今日のテーマは
『言葉と心の扉』
〜褒めてやってほしい〜
桂ざこば師匠が亡くなられて、いくつかブログで紹介しました。
今日は、ざこばさんと師匠の桂米朝師匠の話を紹介したいと思います。
皆さんご存知の通り、桂朝丸として若くしてテレビの人気者になられました。
注目されたのは日本テレビ「テレビ三面記事 ウィークエンダー」のレポーターでした。
٩(๑>∀<๑)۶
様々なスキャンダルを取り上げて、真相を追及する。
センセーショナルな音楽とともに「新聞によりますと!」とスキャンダルを紹介していく。
レポーターは泉ピン子、横山やすし、桂ざこば、今思えば実に濃厚な顔ぶれです。( ᴖ ·̫ ᴖ )
しかし一方で落語家として、落語をするために、随分苦労されたようです。(。´-д-)ハァー
噺家は、内弟子の年季が明けると、あとは自分で仕事を探しながら、落語を演じる場所を求めて活動するようになります。
師匠の前座をつとめたり、興行会社の寄席の高座に上がることもあるが、多くは地域の人々の協力を得て「地域寄席」を自分で開催するようになります。
落語家にとって「地域寄席」は、いつでも自分の落語を聞いてくれる場所と、お客さんがいる「ホームグラウンド」のようなものだそうです。
しかし、若くして人気者になったざこば師匠は、そうした修行の場を持っていませんでした。
それでも、ある時期から後輩が主催するような小規模な地域寄席に「飛び入り」で参加するようになったそうです。
そして……。
「今度、この噺を(高座に)かけますので勉強させてください」
と後輩に断って落語をするようになったそうです。
これ、なかなかできないことです。૮( ᵕ̩̩ - ᵕ̩̩ c)ა
そしてその精進、努力が実る日が来ます。
1981年3月13日、大阪のサンケイホールで「第1回桂朝丸独演会」が開催されることに。
桂朝丸34歳の年でした。
落語家が寄席以外の会場で大規模な落語会=「ホール落語」を定期的に開催した嚆矢は、ざこばの師匠の三代目桂米朝だと言われてます。
1971年7月からサンケイホールで始めた「桂米朝独演会」が大人気となったのです。
続いて1976年、ざこばの兄弟子の二代目桂枝雀もサンケイホールで「桂枝雀独演会」を始める。
サンケイホールは米朝一門にとって「檜舞台」と言える大舞台でした。
演目は「子ほめ」「不動坊」「首提灯」。
ざこば(当時朝丸)は、満を持してこの日を迎えます。
師匠の桂米朝は当日のパンフレットに、こんな一文を寄せます……。
𓂃𓂃𓂃𓂃𓂃𓂃𓂃𓂃𓂃𓂃𓂃𓂃𓂃𓂃
弟子入り当時(16歳)、朝丸と南海電車に乗っていて、難波に近づき車窓から大阪球場の灯りがちらっと見えると、
朝丸は……
「今日は暑かったから、ビールがよく売れるやろうと思います」
と言った。
朝丸は、家庭の事情で中学からアルバイトをしていた。
こんなあどけない子どもが、重たいビールを担いで、急な段差のある球場を上り下りしていたかと思うと、胸が詰まるような思いがした。
その朝丸が、今日、初の独演会を開く。
褒めてやってほしいと思う。
𓂃𓂃𓂃𓂃𓂃𓂃𓂃𓂃𓂃𓂃𓂃𓂃𓂃𓂃
朝丸師匠は、高座に上がるなり
「パンフレットの文章、よんでくれはりましたか」と客席に言い……
「嬉しい」といって男泣きに泣き始めた。
客席ももらい泣きをし、それから大きな拍手が起こった。
1947(昭和22)年生まれのざこばさんが大阪球場でアルバイトをしていたのは、昭和30年代半ば。南海ホークスの全盛期。
杉浦忠、野村克也、広瀬叔功らが活躍していたはずですが、ざこばさんはグラウンドに目をやる余裕もなく懸命にビールを売り歩いていたのでしょうね。
そんな境遇から必死に這い上がって、テレビの人気者、そして落語界の大師匠へと昇って行きました。
師匠の桂米朝は、そんなざこばさんのひたむきな努力を、じっと見つめていたのでしょう。
このエピソードには、二代目桂ざこばという芸人の人柄、そして師匠米朝の懐の深さが、現れていると思います。
桂ざこば師匠を、うまい落語家さんだと、失礼ながら思いません💦。
けれど、味のある落語家さんです。
ざこば師匠の落語は、桂ざこばでしか味わえない。 ( ᴖ ·̫ ᴖ )
「一文笛」を話している最中に、自分の落語で感極まって涙を流す噺家です。
そんな実のある噺家、そんじょそこらにいるもんじゃない!٩(๑>∀<๑)۶
私は師匠の落語を聞き終わると人間が好きでたまらなくなります。( ᴖ ·̫ ᴖ )
今頃、『米朝・枝雀・ざこば、親子会』の算段でもしてるでしょうか。
ヤリマショカ?( ´д) (´д`)ソヤナ (д` )ヨロシナ!
ではまた次のブログでお会いします🐝))