デリカシーとは・・・
「感情・心配りなどの繊細さ」とあります。

デリカシーは「心配り」だとすると
心配りは「マナーやモラル」のベース。

その「心配り」のベースは・・・
ボクは「恥じらい」だと思っているんです。

自分に「恥じらい」を感じない人に
「マナー・モラル・デリカシー」は、むずかしい・・・。

ところが「恥じらい」は、
その人の「感受性の問題」であり
人から教わって身に着くものではないでしょう。

「恥じらい」というのは、
もって生まれた「資質の問題」だと思うのです。


*********************


ボクは、幼少から「恥じらい」を隠してきて(笑)。
「恥じらい」を恥じらって「快活」に振る舞ってきたんです。

甲子園が夢だったから
豪快で男らしい「明朗快活」を心掛けたワケです。

ところが、晩年になって感じることがあります。
「明朗快活な人」ほど「デリカシー」に欠ける?と(笑)。

これは、ボクを含め「老若男女」に散見されます。

明朗快活なボクらは、
いつも「輪の中心」に居ます。

人気者はご用心。

その大胆さ(笑)が「厚かましい人」に成りがちです。

たかじんさんが「大阪で長く愛された」のは
たかじんさんに「恥じらい」があったからです。


「恥じらい」は、「心配り」となって
「マナー・モラル・デリカシー」へと発展します。

「恥じらい」こそが
人を形成する原動力だとボクは思います。