片翼の青い鳥 66 | 片翼の青い鳥

片翼の青い鳥

幼い頃の晴朗な笑いと悲傷の日々
愛を求めて彷徨い 傷ついていくだけの心
どれだけ傷つけば 人は幸せになれるのだろう
ねえ 何を話せばいい?
だけどそうだね そんなことは もうどうでもいいことなんだ
忘れたはずの歌が聴こえてくる
街に降り注ぐ足音のように

 

 旅立ちの日は決まった。
 僕はウイーンへ行く。
 みんなで集まったのは、白いテーブルクロスのかかった豪華なレストランではなくて、セラピストの相談室の近くの小さなコーヒーショップだった。
 デコレーションがのった特製ケーキもない。

 それでもよかった。みんなが集まって、グループのメンバーが揃ったのだから。
 僕は、アイを誘って一緒にきた。僕なりの理由があった。マリアをアイに会わせたかった。アイは、すぐに、マリアの心の痛みを見抜くだろう。そうしたらきっと、アイはマリアの心の傷みだけを見つめて優しく微笑みかける。そう、微笑むだけのアイに、僕が救われたように。

 そうなれば、マリアの自傷癖が治るかもしれない。このセンチメンタルな男は、何とかしてこの少女を自傷癖から救いたかった。他人の自傷癖のことより自分の自傷癖のことをどうにかしろと笑う人がいるだろう。笑いたい奴は笑えばいい。なぜなら、同じ傷を持つ者にしか、その悲しみは見えないのだから。
 このことは、ルール違反だったかもしれないが、グループのメンバーは、アイを快く迎え入れてくれた。
 アイは、この日、僕の大切な仲間に会えるということをとても楽しみにしていた。そして、マリアのことをとても気にかけていた。実際、アイは、僕がウイーンに行ってもマリアとは友だちになるから大丈夫、と笑ってくれた。
 アイは、手作りのミサンガを用意していて、みんなにプレゼントした。
 いつもは大人ぶってるゲンとリョウも、優しいアイに見惚れて口ごもっている。僕にはそれが可笑しかった。

 マリアは、アイとすぐに仲良くなり、二人はコーンマフィンをオーダーする相談をしている。

 とても安心した。ユキは、マフィンにロウソクを立てることを提案し、そして火をつけた。
「素敵な毎日であるように、火を吹き消そう」
 セラピストが言う。僕はうなづき、大きく息を吸って、ロウソクの小さな火を吹き消した。けれど、僕はそのとき、素敵な毎日を願って火を吹き消す必要なんてない、って思っていた。なぜなら、今が世界でいちばん素敵な日だと感じているから。
「マサヤ、また会おうな」と、ゲンが言った。
「おれたちのこと、忘れるなよ」と、リョウが言った。
 ユキは、何も言わずにセラピストの手を握って僕を見ている。
 僕は言う。

「最後に、みんなで何か歌おうよ」
 一人遊びが得意だった僕。意地を張ることだけが、僕にできる唯一の抵抗だった。
 孤児院では何も口にせず、何度も脱水状態になっては病院に運ばれた。点滴を受けながら、ガラス越しに見える新生児たちを睨んだ幼い日々。
 夕暮れの保育園では、一人、靴下を丸めて壁に蹴り、大声で「ゴール!」と叫び続けた。お迎えは、いつも最後の残りんぼだった。

 僕を救ってくれた牧師さん、お姉ちゃんともさよならだ。
 お母さんもお父さんも、とうとう僕を迎えにきてくれなかった。僕のことを「待ちぼうけ」と、からかう連中たちと殴り合った。だけどそのとおり、連中たちの方が正しかった。
 自傷癖は治らず、僕の腕は何十条もの切り傷が刻まれ続けている。
 街を彷徨い、歩き、反抗し、愛を求めて傷つくだけの孤独な日々。何もかもがみじめだった。
 今、僕にあるもの、それはピアノを叩く指先だけだ。ウイーンから戻ってきたら、僕はもうみんなに会えないことを、自分がいちばんよく知っていた。
 養父は、今度は僕をどこへやるのだろうか。
 いつの日からか、僕は笑顔を忘れた。どこへ辿り着けば、僕はうまく笑えるのだろう。
「マサヤくんが歌ってよ」と、アイが言った。
「それがいい!」と、マリアも言った。
 コーヒーショップの窓際の壁に寄せて、アップライトのピアノが置いてあった。セラピストがそれを指差し、「どうぞ!」と、僕を冷やかす。
「へっへっへ。ぼくの歌は高いですよ。でも、今日はとくべつだからタダでいいよ。何がいい?」と、僕はおどけながらみんなを見た。

