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春夏秋冬✦新✯浪漫百景

月に叢雲花に風 さよならだけが人生だ

私の彼

私の彼 · Hatsumi Shibata

Released on: 1975-05-25

Lyricist: Pierre Delanoe Composer: Michel Fugain

作詞:Pierre Delanoe・日本語詞:なかにし礼,作曲:Michel Fugain。

背の高さも 歩き方も背広も私の趣味じゃないけど愛しているわ

車もない お金も力もないいい男でもないけど愛しているわ

私の彼は くちづけが上手い

まぶたの上 耳の後ろ蝶々のようにああくすぐる

喧嘩すると顔が腫れあがるほど私を強くぶつけど愛しているわ

酒を飲むとどこで浮気するやら三日も帰らないけど愛しているわ

私の彼はくちづけが上手い

広い背中胸の辺り悪魔のようにああ 攻めるの

怖い夢を見たから眠れないと抱きつく弱虫だけど愛しているわ

この私がそばにいてあげないととてもダメな人だから

愛してる

 

男子禁制の大奥女中との密通、女犯を働いた僧侶の姦淫、
この2つの衝撃的な醜聞に江戸中が大騒ぎとなった。
「延命院日当話(月岡芳年:画(国立国会図書館蔵)」

大奥や大名の女中59人と情交した僧侶・延命院事件の顛末

禁欲を余儀なくされた女たちを淫楽の限りに導いた禁じ手の性戯

 

 

江戸時代・享和年間、「延命院事件」という江戸中を騒がせる大事件が起こった。

僧侶・日潤による前代未聞の女犯(にょぼん)事件だ。

その相手には江戸城・大奥の女中が多数含まれ、

大名や豪商の女中など59人と密通したという江戸を揺るがせた歴史に残る大事件である。

 

 東京都荒川区に現存する寺「延命院」は、

慶安元年(1648)谷中(荒川区西日暮里)に創建された日蓮宗寺院。

慶安元年、慧照院日長(えしょういんにっちょう)が、

徳川幕府三代将軍・家光の側室・お楽(らく)の方の安産の祈祷を命じられ、

その御利益から翌年、嫡男・竹千代(4代将軍・家綱)を授かったとされる。

 これを受けて家綱の乳母・三沢局が開基となり日長により延命院は建立された。

側室だったお楽の方も乳母・三沢局も延命院に帰依したことで、多くの大奥の女が、

外出の口実に参詣し、子宝に恵まれる寺としても広く知られるようになる。

 家綱の将軍就任後、御三家、御三卿、

さらに諸大名の奧向きから町方の女に至るまで篤い尊崇と庇護により盛況となるが、

元禄以後には衰勢に向かった。

 開山から150年が経過した寛政8年(1796)、日潤が住職となると、

美男のうえに美声による彼の説教や祈祷に心奪われる女性が続出する。

その数は、うなぎ登りとなり連日女性信者が訪れる「押せや、押せや」の盛況ぶりとなった。

歌舞伎役者と見まがうほどの美貌の僧

尾上菊五郎に先立ち襲名される名跡・尾上丑之助(うしのすけ)の

初代丑之助は二代目尾上菊五郎である。

 父が初代・尾上菊五郎の丑之助は、その容貌は滅多に見ることのない無類の美男子で、

ただの色男や二枚目役者とは比較にならないほど、気品のほかに妖しい魅力が備わっていた。

 彫りの深い凜凜しい顔立ち、輝くような魔性の魅力から放たれる甘い神秘性に、

数多の女性たちが悩殺された。

女からすれば震いつきたくなるような男の色気が漂う、非の打ち所のない美男子であった。

遠くから丑之助を眺めただけで、大抵の娘は頬を染めた。目を潤ませて見つめる人妻もいた。

丑之助の顔が忘れられずに発揚し、一晩中、

彼を思い垂涎しながら身悶えたという女性が町中に溢れ、

丑之助の周囲には常に女の人垣が築かれていた。

 当時、人気歌舞伎役者を豪商の後家や大奥の奥女中などの贔屓筋が、

カネを払って男妾とする役者買いという習慣があった。

そこで多くの金持ちの女が丑之助を渇望し、彼を抱きたい、抱かれたい、

と順番待ちをして、いざ、自分の番となれば、丑之助の身体を夢中で貪りながら悩乱し、

羞恥の狂態を演じながら女悦に浸ったという。

 

