最初はほんの小さな嘘を自分の心についてみる・・・
少し我慢をすれば何もかも上手くいく・・・
そんな思い込みで、誰もが小さな嘘をつく・・・
けれど小さかったはずの偽りは、白地の布に広がる墨のように徐々に広がって、どうにもならなくなる・・・
自分で重ねた嘘に、身動きが取れなくなり、心を偽ることにも、いつか・・・耐えられなくなり・・・他人も自分も傷つけてゆく・・・
大都主催のあるベテラン俳優の叙勲祝賀パーティーの席。
俺の隣には、マヤではない婚約者が・・・
マヤの隣には、俺ではない婚約者が・・・
宴も酣、それぞれが歓談に華を咲かせる頃。
速水真澄は、マヤのフィアンセである里見がマヤの傍を離れるのを視線の端に捉えると、紫織が他のゲストと話し込んでいる事を確認して、マヤのもとに向かった。
「速水社長、御機嫌よう。」
マヤは優雅に微笑んで、近づいてきた真澄に挨拶をする。
「久しぶりだな・・・マヤ。」
真澄も微笑んで、声をかける。
「紫織さん、置いてきてしまって大丈夫なんですか?」
「君も里見君に置いてかれたんじゃないのか?」
「彼はすぐに戻ってきますよ。」
なんて空々しい・・・
真澄もマヤも己の作り笑いに、内心辟易としていた。
幸せな婚約をした演技・・・婚約者を愛する演技。
気がつけばどちらも仮面を被り、偽りの中で生きる毎日だ。
しかも、こうして二人で向かい合うときは、更に仮面を被り、演じなければならない。
事務所社長と看板女優のビジネスライクな友情を。
そして二人は、仮面を被って演じているのは自分だけだと思い込んでいる。
愛しすぎて、臆病になり過ぎると人は盲目になる。
相手の真実(こころ)が見えなくなる。
自分を守るはずの仮面が、自分を傷つけていることに気がつかない二人。
それは、どちらかの仮面が割れない限り、気づかないのだろう。
理性ではもうどにもならないと思っている。
けれど、感情はどうにかしたいと思っている。
その矛盾に、心と身体が乖離する。
先に、マヤの肉体が悲鳴を上げ始めた。
もう誤魔化しきれないのかもしれない。
真澄と同じ空間にいるだけなのに。
「ん、どうした、マヤ?」
目の前でマヤが急に青ざめ始めた。
「・・・目眩がしただけです。」
心配する真澄に、マヤは心配ないと微笑する。
「マヤ・・・ここにいたの?」
里見がホッとしたようにマヤに寄り添って来た。
「顔色悪いね・・・・
やっぱり今日はもう帰って休もう。」
「里見さん・・・大丈夫だから。」
マヤが里見の腕を外そうとした時、彼女は腕を力強く掴んで引き寄せられた。
「な・・・んで?」
里見の視線、マヤの視線、そして少し離れたところから紫織の視線の全てが真澄に注がれていた。
里見の腕から奪うようにマヤを自分の胸の中に抱き寄せたのは、真澄だった。
真澄の心もまた、バランスを崩し始めた。
感情が理性を上回る瞬間がとうとう訪れた。
「マヤ、病院へ行こう・・・」
「病院なら僕が、、、」
「大切な看板女優だ・・・放ってはおけないよ。」
社長という立場を振りかざし、フィアンセである男からマヤを奪う。
自分のフィアンセも顧みない、身勝手な男。
こんなことは、正気の沙汰じゃ、できない。
真澄は、後のことを全て水城に託し、マヤを横抱きにして会場を去った。
そのままタクシーを使い、懇意にする知り合いの病院へ向かった。
「睡眠不足と過労ですね。
血液検査も念のためしましたが、正常でした。」
血液検査に異常無しと聞き、真澄は安堵した。
そして、マヤをそのまま再びタクシーに乗せ、麻布のマンションに直行した。
「速水さん・・・ここは?」
「俺のプライベートマンション。」
この部屋は、水城と聖以外、その存在を知らない。
マヤは、突然の真澄の数々の行動に混乱していた。
真澄はそのマヤの混乱も承知の上で、何事もなかったかのように振る舞った。
「今日はここでゆっくり休みたまえ。
君には休息が必要だ。」
真澄は、マヤのドレスを脱がして、バスローブを肩にかけると、バスルームに案内する。
「ゆっくり湯に浸かって・・・話は後だ。」
マヤは途方に暮れながらも、真澄に言われた通りバスルームを使った。
バスルームから出ると、マヤのサイズにぴったりのファンデーションとシルクのパジャマが用意されていた。
どうしてこんなものが、この部屋に?
