「堺の謎を解明するのだ!」の巻 その② | となりのレトロ調査団

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「堺の謎を解明するのだ!」の巻 その②

 

さて次、②番目の質問は、“堺を象徴する物”です。やはり、一番多かったのは、「仁徳天皇陵」、「古墳」、「前方後円墳」という回答でした。小学校の頃だったか、社会科の教科書で見た、あの鍵穴型のお墓。前方後円墳。この辺りで一番デカいのが、仁徳天皇陵。ところがこの仁徳天皇陵、最近の教科書では、大仙陵古墳(大山古墳)という名称で紹介されているそうです。宮内庁は仁徳天皇の御陵としているのですが、誰の墳墓であるのか、実のところ解明されていないそうなのです。大仙公園として整備されているこのエリアには、他にもたくさんの御陵があって、神武天皇から数えて16代目の天皇仁徳天皇の御陵とされている大仙陵古墳、17代履中天皇の御陵とされている上石津ミサンザイ古墳、18代反正天皇の御陵とされている田出井山古墳。これだけではなく、さらにさらに、堺市内にはこれら3代の天皇に関わる陪塚と呼ばれる古墳が点在していて、それらを合わせると、なんと44基もの古墳があるそうで、これらを総称して、百舌鳥古墳群 と呼ばれています。さらに堺市、羽曳野市、藤井寺市にある古墳を百舌鳥・古市古墳群として、2019年には世界文化遺産に登録されています。

 

堺の人にこの辺りのことを聞くと、「なんや判らへんけど、私が通ってた学校のすぐ裏に、“みくりなんとか古墳”ちゅうのがあったで」とか、「部活でランニングしてた時、“いたすけ?古墳”の杜の周りを走ってたわー。しんどかった~」とか、「家の裏に“きつね何たら古墳”言う古墳があったんやけど、タヌキしかおらんかったわ」とか、それほど古墳が身近に存在する街なのです。この辺りは、本当に古墳だらけで、家の、お店の、学校の裏や前や隣りや角に古墳があるのです。ん?・・・ちょっと待てよ。町中に古墳? いや実はその逆で、千数百年前に開発された広大な霊園墓地の中に、パラッパラッと後から人々が移り住むようになって、やがてそこに町が出来たと考えるのが正解なのかも知れません。このように古墳浪漫に満ち溢れた町ですから、寝ても覚めても古墳大好き~と言うマニアの人達にとったら、「もう、たまらんわ~!」と言うことになります。いわゆる“マニア垂涎”の土地。では、マニア以外の一般の人にはどうかと言うと、“仁徳天皇陵が堺にある”と明確に認知している人は結構少ないのではないでしょうか。関西在住の人ならば、マニアだろうが非マニアであろうが、“仁徳天皇陵(大仙陵古墳)= 堺”と言うことは当然判っておられると思うのですが、全国的には、「関西のどこかって? 古墳でしょ? 古いんだよね?だったら、奈良かその近くなんじゃネエの?」くらいのイメージではないでしょうか。アンケートで、「仁徳天皇陵」、「古墳」、「前方後円墳」と回答してくれた方々は、皆な関西在住の方々で、地方の方で、古墳に関係する回答をした人は皆無でした。でも、それは今回のアンケートの対象の方がそうであっただけで、「ちゃんと堺に有るって知ってますけど!」と憤慨される方がいたら、ごめんなさい。謝っておきますm(__)m

 

