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大きな夢を成し遂げるために必要なこと

 

それは、

 

●明るい気持ちーどんな時でも心の中の針がマイナスの方にふれないように、プラスの方に転じていくように

●向上心ー今日より明日、明日より明後日という気持ち

●利他の心ー誰かのために尽くさせてもらうという気持ち(by 塩沼住職)

 

 

 

 

今回は、塩沼住職の

1300年に2人だけ達成、命がけの苦行から大阿闍梨が学んだ3つのこと(G1サミット講演会より)より

ヒントを頂きたいと思います。(赤字は抜粋)

 

この行に入るとき、師匠には「最低3回は生きるか死ぬかの瀬戸際を通過しなければいけない」と言われた。私の場合、その1回目は大きな熊が後ろから襲ってきたことだ。歌に出てくるような森の熊さんのような熊ではない(会場笑)。ある日突然、冷蔵庫が飛んでくるような感覚だ。そこで命からがら威嚇をして、その熊が山へ逃げてくれたから今の自分がいる。2回目は大きな落石。その落石でついていた杖が真っ二つに割れたことがある。そして3回目は、10日で11kgもやせてしまう体調不良だ。

489日 腹痛い。たまらん。体中の節々が痛くたまらん。道端に倒れ木に寄りかかり、涙と汗を流すほど心が成長する。しかし、どんなに苦しくとも前を向いて歩かなければならない。毅然と。俺は人に希望を与えさせていただく仕事。人の同情を買うようでは行者失格だと言い聞かせ、やっと帰ってきた。なんで48km歩けたんだろう。さっき近所のおばちゃんに、「軽い足取りやね。元気そうやね」と言われた。「はい、ありがとうございます」と答えたが、本当は違うんだよ。俺の舞台裏は誰も知る人はいないだろう。いや、知ってくれなくていい。誰に見られることも意識しない、野に咲く一輪の花の如く、御仏に対し、ただ清く正しくありたい。

思い返してみても、このときが人生で一番辛かった。何日も高熱が続き、何も食べられない状態が一週間ほど続いた。そして494日目、くず湯一杯だけで山から帰って来た私は、次の日に1時間寝坊をして、ふらふらになりながらも気が付くと山を歩いていた。そして、とうとう小さな石に躓いて、闇のなかで宙を舞うように転げ、顔面から地面に叩きつけられた。そのときに死を覚悟した。けれども、死の怖さはまったくない。目を瞑っていると、なにかこう、ふわーっとしたものに自分が包まれている感じだった。そのとき「永遠に時間が止まって欲しい」と、心の底から思った。ここでもし朝を迎えたら短刀で腹を切るしかない。そう思うと小さい頃からの思いが走馬灯のようによみがえってくる。

幼い頃、母や祖母が教えてくれたことのなかに、「徹底して好き嫌いをなくす」というものがあった。これは、どんなときでも明るく「はい!」と、先輩やお師匠さんといった目上の人に敬意を払い、なんでもさせていただくという気持ちにつながった。また、「約束を守って嘘をつかない」という教えも社会人としての評価につながっていった。そして、「どんなことがあっても目上の人に口答えしない」という心は、どんな相手に対しても、たとえ嫌な相手に対しても敬意を払うことにつながった。

そう考えると、「自分の人生は“感謝”だったんだ」と思った。出家をする日の朝、ご飯を食べ終わると母はすべての食器をゴミ箱に投げて、「砂を噛むような苦しみをして頑張ってきなさい」と言った。「そうだ、自分はまだ砂を噛む苦しみを味わったことがない」と。それで目の前にある砂を舐めて齧った。すると、そこで「こんなことはしていられない」と、猛烈な情熱が湧いてきた。そして再び前へ一歩、そして一歩と歩き出して、行がつながっていった。

人間が生死を分けるような体験をすると少しばかり人生観が変わるのだろうか。その後、自分が山のなかで感じ取った世界観も変わってくる。

563日 人間は皆、平等であると思います。この地球に生まれ、空気も水も光も与えられていることを感謝しなければならないと思います。夜空の星の数は人間が一生かかっても数え切れないほどあるといいます。それを考えたならば、もっと心豊かに生きていかなければならないと思いました。自分の胸に手をやれば、心臓が動いています。しかし、永遠に動いていることがないと思えば、人生という与えられた時間を大切に生きることができる筈です。自分自身を大切にするように、人を尊重するということも忘れてはいけないと思います。思い遣りの心が私たちに幸せをもたらす道です。朝起きる、歩く、食べる、寝る。人間生活の原点に返り、たった一人、お山にいると、こんなことを考えてしまいます。

同じことを同じように、情熱を忘れずに繰り返していると悟る可能性があると、2500年前に釈迦尊は言った。日々精一杯、「人として大切なものは一体なんだろう」と考えながら歩いて、そこで気付いたことは感謝と反省と敬意だ。「ありがとうございます」「すみません」「はい」。そういうことに気付いた。

 

 

 

「同じことを同じように、情熱を忘れずに繰り返していると悟る可能性がある」というお釈迦様の言葉を信じ、塩沼住職はひたすら苦行に邁進されました。


「人として大切なものは一体なんだろう」と毎日毎日精一杯そのことを考えながら歩かれて得られた気付き、

 

感謝・・・あリがとうございます

反省・・・すみません

敬意・・・はい

 

塩沼住職の苦行のお話を拝聴して、

 

改めて

 

感謝・反省・敬意の文字をながめてみますと、

 

今までよりずっと重く貴い言葉に感じられます。

 

 

私の言葉には心がない、と言われてきました。

 

そう言われても私には、その意味がよくわかりませんでした。

 

そういう私が生きてきた過去は、周りまで巻き込んで

 

不幸な状況をどんどん作り出していく人生でした。

 

 

それは、「ある」「足りている」「満たされている」ことへの感謝がなかったからだと思います。

 

 

末期がんで死にかけて、その後でも、散々周りに迷惑をかけて

 

それでも私を見捨てない周りの人達の深い愛情をたくさんたくさん頂いて、

 

やっと気づいた「感謝の気持ち」

 

こうやって、朝起きて、毎日仕事に行ける、

 

電車に間に合わないと走る自分にさえ、

 

こうやって走れている、凄いなー、ありがたいなーと

 

感じられるようになった今、

 

他の人から見ればほんの少しだけなのですが、

 

私の言葉にも心がこもるようになったのでは、と思っていますあせる

 

 

塩沼住職は、お母様、お祖母様の深い深い愛情を一身に受けてお育ちになったからこそ

 

この苦行を成し遂げられたのだと思います。 

 

 

そう思うのは、

 

私が、塩沼住職以上に人生の苦行を乗り越えられてきた素晴らしい方の

 

尋常ではない深く正しい愛をメガ級で頂くことができたからだと思います。

 

 

ものの見方・考え方を変えなければ、と気付かさせてくださったのもその方のお陰様でした。

 

 

メガ級の深い愛情で心が満たされて初めて人は「感謝の気持ち」が自然と湧き出てくると実感しています。

 

 

お母様、お祖母様のメガ級の愛情のもとお育ちになり、

 

まだ、2人しか達成されていない苦行を乗り越えられた塩沼住職のたどり着いた

 

人として大切なもの

 

「ありがとう」

「ごめんなさい」

「はい」

 

 

この3つの言葉は、きっと、

 

正しいものの見方、考え方にかわるためにの

 

キーワードになる言葉だと思います。

 

塩沼住職より貴重なキーワードを頂きましたニコニコ

 

 

ドキドキ最後までお付き合いくださりありがとうございましたドキドキ