江戸・日暮里(現在の荒川区日暮里)にある日蓮宗の寺院・延命院の住職に、

日道(にちどう / 一説には日潤=にちじゅん)という僧が就いたのは、

寛政8(1796)年のことだった。当時30代前半、大変な男前だった。

江戸市中の女たちが、日道を目当てに日参するほどだったという。

ほどなく妙な噂(うわさ)が立ち始めた。

日道を慕う女たちに、なんと江戸城の奥女中が混じっているというのだ。

しかも男女の情交―セックスにふけっているという。

あくまで噂だったが、江戸市中にアッという間に拡散した。

 

延命院は3代将軍・家光の側室だったお楽の方が帰依し、そのお陰で嫡男・竹千代を授かった、子宝に恵まれる寺として知られていた。竹千代は、のちの4代・家綱だ。

このため、将軍の世継ぎを待望する大奥から、

御台所や側室に代わって奥女中が代参する「通夜参籠」(つやさんろう / おこもり、

泊まりがけの祈願)が珍しくなかった。

一方、そもそもこの時代、

出家して僧侶となった者は女犯(にょぼん / 戒律を破り女性と性関係を持つ)禁止であった。

建前にすぎないが、江戸時代は戒律を破った僧の取り締まりは厳しかった。

つまり、奥女中が頻繁に通う将軍家と縁(ゆかり)深い名刹の住職が、

破戒僧だというのだ。事実なら由々しき事態だった。

寺院を監視・監督するのは寺社奉行だった。奉行に就く者の定員は4〜5人で、

譜代大名から選ばれる出世コースだった。

その中に脇坂安董(わきさか・やすただ)という男がいた。

播磨国(現在の兵庫県)龍野藩主、官職は淡路守(あわじのかみ)である。

脇坂の先祖は、羽柴秀吉と柴田勝家が刃を交えた賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで活躍した

「七本槍」の1人、脇坂安治(わきさか・やすはる)である。

関ヶ原の戦い直前に東軍の徳川に寝返り、家康政権下で生き延びた外様大名なので、

本来なら寺社奉行になれる家格ではない。

 だが、老中を輩出した堀田家から養継子を迎えて藩主としたことで、

譜代大名に格上げされていた。これを「願(ねがい)譜代」という。

安董は堀田の血を引いているという自負を持ち、幕府への忠誠心も人一倍強く、

正道を歩もうとする気骨あふれる男だったという。

大奥・御三家・御三卿の女中まで関与

安董は延命院にまつわる不穏な噂に、徹底的にメスを入れる決心をした。

だが、障害があった。大奥は江戸城の「聖域」であり、

寺社奉行といえども簡単に捜査できる場ではなかったのである。

仮に踏み込んだ調べが可能だったにせよ、

絵島生島事件のように幕臣たちの勢力争いに発展し、

政治が大きく揺らぎかねないリスクもあった。

そこで、安董は延命院に密偵を送り、内情を探らせた。

家臣の娘(一説には妹)を囮(おとり)として寺に通わせたのである。

案の定、娘は日道に別室に招かれ関係を持った。

その際、娘は大奥女中と日道の間でやりとりしていた艶書(つやしょ / ラブレター)

を入手する。

ちなみにこの娘の家・氏名などは一切伏せられているが、

歌舞伎演目『日月星享和政談』(にちげつせい きょうわせいだん)では、

「粂村」「竹川」などの名の奥女中という設定に変わっている。

証拠をつかんだ安董は、享和3年5月26日、延命院に踏み込んで日道を召し捕った。

 

幕臣で文筆家でもあった大田南畝(おおた・なんぽ)は随筆『一話一言』に、

安董が日道に申し渡した罪状と判決文を書き留めている。

それによると、

  • 大奥部屋方下女・ころと密通し妊娠させ堕胎させた
  • 大名屋敷に勤める複数の女中と関係を結んだ
  • 上記の件、僧にあるまじき行いにより死罪

とあり、女犯の禁を破ったことを重視していたことは明らかだ。

 

『延命院実記 谷中騒動』は明治18年に出版された。

これによると、5月26日未明、安董(右)は手勢80人を率いて延命院を強制捜索し、

日道ほか数人の僧と20人ほどの女を一網打尽にしたとある。国立国会図書館所蔵

 

「大奥部屋方」として名前があがった「ころ」(25 / 年齢)は、商家出身の奥女中。

大奥では御中臈の「梅村」の配下にあった。

梅村は時の将軍・第11代家斉(いえなり)の嫡子、

後の12代・家慶(いえよし)付きという要職にあった。

その部下が事件に関与していては、見逃すわけにいかなかった。

もっとも梅村の名前は罪状にない。日道と直接の関係を持ったかも定かではない。

仮にあったとしても、江戸城大奥の上級女中を罪人として裁けば影響は甚大だった。

 

