大正6年。

1917年8月14日~20日。

 

高校野球「第3回大会」は

全国118校が参加し、出場校は12校。

 

当時「敗者復活戦」があって

そこで生き残ったチームがナント優勝しました。

 

(画像は「甲子園歴史館の壁画」)

 

一回戦敗退組の6校は

抽選で4校」が復活戦に残るシステム。

 

敗者復活で勝ち進んだ「愛知一中」は・・・。

 

決勝戦でも「あと一人」に追い込まれるが、

この場面で「降雨ノーゲーム」の命拾いをし。

そして翌日、再試合で優勝してしまう。

 

これにて「敗者復活戦」は中止に。

おおらかな時代だったのが伺えます。

 

そういえば40年前。

とてもお元気な重役さんが

高校球児あがりの自分に

「ボクは愛知一中だ」と。

咄嗟にボクは「あの敗者復活の!」と。

 

「芸は身を助ける」と言うが

随分ボクも「野球」に助けられたグッド!

 

しののめの~上野丘に~・・・

 

池田高校野球部監督だった故・蔦文也さん。

1983年の著書「攻めダルマの教育論」。

 

ボクも23歳の頃、買って読んだのですが、

その著書には

人生は敗者復活戦とありました。

 

その当時ボクは、22歳で退社してしまい。

就職活動は、考えて迷った末に

「ライバル会社」への転職を選んだんですあせる

 

自ら履歴書を持っての「押しかけ就職」でした。

 

メーカー営業マンが「ライバル社」への移籍。

同業者やら得意先やらの

「風当たり」は、もう覚悟の上だった22歳。

 

あの当時ボクは

人生は敗者復活戦」に勇気をもらった。

 

人間「ハンディ」を持ったほうがね。

「汚名返上だ」と頑張れるものです。

 

あの時「見返してやりたい一心」でした。

「やりなおし」は、いくらでもナンボでも利く。

 

敗者復活の生き方は

じつは自分に最も向いていたかもしれません。

 

蔦文也さんの壮絶な人生は

まさに敗者復活戦です。

やさしいですね。ご苦労された方の言葉は。

 

いえ。

蔦さんだけじゃなく。

 

きっと、あなたも私もみんな

これまでの道のりは

「敗者復活戦」だったのではないでしょうか。

 

次世代の人に

贈る言葉」としては最適だと思います。

 

「人生は敗者復活戦ぞ」