1943年、日本の人生活劇。

監督は稲垣浩、脚本は伊丹万作、主演は坂東妻三郎。モノクロ、スタンダードサイズ、99分。

 

明治30年、小倉に無法松と呼ばれる人力俥夫の松五郎がいた。松五郎は博奕で故郷を追放されていたが舞い戻り、若松警察の撃剣の先生と喧嘩をして頭を割られ、宿で寝込んでいた。

 

そんな松五郎は喧嘩っ早いことで評判で、ある日、芝居小屋で仲間の熊吉と枡席でニンニクを炊いて嫌がらせをし、木戸番と喧嘩するが、土地の顔役である結城重蔵の仲裁で素直に謝った。松五郎は意気と侠気のある男だった。

 

松五郎は堀に落ちてけがをした少年・敏雄を助ける。敏雄の父親は陸軍大尉の吉岡小太郎であり、これが縁で松五郎は吉岡家に出入りするようになった。しかし、吉岡大尉は雨天の演習で風邪を引き急死した。

 

夫人のよし子は、敏雄が気の弱いことを心配して松五郎を頼りにする。松五郎は夫人と敏雄に献身的に尽くしていった。

 

その後敏雄は五高に入学し、夏休みのため敏雄が五高の先生を連れてきて帰省した。本場の祇園太鼓を聞きたがっていた先生の案内役をしていた松五郎は、山車に乗って撥を取り太鼓を打つ。流れ打ち、勇み駒、暴れ打ち。長い間聞くことのできなかった本場の祇園太鼓を叩き、町中にその音が響いた。

 

それから数日後、松五郎は吉岡家を訪ね、夫人に対する思慕を打ち明けようとするが、「ワシの心は汚い」と一言言って、彼女のもとを去った。その後、松五郎は酒に溺れ、遂に雪の中で倒れて死んだ。彼の遺品の中には、夫人と敏雄名義の預金通帳と、吉岡家からもらった祝儀が手を付けずに残してあった…

 

なんでこの映画を書こうと思ったのか。

それは、宮川一夫先生がカメラマンを努めていたからである。

 

宮川先生は、この「無法松の一生」を、よく授業で話をしてくれた。

御年80歳になろうかというご年齢にもかかわらず、まるで青春の一コマのような輝きを放っていた。

 

後日、先生の授業の論文の提出を忘れたことがあった。

自責の念を書き、先生に送ってしまったのだが、無事その授業の単位はとれていたのである。

 

「無法松の一生」の授業で思い出に残っていることを少々。

 

大きな階段を下るシーンで、どうしても長回しをしたかった先生は、どうするか思案した結果、助手の皆さんを並べて、手渡しで撮影したそうだ。

ピントがずれないよう、細心の注意を払ってした撮影は、苦労の連続だったと思われるが、話をしている先生の表情からは一切感じなかった。

 

恐るべし、時代の寵児!

 

1990年の「浪人街」が遺作となってしまったが、あの情熱的な表情は今でも忘れることができない。

 

合掌。