古墳については、ホントに判らないことだらけのようです。なかなか調査が進まないのだそうです。ボクのような単細胞の人間は、「それなら、今すぐ掘り起こしましょう! 内部を丁寧に調べれば、さまざまな謎が一瞬で解明できるじゃん!」と考えてしまうのですが、そんな簡単な事でもないらしくて、それができない最大の理由というのは、「エジプトのピラミッドや始皇帝陵のように、王家としてすでに途絶えている墓は、容易に発掘することができるのですが、現在も脈々と続いている天皇家のような御一族の御陵であると思われる古墳群に関しては、簡単にお墓を掘り返すことが出来ないということなのです。過去に、古墳の一部が台風や地震で損壊し、修復を施した際に、その修復箇所周辺に限定された部分的な調査が行われたことはあるそうなのですが、本格的な内部調査はなかなか実現できていないのだそうです。だからと言って、堺の古墳の堀周辺で、スコップを持って土を掘り返しでもしたものなら、瞬時に周囲を大阪府警のパトカーに包囲され、しばらくは家に帰ることができなくなってしまいますので、どうぞお気を付けください。ところが、過去にはびっくりするような発掘調査が行われていて、それは1945年の9月のこと。爆撃機から撒き散らした機雷が大阪湾に大量に残留していることを危惧したアメリカ軍は、艦隊を大阪湾に進めることを諦め、和歌山から兵を上陸させたそうなのですが、隊が陸路を北上し大阪へ向かう途中、考古学者を含むグループが、極秘裏に御陵の発掘調査という特別任務のため堺に向かったとのことなのです。部隊名、指揮官の名前もすでにアメリカでは公にされているそうなので、これは事実なのです。さらに驚いたのは、アメリカのボストン美術館には、「細線文獣帯鏡」や「単鳳環頭太刀」といった、仁徳天皇御陵(大山古墳)の副葬品であったであろう品々が所蔵されているとのことなので、自ずと、「そういうことか・・・」と言うことになります。

 

さらに、この“前方後円墳”。「なんでこんな形状なんだ!」と考えると、これも謎です。どっちが前でどっちが後ろか、判ります? ボクの感覚では、丸い部分が前で、扇方に広がる方が後ろのような気がするのです。教科書の写真も丸が上になった鍵穴の形状でしたが、その名が示している通り、後円墳と言うくらいですから、丸部分が後ろで、そこに死者が埋葬されていて、扇方に広がる部分は前と言うことになります。大将を後方で守る、戦の時の陣営のような形ですが、どうなのでしょう。この形状にもいろいろな意味が込められているのでしょう。

 

それと、これはボクだけが不思議だな~と思うことなのかもしれませんが、「奈良や飛鳥でなく、しかも難波宮の近くでもない、堺の地に何故、巨大墳墓が数多く造られたのだろう”」ということです。初代神武天皇が九州から東征し、橿原に宮を造られてから、奈良の南部を中心に宮都が造られる時代が続きます。(一時的に大津や下関、福岡に宮が移った時代もありましたが)その当時から、都の海への玄関口は、難波津と住吉津だったと言われています。遣隋使、遣唐使が行き来したのもこの両港からでした。もっと以前の紀元前27年、垂仁天皇の時代に、新羅の王子が妻を追いかけ、難波に渡来したという話も残っているぐらいですから、実は結構古い時代から、朝鮮半島にあった諸国との間で、人的交流はなされて来ていて、特に戦に負けた国の権力者や政府の高官達、技師等が海を渡って逃げて来て、都やその周辺に定住したということは、結構あったのかも知れません。大陸からの渡来者達が持つ知識や経験が、この国の発展に役立ってきたのは事実です。さらに難波津からは、大和川、初瀬川を上って飛鳥方面へ抜ける船のルートもあったようで、百済の聖明王の使者が釈迦仏の仏像や経典を船に乗せ、難波津から川舟に乗り換え、大和川を上り、都を目指したとされています。『日本書紀』によれば、552年のこと。使者は、欽明天皇に直接拝謁し、仏教普及の許可を得る必要があったためです。この時に仏教が伝わったとされています。その後も、大陸からの外交使節はこのルートを使って、奈良、飛鳥の都へ入りました。

 

では、大陸と都との玄関口であった難波津と言う湊は、実際にどの辺りにあったのでしょうか。答えは、“上町台地の北の端、今の大阪・中央区の東横堀川に架かる今橋辺りで、大阪城がある上町台地からなだらかに下った辺り”。この説が有力だそうです。ボクは個人的に、難波津は、昔、JRの前、国鉄時代に湊町の駅があった、あの辺りではないかと思っていますが、この話はまたの機会にと言うことで、話を進めます。住吉津は、今も住吉区に流れる細井川の河口辺りに港がありました。浅瀬が入り組んだ難波津より、住吉津の方が船の出入りが楽だったそうです。ちなみに、阪堺線の“住吉鳥居前停留所”の次の停留所(浜寺公園方面)は、“細井川”。港があったとされる細井川が停留所の名前になっています。さらに、お伽噺“一寸法師”の舞台は、この住吉の細江から出発し、住之江の海(現在の大阪湾)を渡って、淀川に入り、川を遡り、京の都へ向かったお話しなのだそうです。我がとなりのレトロ調査団、経済金融担当顧問で住ノ江在住のS枝氏にその辺りのことを尋ねてみたところ、「あるある。ほんまに細~い川やで。他に、細江川の表示もあるし、住吉川いう表示もあるで。名称が3つあるねんけど、どれが正解やねんやろな。今度、見に連れてってあげるわ」との事なので、早速、観に連れて行ってもらいました。その時、たまたま通りかかったお婆様に、地元の人達がこの川をなんて呼んでるのか気になったので、尋ねてみることにしました。

