小泉八雲

(パトリック・ラフカディオ・ハーン)

 


耳なし芳一むじな雪女を含む「怪談」が有名な、明治期の日本で活躍したイギリス籍の随筆家、小説家、著述家です。

 

私、高校時代の担任の英語の先生が、授業の副読本に八雲の「怪談」を使っていた為、とても印象に残っている作家です。

 






先日、静岡県焼津市にある、「焼津小泉八雲記念館」に行ってきました。

 

熊本在住時、九州でも有数の老舗百貨店「鶴屋」の裏手あたりにひっそりとあった熊本時代の旧居を訪問して以来の八雲関連施設訪問となりました。

 





つきあいにくい男?


 

その八雲ですが、知れば知るほどその妥協しない姿勢に驚かされます。いや、そんな綺麗ごとではない、まぁ、一筋縄ではいかない、扱いずらい、プライド高い、どこでも浮いてる、群れない、頑固な、そんな男だったと私は思います。

 

アメリカに裸一貫で移住後、苦労して出版社の記者の仕事につき、自分でもとても気に入っている日本での取材の仕事を任せてもらったにもかかわらず、横浜港についた途端仕事の契約を破棄、未知の異国でいきなり無職となってしまいます(同行者のギャラと比べての不満から)。「やってられるか!」ってことだったのでしょう😅。

 

その後も、アメリカで得ていた日本人の知己を頼りに、せっかく世話をしてもらった松江での教師の仕事を、「寒くてやってられん。」と1年程度で投げ出しています。

 

次に紹介してもらった、当時の名門中の名門、加納治五郎が校長をしていた第五高等学校の教職の仕事も、周りとうまくやれず数年で退職、

 

次は、多くの外国人が居住する神戸で、新聞社の記者になったのですが、ここでも逆に外国人社会で浮いてる存在となってしまい退職、

 

その後、幸運にも東京帝国大学の講師の座をえますが、これも他の教師たちとの軋轢で退職、早稲田大学に転職してしまいます。

 


父母との別離、

叔母との生活とその破綻


 

こういった性格が形成された背景は何だったのか?これはよくわからないし、生まれ持っての性格なのかもしれません。


でも、アメリカに渡るまで、両親の愛情に恵まれず叔母さんに育てられたこと、その叔母さんも破産してしまい、自立せざるを得なくなったことが、影響してるかも。。


また、元々母親は、アラブ系の血が入っているらしく、現在のギリシャ領で生まれたこともあり、キリスト教的な規範にも違和感を持っていたとも言われています。

 


妻や子への深い愛情


 

ただ、松江で一緒になった節子夫人3人の息子さんと1人のお嬢さんには、溢れんばかりの愛情を注いでいたことが、残されている手紙からもすごく伝わってきます。とても子煩悩でもあり、筆豆だったようですね。多くの手紙のレプリカが、記念館に展示されていました。たどたどしいカタカナの日本語で、家族とだけ通じ合えるものだったようです。

 


焼津の人々との心温まる交流


 

最晩年の5~6年間、毎年夏は静岡県焼津市の魚屋、山口乙吉さんのお宅にひと月くらい避暑で滞在していました。子供を連れてくることもあったし、奥さんの節子さんも来られたこともあったようです。


八雲は焼津の地を殊の外気に入り、また乙吉さんを大変慕い、尊敬していたそうです。市井に生きる善良で親切で面倒見がよく、いつも八雲たち親子の海での安全にも気を配っている、そんな明治の日本人だったようです。

 

↓↓↓↓ 山口乙吉さん



乙吉さんを通して、村の人々との交流が生まれ、夏祭りを一緒に楽しんだり、それこそ地元に溶け込んだ生活をしていたようです。きっと東京での仕事中心の暮らしとは180度違った心持で日々を過ごせていたんじゃないかと思います。ゆったりとした穏やかな気持ちで。



日本にも見切りをつけた?



八雲は、結局は日本に失望し、見限ったという説があります。


確かに明治の日本で、外国人が家族を抱えて生きていくことは相当な苦労と我慢と不便が伴ったことは想像に難くないです。ただ、八雲は家族のことを思い、不自由をさせないよう、英国籍を捨て、日本国籍を取得していました。これについては英国が国籍離脱を許可しなかった為、八雲は二重国籍となっていたとの説もあるようです。

 

ただ、最晩年は家族でのアメリカ移住を模索していたようなので、そういった説も出てくるのかなとは思いますが、これも子供たちへの教育の事などを熟慮していたからではないかと私は思います。

 


ロックな生き方


 

不遇な家庭環境にも拘わらずアイルランドで猛勉強し、無一文でアメリカに渡ってからも努力を重ねて物を書く仕事に就き、日本に渡ってからも、言葉も不自由な中、どんなに苦しい時期も一貫して日本に関わる多くの著作に心血を注ぎ書き続け、結果、大きな評価を得るに至りました。



決して妥協しない人生、多様性に富んだ人生、反骨心に富んだ人生、家族を大切にする人生をつら抜いたんじゃないかな。これもロックな生き方だと思います。



こういう方と地元との縁が深いということ、とても嬉しく思うし、自慢したくなります!

 




現在は、富士山静岡空港から、出雲に1日2便のフライトが就航しています。


島根県は、学生の頃、行ったきりなので、是非観光がてら、小泉八雲記念館にも足を延ばしてみたいなと思っています。

以上です。