほどまでの甘い空気が消え去り、仕事という戦場に向かう男の気(オーラ)を全開にして、颯爽と社用車に乗り込で行く。
「・・・やっぱりかっこいいな、速水さん。」
ふと気づけば、片想いをしていた稚き頃の自分に戻ったように、立ち去る真澄を見送るマヤだった。

やがて昼になり、真澄が差し向けた車に乗ったマヤは大都本社で真澄と合流した。
約束通りにマヤの装いは、真澄から贈られたワンピースや小物たちでコーディネートされていた。
いずれの品も真澄が身重になるマヤのために誂えたものばかりだった。
一見マタニティとは思えない洗練された洋服は、某日本トップブランドのデザイナーに依頼して作ってもらったオートクチュールだ。
これ以外にも何点もマヤのために発注がかけてあると聞かされ、マヤは真澄が二人目の誕生をどれ程楽しみにしているのか、それを思うと有り難くて嬉しくて心から幸せを感じることができた。

結局マヤは最後まで何処へ行くのか知らされないまま、真澄に連れてこられたのは水天宮・・・安産祈願の御利益高き神社であった。
マヤはようやくここまで来て、真澄の意図に気づいた。
「今日は戌の日?」
「そうだよ。安産祈願の祈祷を予約してある。
さあ、気を付けて降りなさい。」
真澄は駐車場に車が停車すると、いち早く車を降りてマヤの降車をエスコートする。
真澄に手を引かれ車を降りると、そのまま真澄の腕がマヤの腰に添えられる。
あまりにも自然で完璧なエスコートが、かえって人目を引いてしまう。
他にも目的を同じくする夫婦連れが何組もいるのだが、真澄とマヤは嫌が応にも目立つ。
ここを訪れる夫婦はいずれも幸せなカップルが多いに違いない。
それでも真澄とマヤの二人を眺める人々の視線には憧れや羨望といったものが含まれていた。
真澄の事はわからないまでも、マヤのことは一目見れば大抵の人はそれが誰か気づく。
そしてその隣に立つべき男が、日本有数のコングロマリットの頂点に立つ人間である事も世間の噂に疎い者でなければ連鎖的にわかる。
「彼女、女優の・・・」
「テレビで見るより華奢なのね、北島マヤって。」
「あれが大都トップの速水真澄か・・・」
「あそこもオメデタらしいな・・・」
中にはマヤに“おめでとう!”と気さくに温かな言葉をかけてくる人もいて、マヤはその度ににこやかに笑って、相手も同様な事情のようであれば、お祝いの言葉を返している。
真澄はマヤに合わせてほのかに微笑って、軽く会釈をする。
すると誰もが二人の様子に溜め息をもらすように見惚れていた。
そんな中、真澄は平然かつ優雅にマヤを連れ立ち神殿横の社務所に向かった。
この何気ない時間の中でも真澄の腕と意識はずっとマヤに向けられたままだった。

予め真澄は自分達一組だけで祈祷をしてもらえるよう依頼をしていた。
そのため一般の参拝者とは別の待合室に通され、そこで祈祷の順番を待つことになり、饗された茶菓子を頂きながらひと息ついていた。
「気分は悪くないか?」
無意識のうちに真澄の手がマヤの下腹部にのびる。
「大丈夫・・・最近は悪阻も軽くなってきたし。」
そんな会話をしているうちに、係の者がやってきて、二人を祈祷に案内した。
神殿に漂う檜と御神酒の香りに真澄もマヤも気持と姿勢を正す。
神主の祝詞が神殿に響く。
神聖な空間で二人は生まれ来る我が子の無事を祈る。
二人で神前に玉串を奉納し、首をたれて神主の祓いを厳粛な面持ちで受ける。
そして最後に三宝に乗せられ、祭壇に置かれていた御子守帯(みすずおび)と呼ばれる腹帯と小さな張り子犬と御守がおさがりとして二人に授けられた。
真澄とマヤは恭しくそれを戴いた。

