明治15年1月大分県中津市出身。陸軍士官学校第15期(7位)陸軍大学校第23期(主席、次席は永田鉄山)、昭和3年軍務局軍事課長、6年参謀本部総務部長、10年第2師団長、11年陸軍次官、14年関東軍司令官兼駐満大使、19年参謀総長。24年1月8日死去。 

最後の陸軍参謀総長。ミズーリ号、降伏調印の陸軍代表。A級戦犯。

 経歴はものすごいが、メモとか、手記を残さなかったということで、なぞが多い人物。陸大主席だから、頭は切れる。あの永田より上である。参謀本部の総務部長のとき、決裁の書類を処理して、黙想していたという逸話がある。彼が注目されたのは、「226事件」。当時仙台の第2師団長であった彼がいち早く、青年将校の舞台に対して第2師団を発動し、鎮圧するという意思表示をしたこと。すべて後手後手になっている東京の軍中枢より早く、表示したことが、その後の彼自身の出世に影響する。それにより次官として、軍中央に出てくることになる。ノモンハン事件以降のソヴィエトとの関係を考慮しての関東軍司令官。司令官が大使を兼務するので、満洲国の支配者であったとも、言える。本土決戦のために参謀総長として中央に戻る。陸軍大臣が大分出身の阿南。阿南は梅津に比べると成績は良くない。陸大に入るまでに4年かかっているが、侍従武官、近衛連隊長を歴任。これは軍人にとって栄誉のあることである。近衛の軍帽のマークは特別である。この2人が、陸軍を統制することになる。阿南は8月15日に自害する。そのため、ミズーリに梅津が行くことになった。大変不名誉のことと、断ったらしいが、しぶしぶ、参列した。日本陸軍の最後の威厳を示したのは彼と最後の陸軍大臣下村定。しかし、東京裁判に起訴され、被告席の彼は病気の所為か、ミズーリの威厳はない。

 戦争の後始末をし、後は自分の後始末という感じであった。そういうめぐり合わせが回ってくる人物は必ずいる。梅津はそのための陸軍きっての逸材だったのかもしれない。

 故大江志乃夫さんの「凩の時」は梅津の何も残さない男の生涯に一部のフィクションとして面白い。

 石原莞爾に言わせると「石頭、石橋を叩いても渡らないが、話相手になる」と賞された。早く陸相あたりにしていれば、展開はかわっていたかも、よく、永田が生きていれば、太平洋戦争は起こらなかったという旧軍人の話があるが、永田なら、総力戦で、日本が無くなっているかも知れない。梅津も同じで、やはり東條がその役周りにあったのかも知れない。



  スカルピア日記(100)になったので「完」


       題名を変えて再スタート。精神打撃を受けたのでしばし、休暇または廃業?