「北の新地は、蜆川」の巻 | となりのレトロ調査団

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となりのレトロ調査団~大阪の川跡を見に行く

「北の新地は、蜆川」の巻 ②

 

今回のテーマである北新地、別名、曽根崎新地をご紹介して行きます。1685年(貞享2年)に河村瑞賢によって堂島川とそのすぐ横を流れる蜆川が整備され、1688年(元禄元年)に堂島新地が、1708年(宝永5年)には曾根崎新地が誕生しました。堂島新地、曽根崎新地は大坂城下の北端、または、船場の北に位置することから“北の遊里”とも呼ばれていました。西の新地、南の新地があって、“北の新地”と言うことになります。この堂島川、土佐堀川周辺の中之島界隈と言うのは、大坂の役以来の徳川家に対する貢献を高く評価された淀屋が、幕府より直々に開発を許された土地で、淀屋は土佐堀川の南岸、淀屋橋の南詰め(ミズノ本社が有る辺り)に広大な屋敷を有し、その目の前の浜で米市場を開いていたのですが、1730年、米市場が堂島川の北岸(ANAクラウンプラザホテル大阪が有る辺り)に移設され、堂島米会所が開設されたため、堂島川周辺はたちまち、幕府、諸藩の蔵屋敷、大店が立ち並び、官庁街、ビジネス街化が進みました。そのため堂島川辺りで商売してきたお水関係のお店は、徐々に曽根崎へ移転して行くことで、北新地の中心が、堂島から曽根崎へシフトして行ったのです。とは言え、米市場、蔵屋敷と曽根崎新地は目と鼻の先でありますので、曽根崎新地には、町民で賑わう他の新地へはなかなか顔を出しにくいお武家様の姿も見られたそうで、当時から高級接待用として利用されていたようなのです。その歴史は現代にも引き継がれ、取引先との接待用高級クラブへと脈々と受け継がれて行ったと言うことなのです。なるほど、判り易い話です。

 

 

曽根崎新地と言うと、やはり「曽根崎心中」。近松門左衛門の作品であるのは、歴史の教科書で勉強したような(?)気がしますが、ボクにとっての「曽根崎心中」と言えば、近松門左衛門というよりは、増村保造監督の映画、「曽根崎心中」の方がどちらかと言うと親しみやすいです。宇崎竜童さん演じる平野屋の手代、徳兵衛。天満屋の遊女お初は、梶芽衣子さんが演じていました。ATGらしい映画だったのを記憶していますで。つまり、暗い映画だったということですね。原作者である近松門左衛門の作品には、堂島新地、曽根崎新地を舞台にしたものがいくつかあって、1703年、人形浄瑠璃の竹本座が初演したこの「曽根崎心中」は、それまでのヤマトタケルや義経などの伝記、伝承が描かれた歴史物ではなく、俗性の出来事を基に書かれた世話物と呼ばれる新ジャンルで、これがまた、当時の人々に大好評を得たそうで、道頓堀に小屋を持っていた竹本座はそれまでの借金をすべて返済してしまった程、大盛況だったとのことです。後に浄瑠璃だけではなく、歌舞伎にも取り入れられ、そちらでも好評を博し、当時の人々は、「この世で叶わぬ純愛ストーリー」に夢中になってしまったようです。実際の心中場所となった天神の森は、露天神社の裏手にあった杜で、爆発的なお初人気から、その後は、お初天神と呼ばれるようになります。四方をビルに囲まれ、見上げれば狭い空の下、今も同じ場所にあります。神社の裏門から大通へ抜ける入り組んだ迷路は、数年前まで地上げ途中のゴーストタウンのような空気が漂っておりましたが、今は元気に営業している呑み屋さんが立ち並んでいて、なかなかレトロで猥雑感溢れる素敵な裏路地として見事に復活を果たしました。

 

 