マヤは疑問に思うも、再び身体の怠さが襲ってきて、考えることを拒否して、リビングに戻った。
そこには、タキシードを脱いですっかり寛いでいるバスローブ姿の真澄がいた。
「速水さん・・・お風呂ありがとうございました。
速水さんも・・・」
「この部屋はmaisonetteで、上にもシャワールームがあるんだ。」
マヤが真澄に気を遣い、風呂を勧めようとしたら、真澄は笑ってシャワーを済ませたと言った。
「ここにおいで、マヤ。」
真澄は立ち上がって、マヤをソファまで連れてきて座らせると、程よく冷えたジュースをマヤに飲ませた。
「沢山フルーツを使ったから、飲みやすい筈だ。」
真澄が差し出したのは、野菜と果物のスムージーだった。
「マヤの事だから、芝居のことばかりで、食事や健康管理もおざなりになっているんだろう。」
真澄の言葉に剣はない。
しかし、マヤにはその自覚と負い目があるから、素直に謝るしかない。
「事務所の社長としては、マヤに御説教しなくちゃならないんだろうな。」
一つ溜息をついて、真澄は言葉を続けた。
「でも・・・今夜の俺は、マヤの社長じゃない。
ただの男・・・速水真澄でいたい。」
「速水さん?」
「・・・もう、限界だ・・・」
真澄がマヤを抱きしめた。
小さな声で、何度もマヤの名前を呼ぶ。
心を偽ったまま、もう生きてはいけない。
マヤはただ真澄に抱かれて、彼の想いを受け止めようと思った。
何故なら自分も同じだったから。
「ごめん、今夜はマヤをゆっくり休ませるつもりで、ここに攫ってきた。
眠れていないんだろう?
とにかく君を眠らせたい・・・。」
真澄に抱かれて、マヤは二階の寝室に運ばれた。
そして、大きなキングサイズのベッドに横たえられた。
マヤは溢れ出しそうになる気持ちを必死に抑えていた。
真澄の行動の意味がわからない・・・いや、わからないのではなくて、怖い。
期待してはいけないと思いながら、期待せずにはいられない。
「速水さん・・・私・・・」
「マヤ、大丈夫だ。」
真澄はマヤの額にキスをする。
わかってる、何も言わなくてもいい。
俺はもう君を傷つけない。
これからはずっと俺が君を守る。
そんな声が、マヤには聞こえた気がした。
「寒いか?」
真澄の優しい言葉に、マヤの心は目を瞑り、何も考えず、想いのままに真澄にその身を預けてみたいと、その欲求に素直に従った。
「ちょっと寒い・・・」
マヤが潤んだ瞳で自分を見つめる。
たとえそれが罪だとしても、マヤは真澄を諦めるつもりはなくなっていた。
真澄もまた、すべての憂いや迷いに封をして、今だけは想いのままに振る舞おうとした。
真澄はバスローブを床に落とし、デュペを剥がして、マヤの隣に横たわった。
マヤに背中を向けさせ、マヤの身体を自分に密着させた。
再びデュペをマヤの肩までかけてやり左腕でマヤを抱く。
右腕はマヤの頭上に回され、折り返した手で、彼女の頭を優しく撫でた。
「あったかいよ・・・速水さん。」
「俺がずっとマヤを温めているから、ゆっくり眠るんだ。
朝になったら、俺は君に告白をする・・・。
二人の未来のことを話したい。」
本当は言わなきゃいけないこと、聞かなきゃいけないことが山ほどある。
でも今は、何も考えたくない。
マヤと(真澄と)ただ温もりを分かち合っていたい。
やがてマヤから穏やかな寝息が聞こえ始めた。
真澄は、胸の中に休んでいるマヤの温もりと匂いを噛み締めながら、自分もそっと目を閉じた。
〜もう・・・何があっても、離さないからな・・・。
マヤに恨まれても、疎まれても、どんなに傷ついても俺はマヤから離れない。〜
この先何十年という時をマヤを求めて彷徨い続けなければならない、その痛みと苦しさに、真澄は今夜初めてリアリティを感じた。
感じた途端、どうにも気持ちの制御がつかなくなった。
欲しいものは欲しい、嫌なものは嫌だと、言える自分に戻りたい。
子供の頃に棄てることを余儀なくされた素顔の自分。
マヤが見つけ出してくれた、素顔の速水真澄を幸せにしてやりたい。
マヤに愛されたい・・・マヤを愛したい。
きっとマヤも同じ気持ちでいてくれると今なら信じることができる。
きっとマヤは、ずっと愛してくれていた。
自分が紫の薔薇の人であっても、そうでなくても。
マヤがそばにいてくれるなら、何も恐れることはない。
ありとあらゆる困難も乗り越えてみせる。
明日の朝、目覚めたら、それをマヤに告げよう。
寄り添いながら眠る二人は、ようやく穏やかな眠りを手に入れた。
翌朝、二人は朝日の中で互いの想いを確かめ合った。
「これから、嵐が吹き荒れるね・・・」
「ああ、でも俺は何があってもマヤだけは護るから、俺を信じてついてきてくれないか。」
egoistと謗られても、詰られても構わない・・・
罪も罰も甘んじて受け止めよう・・・
二人が二人でいられるなのなら・・・・
〜Fin〜