 

ボク「ちょっとお聞きしたいんですけど。この川、なんて言う川ですか?」

 

お婆様「え? なんて? この川? この川でっしゃろ~。今はな、もうこれな~あれやねんけ

ど、ここらはもうあれやからな、なんて言うんか。私らが子供の時の話になるんやけどな、今みたいな時代とは違ごうてな、あんたらが、知ってるか知らんか知らんけど、そらも~古い話やねんけども、この川のな、あれした時には、まだあれやってんけどやな。こないな話しても、あんたらにはふる~い話でな、皆目判らんとは思うけどな」

 

皆目判らないのは、古い話だからでもないのですが、話を聞いている時に目に入った看板に、大きく“細江川”と書かれていたので、尋ねてみました。

 

ボク「これ、細江川ですかね?」

お婆様「せや。今は、細江川や。昔は、細井川、言うてた」

 

とのことで、時代のどこかで細井川が細江川に変わったのか、川の名前は細井川で、浜の名称が細江だったのか。とにかく、大昔、上町台地の北西部に難波津があって、住吉津はその南、細井川の河口、住吉大社の参道を西に進んだ、現在、高燈籠が建っている26号線辺りに湊があったと言う事で、現代の大阪に当てはめると、さしずめ北港が難波津。南港が住吉津だったのでしょうか。つまりは、あれがああなって、こうなったと言うことらしいので、細井川の謎は、判ったような判らんような・・・。

 

そして、両湊・難波宮と奈良の都との間には、人々が往来する街道が設けられておりました。元々、奈良に都を置こうと決めたのは、東西南が山で囲まれ、自然の囲いで守られている盆地であったことが最大の理由だと思うのですが、それが故に、海の玄関口である難波津、住吉津、或いは難波津に近い難波宮へ行くためには、都の西側にそびえ立つ生駒山地、金剛山地を越えなければなりません。当時からいくつかの街道が整備されていたようなのですが、その最短のルートとして最も有名なのが、暗越街道(くらがりごえ)です。現在の国道308号線と重複するルートで日本の道マニアの人達には超有名な道らしいのですが、生駒山にある標高455mの暗峠越えは、当時の人々には相当きつかっただろうと思います。そこでより緩やかなルートも開発され、それが竜田越街道で、こちらも飛鳥時代に、難波津・四天王寺と斑鳩里・法隆寺を結ぶ街道として整備された街道でしたが、こちらは信貴山の南側、龍田神社がある辺り、奈良と大阪の境を流れる大和川の渓谷越えルートで、緩いとは言え、こちらもそれなりにきついルートであったようです。この街道を西に進み、海に突き当たった所にあるのが、住吉津です。さらにもう一つ、長尾街道と言う街道がありました。竜田越街道よりさらに南、二上山の北にある田尻峠を越えるルートで、古くは大津道と呼ばれていた街道でした。奈良から田尻峠を越えたそのすぐ麓が、羽曳野市の町です。その北隣は藤井寺市。つまり、峠を越えると、そこが現在、古市古墳群と呼ばれているエリアです。さらにその西の先には、百舌鳥古墳群がある堺の町。そしてその西に堺津。大山古墳(第16代仁徳天皇御陵?)、上石津ミサンザイ古墳(第17代履中天皇御陵)、田出井山古墳(第18代反正天皇御陵)、羽曳野市にある誉田御廟山古墳(第15代応神天皇御陵)、島泉丸山古墳(第21代雄略天皇御陵)、白髭山古墳(第22代清寧天皇御陵)、白鳥陵古墳(日本武尊御陵)、藤井寺市にある岡ミサンザイ古墳(第14代仲哀天皇御陵)、津堂城山古墳(第19代允恭天皇御陵)などの歴代天皇などの御陵が、都から山を越えて延びていった、ほぼ一直線上に延びた帯状のエリアの中に並んでいることが判ります。つまり、唐突に堺周辺に古墳群が造られて行った訳ではなく、奈良の都と堺の百舌鳥古墳群は、大昔から一つの街道でつながっていて、都から見て西、太陽が沈むその方角に死後の世界の象徴である御陵が造られていたのです。さらに、堺・北三国ケ丘にある方違神社という神社がありますが、ここは、応神天皇が、須佐之男神、天神地祇、そして住吉大神と神功皇后を祀った神社。摂津と和泉と河内の境の町だから、堺と名付けられたこの町は、どう考えたって古くから拓けていたのは間違いなさそうです。と言うことは、現代の大阪湾に当てはめてみると、難波津は、今で言う北港。住吉津は築港で、堺津が南港という位置関係にあり、飛鳥の時代から大陸への出発口であった湊は、3箇所も整備されていたということになります。そこには有力者の利権のようなものがあって、時に権力抗争の火種になったりしたのでしょうか。あるいは、公共性が高く、例えば国営の湊的な位置づけだったりしたのでしょうか。詳しいことは何一つ判りません。

