2000年、ラース・フォン・トリアー監督作品。

ミュージカル映画とされているが、ビヨーク主演で有名となった。

 

アメリカのある町。チェコからの移民セルマは、息子ジーンと2人暮らし。貧しい2人はアパートに入ることもできず、隣人のビルからトレーラーハウスを借りて生活していた。

 

セルマは先天性の病気で徐々に視力が失われつつある。昼はプレス工場で働き、夜は内職をして手術費用を貯めていた。 

 

セルマの楽しみはミュージカルの舞台で歌い、踊ることであったが、それも視力の悪化で徐々に難しくなりつつあった。

 

ビルの妻リンダは、ビルには親の遺産があるのだと言い、実際にぜいたくな暮らしをしていた。ところが、実際にはリンダの浪費が激しすぎたために遺産はとうに底をつき、ビルは家を担保に銀行から借金をしていたのだ。

 

ある日、ビルから涙ながらにそんな愚痴を聞かされたセルマは、自分もジーンのために身を粉にして働き、手術費用を貯めているのだと打ち明ける。

 

セルマは完全に失明する前に何としてでも貯金を殖やそうと、キャシーの反対を押し切って工場での夜勤も始めることにする。仕事は大変だったが、セルマはプレス機の音をダンスの演奏だと想像して楽しんでいた。

 

しかし、ついにミスを犯したセルマは機械を壊し、解雇されてしまう。その帰り道、セルマから失明を打ち明けられたジェフはショックを受けるが、セルマ自身は空想の中でダンスを踊り、自分を励ましていた。

 

一方、自殺を考えるほど借金に追い詰められたビルは、セルマの貯金を狙っていた。セルマを罠にかけて貯金の隠し場所を知ったビルはとうとう金を盗み出し、さらに口封じのためセルマが自分に迫ったとリンダに吹き込んで、敷地からも追い出そうとする。

 

セルマはビルから金を取り返そうと、家の2階にいたビルのもとへ乗り込むが、ビルは拳銃を取り出して脅す。しかし息子のために必死なセルマは怯まず、もみ合いになったはずみで銃が暴発、ビルは瀕死の重傷を負った。

 

死を悟ったビルは、セルマを悪人に仕立て上げることで事態を収めようと考え、階下にいたリンダに通報させつつ、金が欲しければ自分を撃てとセルマを挑発する。混乱したセルマはビルを撃ってしまうが、それでもビルがポーチに入れた金を放そうとしなかったため、金庫でビルを激しく殴打して、ようやく金を取り返した。

 

ほぼ盲目となっていたため事態のわからないセルマは、そのまま眼科医に行き、貯金を預けると「ノヴィ」が来たら手術を受けさせてやってほしいと頼み込む。「ノヴィ」はセルマの故郷、チェコの有名なダンサーであり、眼科医はそれがジーンを指してのものだと察する。

 

その後セルマは逮捕され、やがて裁判にかけられるが、共産主義国であるチェコからの移民だったために差別視され、不利な立場に追い込まれていく。さらに、ほぼ失明状態にあったことを隠して仕事をしていたこと、貯金を周囲に知られまいとして架空の父親「ノヴィ」に送金していると吹聴していたことなどから、障害を隠れ蓑にして周囲の同情を買っていたと決めつけられる。

 

ただ金を取り戻そうと、見えない目で必死にビルを殴打したことも、冷酷で残忍な性質の証拠としてすり替えられてしまった。

 

セルマには殺人の罪で、絞首刑が言い渡された。

セルマに同情していた女性刑務官は、セルマに通風口から教会の讃美歌が漏れ聞こえてくることを教え、セルマは死刑執行までの恐怖の日々を「マイ・フェーバレット・シングス」を歌うことで乗り切った。刑が執行される日、キャシーはジーンの眼鏡をセルマに手渡し、彼が手術を受け、それが成功したことを知らせる。

 

女性刑務官に付き添われ、セルマは絞首台に立った。「最後から2番目の歌」を心に思い浮かべるセルマ。〝これは最後の歌じゃない。分かるでしょ。私たちがそうさせない限り、最後の歌にはならないの〟というフレーズの中で刑は執行され、その体は落下していく。見届け人の前で、ミュージカルの幕引きのようにカーテンが引かれ、やりきれなさを抱えた女性刑務官はその場に立ち尽くす…

 

セルマやビルやリンダなどなど、分かりづらい。

映像で観ないと、誰が誰やら…映画を文章で表現する難しさを痛感。

 

とにかく、ビヨークの歌声と表情がすばらしい。

悲劇へまっしぐらな映画なのだが、場面ごとに歌って踊る彼女の生命に満ちた声と踊りが、我々を救ってくれる。

 

マイ・フェーバレット・シングスなぞ、その代名詞。

人生に1曲は、こういう曲や歌を持っておきたいものだ。