近松が多くの心中ものを手がけた背景には、元禄以後、宝永、正徳と続く時代(1704年~1715年頃)、心中が伝染病のように流行してしまったと言う事情があるそうです。そのため幕府は、享保八年(1723年)、心中ものの上演を禁止ます。浄瑠璃、歌舞伎で演じられる心中ものが男女の心中をそそのかしているというのが、その理由でした。その禁止令が出される3年前の享保五年(1720年)に発表されたのが、近松心中物の最高傑作とされている「心中天網島」です。曽根崎新地の遊女小春と難波のしがない商人、紙屋治兵衛が大坂網島の大長寺で起こした心中沙汰を下敷きにしています。頼りない治兵衛に小春と女房のおさんと言う、二人の女のそれぞれの情が絡むことで、簡単に言ってしまえば、男女の間の三角関係のもつれ?みたいな展開なのですが、それだけでは収まらず、心中そのものに怪しい艶やかさが漂っていて、この感覚、ちょっと前に流行った、YOASOBIの「夜に駆ける」と言う曲に通じる気がしてなりません。本来はとても凄惨な出来事である筈の心中、死と言う行為が、妙に妖艶で美しいものとして受け入れられたのだと思います。さらに、「名残の橋づくし」の一節には、当時曽根崎川に架けられていた難波小橋、蜆橋、桜橋、緑橋、梅田橋など、橋の名が巧みに取り入れられています。しかし、この曽根崎川も明治42年(1909年)の北の大火後に瓦礫の廃棄場所として上流部が埋め立てられます。ついで、大正13年(1924年)には下流部が埋め立てられました。埋め立てられた川跡は曽根崎2丁目となり、たくさんのお店が立ち並んでいます。因みに、きんつばで有名な出入橋は、この曽根崎川から分岐して、大阪駅まで船で荷を運ぶために掘られた入堀に掛かる橋。きんつば屋のおかみさんに尋ねたところ、昔は、澱んでいて、くっさい川やったそうです。そう言えば、道頓堀も85年の阪神タイガース優勝当時は、ドロドロの汚水のような川でしたもんね。カーネルサンダースさんは、その後、見つかったんでしたっけ? この出入り橋に限っては、橋の一部が今も残っていました。こういうのを見つけると、本当に嬉しくなってしまいます。

 

 

北新地、曽根崎新地は、よく東京の銀座と比較されますが、銀座と言う地名が東京ではなく、大阪に有ったかもしれないという話をします。本来、銀座と言うのは、銀貨を鋳造する場所や銀地銀を売買した場所のことを指していて、1598年、秀吉が死去した年、伏見城下に設けられた銀貨鋳造所が銀座の始まりとされています。1606年には、家康のお膝元である駿府(静岡市葵区)にも銀座が設けられますが、その6年後の1612年、駿府銀座は江戸に移転することになり、その銀座が今の地名の所以になるのでありますが、実は江戸に銀座が設けられる4年前の1608年、すでに大阪に銀座が設けられていたと言うのです。 “生野や石見の銀山から銀を仕入れ、京都の鋳造所へ運び込むこと”や“大阪で商売に使われている使い古しの銀を新しいものと交換すること”がその主な目的でした。さらに当時我が国は世界有数の銅産出国で、特に大阪が銅精錬の中心地でしたので、“銅を精錬する際に出る灰吹銀と呼ばれる銀を大阪で集めること”もその大きな目的だったのです。その後、時代が明治に変わり、政府はこの国の貨幣制度を大きく見直します。円に統一したことにより、銀座や金座の使命は終わりを告げ、貨幣製造は造幣局にバトンタッチされました。大阪の銀座跡を記すプレートが、北浜から高麗橋を渡って、東へ100mくらい行った場所にあるそうです。銀とのつながりを考えた時に、銀座は決して東京だけの独占的な地名と言う訳ではなかったので、銀の取り扱いでは江戸に引けを取らなかった大阪や京都に銀座の名前が残っていても不思議ではなかったのです。逆に、江戸、東京にだけ銀座の名前が残っていることの方がむしろ不思議なのかも知れません。明治以降、ますます西洋化が進む東京。華やかで時代の最先端を行く町を象徴する銀座の名前はその後独り歩きし、日本国中の商店街、繁華街に、○○銀座が出現するくらいの銀座ブームが到来することになります。因みに、銀座と名の付くものは、全国に3百数十か所あるそうです。こりゃ凄い。

 

 