その日の夜、歌舞伎見物から戻った二人は子守の部屋から眠る怜を二人の寝室に運び、その寝顔を見たあと、二人一緒に入浴を済ませた。
そして寝室に戻ると、真澄が今日授かってきた腹帯を出してきた。
俺がこれを巻かせてもらってもいいかい?
本当なら、俺か君の母親の役目なのかもしれないが・・・俺たちの母親はもう、、、いないからな。」
真澄の瞳にほんの少しの愁が漂う。
実母への思慕と義母への悔悟の情が真澄の瞳で、哀しみ色を滲ませた。
マヤはそんな真澄の心情を汲み取ると、腹帯持っていた真澄の手に自分の手を重ねた。
「お母さん達に代わって、真澄さんが巻いて。」
「マヤ・・・」
マヤの穏やかな笑みに、真澄の心の曇りも晴れてゆく。
真澄はマヤの前で膝立ちすると、彼女のバスローブの前を開けて、少しふっくらしかけたマヤのお腹にそっと手で触れて、胎児の鼓動を聴くかのように頰と耳を重ねる。
たとえ鼓動が聴こえなくても、真澄は生まれくる我が子の生命の営みを感じていた。
そして溢れ出る愛しさに、そっとそこに唇を落とす。
一頻り肌の触れ合いを味わった後に、真澄はマヤのお腹に腹帯の端を当てて、ゆっくりと巻き始めた。
慣れない作業ながら、真澄はゆっくり丁寧にマヤのお腹を包んでゆく。
その中にいる小さな生命を慈しみ、それを守り育てる母なる存在に畏敬の念を、そのひと巻きひと巻きに込めて。
マヤはそんな真澄を僅かに見下ろす形で静かに見つめていた。
本当に真澄には愛されていると思う・・・遠い異国の地で怜を身籠った時には望む事すら諦めていた真澄の愛情。
あの時は全てをひた隠しに隠して、必死に一人で生まれ来る生命を守ってきた。
その中で生まれた母になるという覚悟・・・その覚悟と秘めた真澄への思いだけが、その後のマヤを支え続けた。
あの時の悲壮な気持ちを思い出せば、二人で一緒に二人の生命を育めるこの幸せがまるで奇蹟のようで、自然と涙が込み上げてくる。
一方、ある日突然父親にならざるを得なかった真澄は、親となる不安や恐れよりも、そうでありたいという思いの方が強くて、必死に怜と母となったマヤに向き合ってきた。
まだ彼女に比べたら、自分は未成熟な親なのかもしれない。
でもこうして、新たな生命の誕生に立ち会えるチャンスが与えられたことに真澄は感謝する。
怜は勿論のこと、未だ見ぬ我が子を何があっても守りたいとただひたすらに願う。
そして彼らが誇れる人間であり続けようと、無言の誓いを立てた。

速水家の戌の日から約一週間が過ぎたある日。
オフの昼下がりに、仕事の電話を終えて書斎からリビングにやってきた真澄の耳に届いた可愛い歓声。
好奇心や驚きに満ちた男の子らしい朗らかな笑い声。
「楽しそうだな、怜。」
真澄は部屋に入るなりその光景に目を細めた。
「パパ、赤ちゃん、ホントにママのおなかの中にいるんだね!
今ね、ボクがいい子いい子したら、赤ちゃんよろこんで、ママのおなか、けっとばしたんだよっ。」
もう既に兄弟の絆は紡ぎ始められている。
「もう、わかるのか?」
真澄も密かに楽しみにしていた瞬間だ。
急ぎ早やにマヤの元へ歩み寄り、膝をついて、ソファにいるマヤと怜と同じ視線の高さになる。
我が子の胎動をこの手で感じてみたい。
思わず真澄もマヤのお腹に手を伸ばす。
そしてその瞬間をじっと待つ。
「・・・あ・・・今・・・?」
確かめるようにマヤに視線を合わせると、マヤが微笑って小さく頷いた。

マヤと怜に巡り逢ってからこれまで、様々な感動と喜びと幸せを知った真澄が、また新しいそれを知った。
妊娠を知らされてから今日まで、未知の体験に心をときめかせてきた。
そしてその思いが鮮烈であればあるほど、そんな貴重な季節を一緒に過ごせなかった怜に対する思いが愛情となって深まってゆく。

リビングの大きなソファでうとうとするマヤに肩を貸しつつ腕に抱き、膝の上に上体を預けてすやすやと昼寝する怜の背をゆっくりと摩りながら、真澄は大きな窓の外を眺めていた。
初夏の木漏れ日が目に優しく、自然真澄の表情が和らぐ。
そして家族の存在と温もりが仕事で荒んだ心を和ませてくれる。
あの緑の木々が黄金や紅に染まる頃、ここにもう一つの温もりが増える事だろう。

夏の強い日差しも、立っていられないほどの強風も、冷たい雨や雪だけでなく、あらゆる障害から愛する家族を守ってゆこう。
家族を持って初めて真澄は、強さと優しさが表裏一体のものだと知った。
男として強くあるからこそ優しくなれるのだ。
真澄の目にはいつしか、男としての覚悟が強い光となって、その瞳に宿っていた・・・。


〜Fin〜