 

鎌倉時代になって、政治の中心は関東へ移り、難波津、住吉津、堺津の役割はめっきり少なくなり、廃れて行きました。次に堺の名前が歴史上に踊り出てくるのは、室町時代の終わりから戦国時代にかけて。堺の商人達が大陸との貿易で稼ぎまくり、豪商と呼ばれ、巨万の富を手に入れたことで、この町は莫大な利益で潤います。堺は、時代の最先端を行く町。港には外国船が停泊し、外国人が闊歩していました。きらびやかな建物が建ち、この国で有数の外国文化に触れることのできる町。その財力ゆえに、特定の政治勢力の支配を受けることのない自治都市としての地位が保障されてきたのです。商人達が経済力を頼りに、素手で武士と渡り合っていた町。これが堺でした。自衛のため、町の周囲を堀や土塁で固め、外敵に備えました。こういった街の形態を環濠都市と言うそうですが、大阪の“平野郷”も同じような自治都市だったようです。

 

さて、アンケートに戻ります。その次に多かったのは、「鉄砲」、「刀鍛冶」、「刃物」と言った武具製造系です。これも、一括りにさせていただきました。今でも、町名に鉄砲町と言う地名がありますが、堺と鉄砲の関係について探ってみると、日本史の教科書には、「1543年、種子島に鉄砲伝来」とありました。南蛮船が種子島に漂着。異国の商人が持っていた火縄銃の実演を見た島主の種子島時堯は、彼らから2挺の銃を購入したそうです。船に乗っていた明の儒者と島の僧侶が漢字の筆談でなんとかやり取りをし、銃の扱い方を教えてもらったそうです。その話を耳にした紀伊国根来寺の杉坊でもこの銃が欲しいと、津田監物という人物が島にやって来て、1挺持って帰ったそうです。飛鳥の時代から、都の海の玄関口として発展してきた堺の町に、「異国の人が種子島に漂着したそうやで! 火縄銃も持って来とったそうやで!」のニュースが伝わるまでにさほど時間を要さなかったのでしょう。商売に目先の利く堺の商人達。どえらく儲かりそうな商いのためなら、労は惜しみません。鍛冶職人を種子島へ送り出すことくらい、茶道の土地柄らしく、“お茶の子さいさい”。一、二年の内に、製造技術と火薬の調合を学び、コピー製品を作ってみせるのです。「模造品、作って一儲けや!」的なスタンスは、正に商人の鑑なのであります。これだけ古くから海外に開かれた湊町ですから、博多などと並んで、さまざまな外国文化がこの国でも一早くキャッチできたでしょうし、火縄銃、それ以前の火薬を使った手投げ爆弾のような武器なども、結構早い時期に堺には入ってきていたのではないかと思うのです。「現物は手元にあるんやけども、説明書も何も付いてないさかいに、いったい何に使うもんやら、どうやって使うもんやら、皆目わかりまへん」と、お手上げ状態のところに、「銃を商う商人も一緒に流れ着いたらしいで!」と噂は広まり、人を送り出したということも十分考えられます。同じように近江の国友村や銃を持ち帰った紀州の根来も鉄砲作りを始めていましたが、堺は堺独自のルートで、戦国大名や石山本願寺などに“最新鋭兵器・火縄銃”を売りまくったそうです。他の製品と比べて、細工が美しく、工芸品としての価値が高かったのだそうです。古くから刀剣、その他武具の製造・輸出には実績のある堺でしたので、鉄砲製造に必要な高い鋳造技術がすでに培われていたのでしょう。