実際に蜆川(曽根崎川)跡を歩いてみました。中之島の西の先端辺りで、堂島川から分岐します。大阪の川の名前には、大川、木津川、安治川、堂島川などのような○○川と言うのと、道頓堀川、東横堀川、長堀川のように○○堀川と呼ぶものがありますが、蜆川(曽根崎川)には堀の字が付きませんので、新たに開削した川ではなく、元々ちょろちょろと流れていた川を改良したものであることが判ります。その埋め立てられた川跡は、今は普通の道路になっています。その道に沿って東に向かって歩きます。ほぼ堂島川と並行している道を進んで行くと、浄正橋の表示が見えてきます。今は浄正橋と言う橋は有りませんが、昔、蜆川に架かっていた橋の名前が今も交差点に残っています。そして、曽根崎エリアに入ると、川跡は道ではなく、細長く店舗が連なる曽根崎2丁目へと姿を変えます。その川跡の上には、商業ビルが建ち並んでいます。さらに東へ進むと道端に桜橋の石碑が立っていました。桜橋と言う橋も今は有りませんが、桜橋と聞くと、ボクはサンケイホールを思い出します。そして、サンケイホールと言えば、なんと言っても米朝一門会です。かなり凝り固まったイメージですけどね。今は建て替えられ、名前もサンケイホールブリーザに変ったそうです。頭にサンケイホールと残してくれているのが、ちょっと嬉しいです。そう言えば、学生時代、映画研究部の先輩I藤さんに、「お前、バンドやってるんやったら、キー坊、知ってるやろ? え? 知らんのかいな。ほな、今度誘ったるわ」と、早速、上田正樹のライブに連れて行ってもらったことが有って、その会場がサンケイホールのすぐ近くにあった毎日ホールでした。アンコール曲は、オーティス・レディングの名曲、「I can‘t turn you loose」。(ブルースブラザーズがライブのオープニングに演奏していたあの曲) 特に飾りつけの無い殺風景な舞台の上、コンビの革靴を脱ぎ捨て、タイを首元にだらしなくぶら下げ、はだけたタキシード姿で歌いまくる、汗まみれの上田正樹は、とにかくカッコ良かったのを覚えています。その数年後に「悲しい色やね」が大ヒット。「キー坊、良かったな~。報われたな~」とウチ等、友達でも何でもないんですけど、内輪でこんなことを言い合い、喜んだのを昨日のことのように覚えています。そして、この毎日ホールが入っていた毎日大阪会館の南館には、ボク達映画好きが、プレイガイドジャーナルやLマガジンと言ったイベント情報誌を頼りに数々の名画に出会えることができた大毎地下劇場と言う映画館も入っていて、さらに言うと、ボクが初めて外タレと呼ばれる外人ミュージシャンを観たのが、この近くのフェスティバルホールで、それが誰かと言うとスティービー・ワンダーでした。前から6列目下手側、目の前でキーボードを弾きながら歌うスティービー・ワンダーは、ドームスタジアムのライブで観る手乗り系ではなく、等身大のスティービー・ワンダーでした。

 

 

その先、御堂筋を横切り、通りを渡ったところに建っているのが大阪市高速電気軌道㈱曽根崎変電所。これもなかなかレトロな建築物です。その横を通り過ぎ、再び蜆川は堂島川に合流するのですが、「その合流地点はここ!」と特定できるものが何かないかと探してみましたが、そういうものは残っていませんでした。「まあ、この辺りかな」と言う地点の写真だけ押さえておきました。

 

 

すでに埋め立てられてしまった川跡を見に行くと、いつも思うのは、残しておいても良かったのに・・・と言うことなのですが、ご多分に漏れず、今回も「蜆川、残していても良かったのに」、なんて思ってしまいます。その時代その時代の様々な事情があって、最終的にお役所が埋め立てを選択するのでしょうが、十分な検討を経ての判断でしょうから、これも仕方のないことと諦めるしかありません。ただ、「もし残っていたとしたら、どんな風景だったのだろう・・・」と想像の世界に浸り、イメージすることはできるのです。

 

船頭の櫓の捌きに合わせ、小舟は右に左に舳先を揺らしながら、蜆川の川面を滑るように進んで行く。汐津橋を過ぎた辺りで日は西に傾き、午後の遅い時間ともなると、日中の蒸し暑さが嘘のように、頬をかすめる川風が心地いい。船から見上げる両岸には所狭しとお茶屋が建ち並び、この新地で一番の由緒を誇る揚屋の荘厳な門構えを前にすると、懐に忍ばせた精一杯のなけなしの金子に己のちっぽけさを今更ながらに思い知らされるのである。時はすでに夕刻近く。今日一日の別れ際に、お日様が満身の力で惜別の光を放つと、辺りは一気に橙色のグラデーションに染め上げられて行く。しかし、その鮮やかな色彩も徐々に忍び寄る闇には抗えず、町中が次第に漆黒の世界に吸い込まれて行く頃になると、曽根崎の廓町は、辻々に灯る提灯の明かりに絆されて、一気に妖艶な空気に包まれて行くのです・・・。

 

今回も妄想の世界に浸りながら、となりのレトロ調査団~大阪の川跡を見に行く、「北の新地は、蜆(しじみ)川」の巻、終了です。あっちへフラフラ、こっちへフラフラ、個人的な思い出話に最後までお付き合いいただき、心から感謝いたします。いつも有難うございます。