次に訪れたのは水戸市郊外にある内原郷土史義勇軍資料館です。ここは満蒙各地に配属される前に兵士(とは言っても実際は青少年)を訓練をする日輪舎があった場所で訓練を受けた後に満州各地に義勇軍として配置されました。その後拡大する南方戦線での補充の為に関東軍の兵士が引き抜かれて満州での戦力のほとんどが青少年義勇軍のみとなりました。これがソ連の満州侵攻での悲劇を引き起こします。いくら訓練を受けた兵士といっても実際は青少年ですから独ソ戦終了後に万全の戦力で押し寄せてくるソ連軍には全く歯が立ちません。この結果取り残された義勇軍や一般市民の子供達が満州各地で逃避行を繰り返し、その多くが満州残留孤児となりました。私の叔父も義勇軍として戦いましたが取り残され、2年間満州各地を彷徨った末に何とか日本にたどり着きました。ちなみに叔父は生前一度たりとも満州での出来事について語ることはありませんでした。よほど辛い経験だったに違いありません。

入口付近の様子です。茨城県には霞ヶ浦に海軍の予科練、水戸市郊外には陸軍の義勇軍の訓練施設があり、これらの場所から多くの若い兵士が各戦線に配属されていきました。誰だったかは忘れましたが”戦争とはじいさんが思いつき、おっさんが命令し、そして若者が死んでいくこと”だと言ってました。

母方の祖父は北海道で国鉄の保線員でしたが満州事変後は満鉄の保線員として家族全員で満州に渡りました。その後引き揚げる際に長兄は義勇軍に自らの意志で参加したのか暗黙の圧力の中で止む無く参加させられたのかは不明です。

当時の訓練所、”日輪舎”は復元されていましたが実際には意外とこじんまりした建物です。古今東西およそ”義勇軍”という組織の末路は芳しくありません。ここから満州に渡った若い兵士の多くが戦いで亡くなったり残留孤児になったわけです。

おしまい。