「マサヤくん、牧師さんだって考えているんだよ」
人は、確かにひとりぼっちでいて、人生のことを考えるときは、いつだって悲しくなる。
そのあとは、ただ静寂の中で誰かが自分の名を呼び、そしてその名を初めて聞くような気分になる。
「うん、いくらでも聞かせてやるよ。でもね、君はまだほんの子供だからね。もう少し大きくなってからにしよう」
「ぼく、本当に聞きたいんです」
「もちろん、その気持ちはわかるよ。だが、その話はまたにしよう」
そう言って、牧師さんは、僕の頭を撫でながら立ち上がり、キッチンにいる娘を呼び、「彼に何かお話をしておやり」と、庭木戸の方へ出て行った。
高校生の彼女は、僕の本当のお姉さんのように振舞ってくれていた。
「うさぎ小屋に行こうか?うさぎさん、お腹すかせてるんじゃない?」
「ああ、ぼく、忘れてた」
「そう。また、ピアノに夢中になってたのね」と、彼女は優しく尋ねた。
「ごめんなさい。ねえ、お姉ちゃん、畑の人参を取ってきていい?」
「一緒に行こう。硬そうなのがいいわよ」
「うん、牧師さんから聞いてる。軟らかいのは、僕たちの分なんだって」
「そうなんだ。ねえ、さっき、わたしのお父さんと何の話してたの?」
僕たちは、勝手口から裏庭の畑に出た。
姉は僕の後ろを歩きながら、その両手を僕の肩の上に乗せて、優しく押し出すように歩いた。
「ぼくの父さんと母さんのことだよ。でも、牧師さんは教えてくれないんだ。なぜだろう?」
「その話かぁ...」
「お姉ちゃん、知ってる?」
「ううん、知らないけど。そのうち、話してくれると思うわよ。あせらなくてもいいじゃない?」
姉は、僕の気を紛らわそうとして、わざと楽しそうに笑った。
「どうして教えてくれないんだろう。ぼく、いつまで待てばいいのかなぁ?」
牧師さんから、やがて父と母が迎えに来てくれると聞かされていた。
だから、捨てられたんじゃなく、預けられただけだと聞かされていた。
そんな馬鹿げた話を信じていた。
「信じていた」というより、信じるしかなかった。
子供を捨てるなんて、そんなことありっこないと信じたかっただけだった。
「ねえ、マサヤくん。ずっとここにいればいいじゃない。わたしのお父さんもわたしも、マサヤくんがいなくなっちゃうと寂しくなっちゃうわよ。わたしたちって家族と一緒でしょ?」
「うん、そうだね」
人参をよりながら、僕は複雑な気分になっていた。
僕はよそ者だし、いつか離れ離れになると感じていた。
その時が来たら、僕はどこへ行くのだろう。
うまくお別れが出来るだろうか、などと考えていた。
人が別れたりする瞬間っていうのは、こういう何気ない一瞬にでもやってくるものだというふうに考えずにいられなかった。
何気ない一瞬に、僕が捨て去られたように。
別れと背中合わせで生きているということに、街で暮らす誰もが本当は気づいている。
それでも、みんな、それほど悲観的に過ごしていないのは、それと同じだけの出会いの数もまたあるからに違いない。
僕が、心優しい牧師さんと姉に出会えたのもまた、両親との別れがあったから。
つぎは、誰と別れ、誰と出会うのだろう。
西に傾く太陽が沈みきらないうちに、月がぼんやりと高くとどまっているのが見える。
「『うさぎ、うさぎ、何見て跳ねる...』、ねえ、この歌知ってる?」
僕は、首を横に振った。
「じゃあ、教えてあげるね」
そうして姉は、歌い出した。ジュウゴヤオツキサマミテハネル...。
僕は、人参についた泥を落としながら、時々一緒に口ずさんだ。
姉がうさぎ小屋の方に向かって歩き出したので、ついていこうと立ち上がると、姉は、ふっと立ち止まって僕を見つめた。
「ねえ、わたしのお父さんもわたしも、マサヤくんのことが大好きなんだよ。ずっと私の弟なんだから」
僕は両手に人参を持ったまま、黙って小さくうなづいた。
「さあ、うさぎさんにあげようね」
そう言って、牧師さんと同じように僕の頭をそっと撫でた。
「お姉ちゃん、レモネードが欲しかったら、ぼく、作ってきてあげる」
「どうして?」と姉は言ったが、即座に「うん、レモネード、いいわね」と笑った。
僕は、キッチンへ駆け込んだ。
牧師さんが夕食のお皿を用意していたところだった。
「お姉ちゃんにレモネードを作ってあげるんだから、レモンを一つもらっていい?」
牧師さんは、僕の口真似をして言った。
「それから僕も飲むんだから、もう一つレモンを...」
「嘘だよ、牧師さん。ぼく、ほしくなんかないよ」
牧師さんは冗談を言うのをやめ、優しく言った。
「冷蔵庫からレモンを出して。レモン搾りは、ほら、牧師さんが取ってあげるからね」
「ありがとう。急がなくちゃ」
窓の外から、姉が僕に手を振っている。
牧師さんが不思議そうに姉と僕を見た。
なあ、姉貴、いつか僕も誰かの心を開いて、歌を歌った思い出を残してやることが出来るだろうか。
姉は、いつも僕が寂しくならないように、僕の前を歩き、僕の背中を押して、そして、僕の肩を優しく包んでくれていた。