いつもお読みいただきありがとうございます照れ



2014.6.28

その日はあれっ!?!?という感じできました。

だって3日前は首を動かしたし、昨日だって今までと変わらなかったのに。


明け方3時半、私の部屋へ誰かが来た気配で目が覚めました。
ガバッと起き上がると、父が
「病院から電話があって、呼吸がおかしいからすぐ来てくださいと言われたよ」
と言いました。
「私も行く!」
と起きましたが、隣の部屋の娘は爆睡中ぐぅぐぅぐぅぐぅ


急いで起こして
「おばあちゃんがあぶないみたい、すぐ行くから用意して!!

すると娘は、

「私は前におばあちゃんと約束した。何があってもしっかり勉強するって。
今日は大事なテストがある。それを受けなかったらおばあちゃんとの約束を守れないえーん
と言ってシクシク泣き出したのです。

「えっ滝汗じゃあ私は行くから、ひとりで起きて学校に行ってね!」

と言うと、父から
「ひとりで置いておけない」
ということで、私は心を引きちぎられる思いで留守番。

(余談ですが、娘はその日のテストは学年4位となり、おばあちゃんとの約束をちゃんと守って勉強し、今は医学生になっています)


仕方ないとあきらめて、私は起きてお弁当を作ろうとしていた時に父から電話があり、
「4時18分だった。間に合わなかった」と。
急いで葬儀社に連絡を入れ、お迎えに行ってもらいました。


それからは、ただひたすら流れ出てくる涙を拭うこともなくお弁当を一心不乱に作って娘を送り出しました。

娘のことをちょっと恨みながらえーん


いつもお立ち寄りいただきありがとうございます照れ

一気に進めます。間をあけるときっと書けないです。


2014.6.25

主治医に「あと2週間くらい、ゴニョゴニョ」を言われてから、6週間以上が経ち

あれ!?なんか主治医の言ったこと間違ってたのかしら。
大げさに言われたのかしら!?

などと、今思えば根拠のないポジティブさに呆れるほどですが、

この状態からでも、回復する可能性を捨ててない私は、また仕事の終わりに母のところへあせる


なんと!
この日は母が動いたんです!!

首だけですがあせる


いつもの通り、脳に刺激を与えるというローズマリーやレモンのオイルで手のひらをマッサージしていると、
母が首を回して顔をこちらに向けてきたんです笑い泣き


目は開かないのですが、周りを確認するかのように、首を左右に動かす母。


その様子を私はこう記していました。

やっぱりね!やっぱり先生は大げさだったのよ!
お母さん、これからよ。これから元気になっていくんだよ!頑張ろうね笑い泣き


人の(私の?)脳みそって、都合のいいように解釈するものですね・・


私は意気揚々と帰宅して、家族に報告したのでしたショボーン

いつもありがとうございます照れ


ずっと書けなかった母のこと、一気に進めたいと思っています。



2014.6.21


主治医より声をかけられ、すごく話しにくそうに

「お母さんの親しいお友だちとか、ご親戚とか、会わせてあげたいなという方がいらっしゃったら、そろそろ」


あとはゴニョゴニョですねチーン



正直言うと、私は誰にも母に会ってもらいたいと思いませんでした。


私の母は人付き合いは悪くないのですが、腹を割って人と話すことはないタイプで、


友だち同士で夫や子どもの愚痴すらこぼさない人でした。

良く言うと孤高の人ポーン



だから人に自分の弱さを見せられない、強がりというのかな・・

私が二十歳の時に胃がんの手術をして、2/3摘出したことも、身内を除いて誰にも話したことないと言ってましたし。



そういう母の性格をわかっていたので、友だちに連絡なんてしたくなかったんです。

チューブがいっぱいつながっていて、意識もなく寝ている母を見せたくなかったショボーン



でも、親族は仕方ない・・

おじ・おばと従姉妹たちに連絡して、会ってもらうことにしました。



主治医の話を伝えるとみんな言葉をなくして、

sybilla母さんが一番長生きするって、みんな思ってた!

とか言われて・・泣き笑いです。



みんな一生懸命に母の手足をさすってくれました。小さな子どもたちまで。




いつもお読みいただきありがとうございます照れ


もう7年も前の話ですが、
悲しみや絶望はなかなか消えないものですね。


2014.6.1

この日は娘と一緒に母のところに行きました。


この頃には、経管栄養のためか血糖値がすごく高くなり、お腹にプチっとインスリンを注射されていました。(看護師からちゃんと説明ありました)


腹水も溜まり、尿量もどんどん減少し、
ひどい時は利尿剤で尿を出していたのですが、
それもどんどん効果がなくなってきていました。


足の先も紫色(チアノーゼというのかな)になってきていて、足首も固まって動かない状態。


注射の痕があちこちに残って、もう針を刺すところないんじゃない?というほど。


経管栄養もなくなり、頸部や足の付け根からの中心静脈栄養になっていました。


今ならこれがどういう状態がわかりますが、回復を信じて疑わない私たちは、
温かいタオルで身体を拭いたり、冷たい足先をアロマオイルでマッサージしたり、


休日は一日中寄り添っていましたね・・ショボーン


さすがに娘の「お腹すいたショボーン
の声で我にかえり、買い物して帰る。
そんな日々でした。

いつもお読みいただきありがとうございます照れ

続けて書き上げようと思っています。



病院で働く人たち、
医師、看護師、理学療法士、作業療法士、レントゲン技師
など、多くの職種があると思いますが、



病室のお部屋のお掃除や、寝たきりの患者さんのオムツを交換したり、体位交換とかしてくださる方たち、



実はこの方々が、私には一番身近な存在でした。



母がもう、まったく開眼しなくなった時でも、

オムツ交換や身体の清拭のときなどに、うっすらと目を開けるときがありまして、


そんなときはすかさず、

sybillaさん!お母さん目を開けたわよ!早く早く!

と、私が母の視界に入るよう、場所を譲ってくださったり、



sybilla母さん〜♪ 今日もいい天気よ!こんなとこいたくないよね〜散歩に行きたいよね〜

とか、返事のない母にも明るく大きな声で話しかけてくださるんですね。




人工呼吸器が装着されてから亡くなる日まで、

結局一度も目を開けず、話をすることもなかったけれども、

私の一方的な話しかけと、お世話をしてくださる方々の声かけは、きっと母に聞こえていたと思います。


あの時の明るい陽気なみなさんの声、

ずーっと耳に残っています


今さらですが、とってもありがたかった照れ


ありがとうございますおねがい