 結局、罰せられたのはころだけで、梅村はおとがめなしだった。

大奥の女中たちには、謹慎処分にするだけで法的な罪は問わないから申し出よと伝えたという。名乗り出た者がいたかは不明だ。

このことは、実は名前さえ上がらない女中が、他にもいた可能性を示唆していよう。

また、「大名屋敷に勤める女中」としては、

御三家尾張家の要職にあった「初瀬」(32)、御三卿一橋家の奥女中「はな」(19)、

「ゆい」(30)など、6人が判明している。

初瀬、はな、ゆいの3人には「永之押込」(ながのおしこめ / 無期限の自宅謹慎)

の沙汰が下った。ゆいはのちに自害する。

 

 主犯格の日道は享和3年7月29日、斬罪。

当時の慣習で、女犯の罪を犯した者は刑の執行前、

日本橋の袂(たもと)で数日さらし者になったというから、

日道も同じ辱めを受けただろう。

 もう1つ、後世に伝わる有名な話がある。

実は日道は僧ではなく、歌舞伎役者・2代目尾上菊五郎だったとの噂が、世間をにぎわせた。

2代目菊五郎は襲名後に急死したが、それはウソであり、

実は誤って人を殺してしまい行方をくらましたというのである。

そして、彼が日道に名を変えて潜伏したのが延命院で、

だから日道は美貌の持ち主だったというのだ。だが、この噂は確証がない。

 奥州平泉で死んだ源義経が、大陸に逃れてチンギス・ハーンになったのと同類の

「都市伝説」に過ぎないだろう。 江戸庶民はこの話に夢中になった。

フェイクニュースが流布し、まことしやかに浸透していくのは、

SNS時代の現代と何ら変わらないのである。

 

因みにこんな文庫本でています

興味のある方は如何ですか📖

 

ダンスはうまく踊れない

1977年4月21日

作詞:井上陽水,作曲:井上陽水

井上陽水の妻となる石川セリと付き合い始めの頃、

気を引くために目の前で30分ほどで作ってプレゼントした曲。

当初、井上もディレクターの前田一郎も「気まぐれ」のB面のつもりだったが、

最終的には「ダンスはうまく踊れない」をA面として発売されヒットした。

後年、高樹澪がカバーしリバイバル・ヒット。

ほかにも日野美歌、中森明菜、徳永英明、稲葉浩志らがカバーしている。

ダンスは うまく 踊れないあまり 夢中に なれなくて

ネコは 足もとで踊り私 それを ながめている

夏の夜は すでに暗く蒼く窓にみえる 星の光近く

誰も来ないし 誰も知らない...

Ingrid Bergman

イングリッド・バーグマン(典: Ingrid Bergman, 1915年8月29日 - 1982年8月29日)

ヨーロッパとアメリカで活躍したスウェーデン出身の女優。

2歳で母を、12歳で父を亡くし、叔父のもとに身を寄せる。

1932年、スウェーデン映画へのエキストラ出演をきっかけに女優を夢見るようになり、

「ムンクブローの伯爵」(35)でデビュー。

主演作「間奏曲」(36)がプロデューサーのデビッド・O・セルズニックの目に留まり、

同作のハリウッドリメイク版「別離」(39)にも主演して一躍スター女優となった。

名作「カサブランカ」(42)を経て、

「誰が為に鐘は鳴る」(43)でアカデミー女優賞に初ノミネートされ、

続く「ガス燈」(44)で受賞。

「聖メリーの鐘」(45)でゴールデングローブ賞主演女優賞を受賞した。

イタリアで撮影した「ストロンボリ」(49)のロベルト・ロッセリーニ監督と恋に落ち、

当時の夫と娘を捨ててイタリアに残るが、

「追想」(56)でハリウッドに戻り、

2度目のオスカーとゴールデングローブ賞主演女優賞を受賞。

「オリエント急行殺人事件」(74)ではアカデミー助演女優賞を受賞した。

イングマール・ベルイマン監督の「秋のソナタ」(78)が最後の映画出演作となり、

82年、エミー賞主演女優賞を受賞したTV映画「ゴルダと呼ばれた女」出演後、

67歳の誕生日に乳癌のため死去した。

 

受賞歴

第51回 アカデミー賞(1979年)

第36回 ゴールデングローブ賞(1979年)

第47回 アカデミー賞(1975年)