 だけど、みんな何も言わなかった。

 何も言わず、僕の言葉の続きを待っているみたいだった。みんなをしらけさせてしまわないように、僕は大きく胸を張って言った。

「よーし、じゃあ、ぼくの得意な歌をうたうね」

 僕は、孤児院で覚えた歌を、ピアノを叩きながら一生懸命に歌った。
 みんな泣いていた。
 僕も泣いていた。
 涙は、溶ける塊の氷だ。
 塊とは誇りだ。
 僕は、決して泣いちゃいけない人間なんだ。
 だけど、涙が頬をつたう。
 ほかのお客さんたちが、大人たちが、小さな僕たちを嘲笑っていた。
 僕たちは、いらない人間みたいだ。
 大人たちはよく笑う。
 どうしてそんなに笑えるのだろうと思っていた。
 大人になるってことは、うまく他人を笑えるようになるってことなんだろうか。
 僕たちは泣いてばかりだ。
 だけど、負けたくないって思った。
 店の片隅で泣いている僕たちが、例えば、もし、この世界からいなくなったとしても、そう、何も変わらず、時は穏やかに、誰もに等しく流れてゆくのだろう。
 この世界の誰かを傷つけることもなく、ただ、僕たちの心は置き去りに。
 足早に過ぎゆく大人たちの世界の中では、僕たちの存在は、こんなにもちっぽけで、そして、こんなにも無力だ。
 この街で暮らす人たちと同じように、寂しいときに泣くだけで、僕たちは笑われる。
 一人、サッカーボールを抱えて公園に行くだけで、僕はみんなに笑われた。
 事故で走れなくなった僕は、順番待ちをしていても、いつもみんなに先を越され、結局、すべり台にもブランコにも乗ることができなかった。
 たくさんの友だちと走り回って遊ぶみんなが羨ましかった。
 夕暮れに綴れ織られる痩せっぽちな影の中を、足を引きずりながら歩いて帰る一人きりの坂道。
 どうして僕なんだろう。
 一度うつむくと、二度と顔を上げられなくなった。
 だけど、それも僕だけじゃないよね。わかっているさ。
 最後に僕は言った。
「みんなさよなら。ぼく、ウイーンで頑張って、もっともっとピアノうまくなってみせるよ。それでそうさ、うん。そしたら、またこの歌をうたうよ。ぼくは、寂しい人たちのために歌いたい」
 アイが立ち上がり、僕に抱きついた。
 だけど、ゲンもリョウも茶化さなかった。
 ユキちゃんは、セラピストの胸に顔をうずめていた。
 マリアは、僕とアイのことをじっと見ていた。
 心に傷を持つ者は、他人の傷跡を見て嘲笑うことはない。
「アイちゃん。必ず迎えにくるから、待ってて」アイに抱きしめられたまま、僕は言った。「約束だよ」
 人は、出会いと別れを繰り返し、生きてゆく。
 みんなで分け合ったコーンマフィンは、涙の味がした。
 誇り高くあること。
 それが、この滅びの男を光に向かって歩ませる唯一の力。
 僕は知っている。
 一滴の水を乞うたとき、そのとき僕は、笑われる僕を認めることになる。
 それだけは絶対に嫌だ。
 そうしたら僕は、生まれた意味を諦めることになる。
 だって、生きることは、自立することなんだから。
 絶望の深海の淵にいても、僕は誇り高くなくちゃならない。
 笑われたって大丈夫さ、きっとうまくいく。
 僕は、そう信じているから。