No.0011
(酬恩庵一休寺)

今日のテーマは

『上方落語巡礼記』


71回目になります。٩(๑>∀<๑)۶


今回紹介する上方落語に縁の地は


「靭(うつぼ)」

「うつぼ」と聞くと、「海のギャング」魚のうつぼを思い出す方も多いでしょう( ᴖ ·̫ ᴖ )。

そちらは「鱓」と書きます。


この地名にはあの人物が関わってました。

『靭』というのは別名『矢巣(やす)』といい矢をいれる道具だそうです。

豊臣秀吉が市中を巡見した時に、『何十文やすやす〜!』と塩干魚売りの商人が魚を売っていたのをみて、洒落で『やすとは靭(矢巣)のことだ』と言ったのを、商人らが上意と受けて、

命名したのが由来と言われています。


冗談(シャレ)だったんですね(笑)

私も一時期靭公園のそばに住んでたことが有りました(´>∀<`)ゝ。


今日紹介する上方落語は

『牛の丸薬』

です。

ちょっと季節外れですがお楽しみ下さい。

桂米朝バージョンのあらすじです。

。。。。。


暖かくなったので、清やんが大和炬燵を掃除してなおそうと、縁側に放り出しておいたら、土砂降りの雨に当たった。土でこしらえた大和炬燵がワヤになって柔らかくなってしまった。

指で押すと穴が開き、指先でこねると丸い土の玉がいくつでも出来る。


 この丸薬に見える丸い玉でひと儲けができると考えた清やんは、喜六を「昼飯付きの二円の日当」で誘い、あくる朝早く風呂敷包を一つ背負わせて、ポイッと表へ。

まだ薄暗い城の馬場を斜めに突っ切り、片町から野辺へかかってくると、東がうっすら白んでくる。朝露のおりた田舎道を、二人連れで歩いて行きます。


とある村の入口。

 茶を飲みながら茶店の婆さんから村の様子、情報を聞き出す。

清やんは婆さんの話から村で一番金持ちそうな、白壁引き回して蔵があって、門口に大きな木のある次郎兵衛さんの家に目をつける。


 そばでまだ駄菓子をほうばっている喜六を引っ張って、次郎兵衛さんの家の近くまで来ると清やんは、

「わしはあの家に干鰯(ほしか)屋のふりをして入って行く。・・・この煙草入れには胡椒の粉が入れてある。

わしが合図したら、おまえはそっと裏の牛小屋に行って、牛の鼻に煙管(きせる)で胡椒の粉を吹き込むのや。そんで、そっと逃げてこい。お前の仕事はそれでしまいや」


「……なんでそんなけったいなことを?」


「何でもかまへん。それで二円の日当だから、しっかりやれ」


「これは、これは、旦那さん。私は大阪の靭の干鰯屋でございます。一つお願いしたいと思いまして……」

 清やんは、靭(うつぼ)の干鰯屋になりすまし次郎兵衛さんに取り入り、話をしながら頃合いを見計らって喜六に合図。

喜六は段取り通り牛小屋に回って、煙管に詰めた胡椒の粉を二杯もフーッと牛の鼻に吹きかけた。


しばらくするとさすがの牛も地べたへ鼻をこすりつけて苦しみ出した。


 家の者の騒ぎで驚く次郎兵衛さんに

清やんは

「・・・近頃、和泉のほうでこんな牛の病気がはやっとります。急に苦しみ出して、三日もたたないうちに死んでしまう。ほかの牛にもうつって、牛小屋全部、村の牛全部が死んだところもおます。・・・ちょうどこの病気に効く薬を持ってますんで、飲ましてやりたい。すんまへんが、手桶に水を一杯……」


と、例の丸薬をおもむろに取り出し、手桶の水で牛の口へ流し仕込むように見せかけ、牛の鼻の中にザブザブ。

すっかり胡椒を洗い流してしまった。


 牛も気持ちようなって、「モォー」と、もう何ともない。


喜ぶ次郎兵衛さん、

「よく効く薬やなぁ、何という薬や、どこで売ってるのや」

清やんはもったいぶって、

「まだ数が少なく高すぎて、薬屋などでは売っておまへん」

そう言われるとなおさら欲しくなる次郎兵衛さんに清やんは、

「ほんなら、一粒一円で十粒だけ」

と、売りつけた。


 話を聞いた村人が続々とやって来た。困ったふりを装いながら、清やんは持ってきた百粒以上の偽丸薬を完売御礼。


 帰り道を急ぎながら

喜六 

「おまえはえらい男やなあ。ちょっとの間に、あれだけの金、だいぶ懐がぬ(温)くなったな」


清やん

 「ぬくなるはずや。もとは大和炬燵や」


。。。。。。

えぇ〜‪(´•ᴗ• ก )‬՞ ՞如何でしょうか?


大和炬燵

黒土の素焼で、小型のアンカです。

もとの土が奈良でとれたことから、この名前になりました。


(写真はお借りしてます)

上部が丸く、布が張ってあり、中は火鉢になっていて、たどんを入れて暖めたもの。

寝るとき蒲団の足元に入れ、家族が四方から蒲団を敷いて暖をとっていた、昼間は手あぶりとして使用していました。

昭和初期まで、関西地方では使われていました。


干鰯は、生のイワシを、天日で干し固めた田んぼの肥料。金肥ですから、貧村ではあまり使えなかったわけです。

大阪の靭は、江戸時代から干鰯屋が軒を並べ、今もその跡を記念する碑が残っています。



ではまた次のブログでお会いします。