No.0317
(酬恩庵一休寺)

今日のテーマは

『言葉と心の扉』


言葉が持つ不思議な力をお伝えしたいと思っています。


「天地に恥ない生き方」

学生の頃(高校)に読んだ本の中に吉田松陰があります。( ᴖ ·̫ ᴖ )


安政元年3月28日、その前夜、吉田松陰は金子重輔(かねこじゅうすけ)と共に伊豆下田に停泊していたアメリカの軍艦に乗り付け、海外密航を企てました。


 しかし、よく知られるように失敗して、牢に入れられたのです💦。 


吉田松陰が牢番に呼びかけました。


 「一つお願いがある。それは外でもないが、実は昨日、行李(こうり/荷物入れのこと)が流されてしまった。それで手元に読み物がない。恐れ入るが、何かお手元の書物を貸してもらえないだろうか?📗📚」

牢番はびっくりした。‪Σ( ˙꒳​˙ ;)エ"ッ?!

「あなた方は大それた密航を企み、こうして捕まっているのだ。

何も檻の中で勉強しなくてもいいではないか?。どっちみち重いおしおきになるのだから」

すると松陰は、

「ごもっともです。それは覚悟しているけれども、自分がおしおきになるまではまだ時間が多少あるであろう。

それまではやはり一日の仕事をしなければならない。


人間というものは、一日この世に生きておれば、一日の食物を食らい、一日の衣を着、一日の家に住む……。

それであるから、一日の学問、一日の事業を励んで、天地万物への御恩を報じなければならない。この儀が納得できたら、是非本を貸してもらいたい」

この言葉に感心して、牢番は松陰に本を貸した。すると松陰は金子重輔と一緒にこれを読んでいたけれど、そのゆったりとした様子は、やがて処刑に赴くようには全然見えなかった。


。。。。。。


松陰は牢の中で重輔に向かってこういいました。

「金子君、今日このときの読書こそ、本当の学問であるぞ」

牢に入って刑に処せられる前になっても、松陰は自己修養、勉強を止めなかった。


無駄といえば無駄なのだが、これは非常に重要なことだと思うのです( -᷅_-᷄ ก)。

人間はどうせ死ぬものです。

いくら成長しても、最後には死んでしまうことに変わりはない……。


この「どうせ死ぬのだ」というわかりきった結論を前にして、どう考えるのか……。

松陰は、どうせ死ぬにしても最後の一瞬まで最善を尽くそうとした。

それが立派な生き方として称えられているのです( ᴖ ·̫ ᴖ )。


。。。。。。

「どっちみち老人になればヨレヨレになるのだから、体なんか鍛えてもしょうがない💦」 


 「どうせ死ぬ前は呆けたりするのだから、勉強してもしょうがない💦」 


 確かに究極においては「しょうがない」ことでしょう。そう考えるのは間違ってはいない。


しかしその究極まで行くと、そもそも生きることに意味がなくなるのではないでしょうか🤔。 


 そう考えると、意味がないから何もしないというほうがどこか間違っているわけで、むしろよく鍛え、よく精神を高めることに努め、最高の形になるに違いないという信念を抱いて生きるほうが、より良い生き方ができるのではないかと思うのです。


以前に「つとめを果たす」というブログを書きましたが、吉田松陰にとっては「学問」がそれだったのだろうと思います。


 吉田松陰が死んでからのことをどう考えていたかはわかりませんが……。

少なくとも生きている間は天地に恥じないように、何かに努めなければならないという心境だったんじゃないかと思うんです。‪(´•ᴗ• ก )‬՞ ՞


 それは生きている間は、一日の食事を摂って、一日の着物を着て、一日の住み家にいるわけだから、そのことに対して恩返しをしなければならないという考え方から出てきた心持ちではないでしょうか。


私はそれを「足るを知る」ということだと思ってます( ᴖ ·̫ ᴖ )



ではまた次のブログでお会いします。