今年は母の命日と父の日が重なりました。自分が子供の頃には父、母の日にプレゼントを贈った記憶はありませんが当時はそれほど定着していたかったようにも思います。ニュースで父の日の準備はもうお済ですか?と問いかけられても自分の両親は他界しているので何も出来ませし、親子が同居できなかったり連絡取れない家庭もあるのでこの種の問いかけはどうなのよ?という思いはありますが。

そんななんやで本日は両親の思い出を投稿いたします。まず父親ですがやはり音楽と鈴鹿サーキットです。何せクラシックが大好きでとりわけバッハの大ファンでした。父の両親は音楽には全く無関心でしたから謂わば突然変異ですね(笑)。学校の音楽室にはバッハの肖像画がありましたが自分はこの羊毛のようなヘアスタイルがいつも疑問でした。

バッハ好きかつモータースポーツ好きでもあるのが父の不思議なところです。仕事でバイクに乗ってましたからそのエンジン音に何かを感じ取っていたのかも知れません。画像は鈴鹿サーキットの1コーナー付近ですがこの辺りが一番低いのでストレートからS字コーナーまで見渡せて人気の場所です。

一方昨日は母親が亡くなってちょうど25年目を迎えました。母方の家族は北海道から満州に渡って無一文で引き揚げて来ましたので生活に余裕など無く、長女だった母の見合い話は親の意向で直ぐに決まったようです。

自分の気持ちの整理もつかないまま嫁いだ母でしたが姑は既に早逝し、紅一点の若い嫁(=当時20才)を同居する家族は大切にしたので彼女なりの居場所は確保出来たんだろうと思います。毎年命日を迎えると告別式当日の梅雨空とアジサイの記憶が蘇ってきます。

今はすっかり寂れましたが地元商店街の一画で彼女は懸命に働き続けました。やがて嫁いだ家の生業が廃業に追い込まれる現実を知らずに亡くなったのはせめてもの救いだったと思います。

母はフジが大好きで地元のフジ棚の保存に尽力しました。自分が子供の頃はこんなに立派ではありませんでしたが今や地元の名所として賑わっているようです。

親は亡くなっても心の中で生き続ける、あるいは空から見守ってくれているという感覚は実際に亡くしてみて初めて分かりました。ただ話をするのは圧倒的に母の方ですね、親父もまあたまに出てきますが。(笑)

何であの時にぐずったり、反抗してたりして母親を困らせたのかという悔いは今でも残っています。おしまい。