 

それでは、再びアンケート結果に戻ります。三番目に多かったのは、「“かん袋”のくるみ餅&氷くるみ餅」、「“ゲコ亭”の炊き仙人が炊くご飯&おかず」、「テイクアウトのみの“深清鮓”のあなご寿司」、「夜中にしか開かない、魚市場の天ぷら屋“大吉”」、「今は取り壊されちゃったけど、蕎麦屋“ちく満”のちょっと不気味だった要塞風建物の外観」、「利休さんも好きだったと言う“本家小嶋”の芥子餅(けしもち)」、「シナモン香る“八百源來弘堂”の肉桂餅(にっきもち)」、「御陵をひと思いにパクッ。“河月堂”の堺の古墳饅頭」などの食べ物系で、一括りにさせていただきました。茶道の土地柄だけあってか、堺には、先に書いた以外にも“曽呂利”、“はにわプリン”など、和菓子の銘菓が多いんです。わー、書いてるだけで食べたくなってしまう。

 

そして後は、“シマノ自転車”、“くら寿司”、“コーナン商事”、“ミツカン酢”、“泉州銀行”、“サカイ引越センター”など企業系グループの回答もありました。世界の“シマノ”の本社が堺にあるのは知っていましたが、堺には自転車博物館と言うのがあるそうで、自転車製造の先駆けは、堺なのだそうです。日宋貿易の時代から、堺では刀剣武具が製造・輸出されていたのですが、戦国時代以降は、それらに加え、新たに鉄砲製造に取り組むことになります。当時この国にはまったく無かった“ネジ”なる物の製造技術を習得したのはその頃で、自転車製造と堺は、切っても切れない関係にあるようです。そして、“くら寿司”も堺の会社なのだそうです。知らなかった~。“コーナン商事”とは、ホームセンターのコーナンです。調べてみると、創業は確かに堺で、現在も本店は堺なのですが、本社機能は2020年に新大阪へ移転されているそうです。それから、“ミツカン酢”という回答。こちらの本社は、実は愛知県半田市。恐らくこれ、“タマノイ酢”の間違いだと思われます。酢に関しても面白い記事があって、酢の製造技術は、4~5世紀頃、酒の技術と共に奈良の都に伝わったのですが、堺にも同じ時代に伝わったのだそうです。“泉州銀行”は、2010年に池田銀行と合併していて、現在は、“池田泉州銀行”に名称が変わっています。「泉州池田銀行でも良いのにな」と思うのですが、この辺りのことをとなりのレトロ調査団・経済金融担当顧問のS枝氏に尋ねてみたところ、「それはな、まあ、いろいろ、あんねん・・・」との回答でした。“サカイ引越センター”は、創業者が酒井さんや坂井さんのサカイではなく、堺市のサカイだったんですね。昔、徳井優さんを起用して、「♪勉強しまっせ~引っ越しのサカイ!」のCMで一躍有名になった会社です。

 

さて、以上がアンケート結果です。堺のいろいろな側面が見えて来て、とてもおもしろいのですが、これらとは別に、“南宗寺”という回答がありました。南宗寺? 阪堺線の寺地町の停留所の近くにある、広大な敷地を有するお寺さんです。調べてみると、この寺にはいろいろな歴史が伝えられていて、これがまたとんでもなく面白いのです。実は、今回、テーマを「堺」に決めてからいろいろ調べている内に、南宗寺にまつわるあるストーリーにボクは取りつかれてしまったのです。それは、徳川家康に関係していることです。三河の生まれにして、人生の後半は、関東方面に縁の深い家康でしたが、そんな家康と堺の間に深い関係性があるというのです。その関係とはいったいどういうものなのか。家康の人生を振り返りながら、堺の町が彼の人生にどのように絡んでいたのかを探ってみたいと思います。

 

横道にそれ過ぎて、この章も結構な文字数になってしまいましたので、次の章に行く前に、2回目のティーブレイク。サカイ引越センターと聞いて、久しぶりに例の「♪ほんま~かいな~そうかいな~」(by徳井優)のCMを観たくなったので、youtubeで探しながら、では一休み。

 

「堺の謎を解明するのだ!」の巻 その③へ続く。