第27回 ゴールデングローブ賞(1970年)

第16回 ゴールデングローブ賞(1959年)

第29回 アカデミー賞(1957年)

第14回 ゴールデングローブ賞(1957年)

第13回 ベネチア国際映画祭(1952年)

第21回 アカデミー賞(1949年)

第18回 アカデミー賞(1946年)

第3回 ゴールデングローブ賞(1946年)

第17回 アカデミー賞(1945年)

第2回 ゴールデングローブ賞(1945年)

第16回 アカデミー賞(1944年)

イングリッド・バーグマン(バラ品種)

パープルタウン

八神純子「パープルタウン ~You Oughta Know By Now~

作詞:三浦徳子,作曲:八神純子・R.Kennedy・J Conrad・D.Foster

1980年7月21日にリリースされた八神純子の9枚目のシングル「パープルタウン」

同年の日本航空JALPAK“I LOVE NEWYORKキャンペーン”CMソングに起用され、

累計60万枚を超える大ヒットとなった楽曲。
その年、彼女はリリース前の4月からアメリカのロサンゼルスで54日間滞在していた。
「みずいろの雨」や「ポーラスター」など次々とヒットを飛ばし、

日本では“実力派シンガーソングライター”として脚光を浴びていた彼女が、

突然(レコーディングなどの音楽活動ではなく)

普通のアメリカの家庭にホームステイしたことが話題となった。

この「パープルタウン」は、

アメリカ滞在を経験した彼女がニューヨークの街並みをイメージして、

帰国直後にリリースした曲。

哀しみのヴェールをはずす気まぐれなこの都会だけど

まるで 今 あなたの胸にいるよう

エアメール さりげない愛届けるわ 

あなたのドアにいつも想い出してどこにいても

Purple town Purple town

翼広げて hu hu hu

New york

「佐渡流人行」松本清張

『オール讀物』1957年1月号に掲載され、

同年2月に短編集『佐渡流人行』収録の表題作として、新潮社より刊行された。

佐渡流人行 傑作短編集〔四〕

時代小説の第2集。

あらすじ

佐渡支配組頭を命ぜられた寺社奉行吟味取締役の横内利右衛門は、

下役の黒塚喜介を金山方広間役にして、佐渡に連れていくことにした。

横内から金山の水替人足の補充の話を聞いているうちに喜介は、

出牢早々の弥十を佐渡送りにすることを思いあたる。

 

喜介の弥十への憎しみは、横内の仲人により喜介がくみを妻にした三年前に始まった。

弥十の紹介の場で、妻が慄えているのを見た喜介は、

くみと弥十の間の過去を察し、憎悪を覚えた。

弥十が無頼の仲間にはいっていることを聞いた喜介は、

与力の一人を金で誘い、弥十を入牢させた。

 

喜介は佐渡から出張してきた地役人の占部三十郎を、

江戸での出世を餌で釣って握った上で、くみを伴って佐渡に着任、

くみの目と鼻の先で弥十を心いくまで弄ろうと考える。

十日後に横内も佐渡に到着、

横内の依頼に応えた喜介はいっそうその信任を得るであろうことに満足する。

一方、弥十は三十郎によってたびたび落盤する間歩へと送られ、

他の流人たちとの強訴の話が伝わると、弥十は敷内追い込みに処される。

敷内追い込みの水替人足が遁走した夜、いよいよ始末つけようと、

廃坑の入口へと弥十を連行した喜介だったが、

穴の奥から聞こえる人の声に、喜介の足は急に止まる。

 

著者は1963年に「『佐渡流人行』は、上石神井の新居に越してからまもなく書いた。

このときは流人の水替作業の実際がわからず、

やはり現地に行ってみなければと思って佐渡の相川まで渡った。

佐渡から帰っても、今度はもっと関連文献を読みたいと思ったが、

適当なものはなかった。

たまたま麓三郎氏の『佐渡金銀山史話』が出版されたのを知って、

さっそく読んで、大いに助かった。それで、世田谷の奥に著者麓氏をたずね、

さらに氏の話を聞いたりした」と記している

松本清張

(1909-1992)福岡県小倉市(現・北九州市小倉北区)生れ。

給仕、印刷工など種々の職を経て朝日新聞西部本社に入社。

41歳で懸賞小説に応募、入選した『西郷札』が直木賞候補となり、

1953(昭和28)年、『或る「小倉日記」伝』で芥川賞受賞。

1958年の『点と線』は推理小説界に“社会派”の新風を生む。

生涯を通じて旺盛な創作活動を展開し、

その守備範囲は古代から現代まで多岐に亘った。

 

全部読んだぞ!

作詞 : 松山千春 作曲 : 松山千春 

1980年1月21日 リリース 8枚目シングル曲

愛することに 疲れたみたい 嫌いになった 訳じゃない

 部屋の灯は つけてゆくわ 鍵はいつもの げた箱のなか

 きっとあなたは いつものことと 笑い飛ばすに 違いない 

だけど今度は 本気みたい あなたの顔も ちらつかないわ

 

 男はいつも 待たせるだけで 女はいつも 待ちくたびれて 

それでもいいと なぐさめていた それでも 恋は恋 

多分あなたは いつもの店で 酒を飲んで くだをまいて 

洗濯物は 机の上に 短い手紙 添えておくわ 

今度生まれて 来るとしたなら やっぱり女で 生まれてみたい 

だけど二度と ヘマはしないあなたになんか つまずかないわ 

男はいつも 待たせるだけで 女はいつも 待ちくたびれて

 それでもいいと なぐさめていた それでも 恋は恋

 男はいつも 待たせるだけで 女はいつも 待ちくたびれて 

それでもいいと なぐさめていた 

それでも 恋は恋 それでも 恋は恋

そら豆

初夏に向かって旬を迎える「そら豆」。鮮やかな緑色で実は大きく、

塩ゆでにするとほっこりとした食感で豆のうまみが強く感じられます。

そのままビールのおつまみにもピッタリ。また、いろいろな料理にも使えます。

塩ゆでにするのが基本ですが、おいしく食べるためのポイントがいくつかあります。

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■世界中で食されるそら豆

そら豆はマメ科の一年草。3月から4月にかけて薄紫色の小さな花を咲かせ、

5月から6月にかけて実をつけ旬を迎えます。
そら豆の歴史は古く、世界中で食されてきました。

日本へ伝わったのは奈良時代とする説もありますが、

記録に出てくるのは江戸時代になってからで、

本格的な栽培が始まったのは明治時代になってからです。
ゆでたり焼いたりして食べるそら豆は完熟前のもので、

生(未成熟)のそら豆は野菜に分類されます。

完熟し、乾燥(成熟)した豆は豆類に分類され、

煎り豆菓子や甘納豆、お多福豆など加工品に使われますが、

加工用の豆はほとんどが外国産の乾燥豆だそうです。



■そら豆の名前の由来いろいろ

そら豆は漢字で「空豆」「蚕豆」などと書きます。
「空豆」といわれるのは、実が未熟なうちは空に向かって育っていくから。

熟すにしたがってだんだん下を向くようになります。

「蚕豆」の字が当てられているのは、蚕を育て始める時期に実るから、

また、さやの形が蚕に似ているからなどの説があります。
その他にも「天豆」、旬の時期を指す「四月豆」「五月豆」、

冬に植えるので「雪割豆」などの異名があります。

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■おいしいそら豆の選び方

「そら豆三日」というように、おいしいのは収穫から3日以内とされ、鮮度が命のそら豆。

なるべく新鮮なものを選びましょう。

さやから出して売られているものは早く傷むので、さや付きのものがおすすめです。
選ぶ時のポイントはこちらです。

① さやが鮮やかな緑色で艶がある(筋が茶色くなっているものは避ける)
② ふっくらとして表面の産毛がとれていない
③ さやに豆の形がくっきり見え、揃っているもの
④ 触った時にしっかりと弾力がある
⑤ 持った時に重みを感じる




■そら豆のおいしい食べ方

さっと塩ゆでしただけでもおいしいそら豆ですが、

下ごしらえとゆで方のコツでさらにおいしく仕上がります

★下ごしらえ
早い時期のものは薄皮ごと食べられますが、

皮が固い場合は豆の黒い筋の部分(お歯黒)に1cmほど切り込みを入れておきます。

後で皮を剥きやすくなりますし、ゆでるときに皮にしわが寄らず美しく仕上がります。

★おいしいゆで方
鍋にたっぷりの水と2%ほどの塩(水800mlに対して塩大さじ1)を入れ沸騰させ、

下ごしらえ済みのそら豆を入れ、ふたをしないでゆでます。

ゆで時間は豆の状態にもよりますが、ゆですぎると食感が悪くなるので、

2分ほどでひとつ食べてみてゆで加減を確認しましょう。

ゆであがったらザルにあげて水気をきります。

ゆでたてアツアツがおいしいですね。

切り込みを入れたところから皮がスルッとむけます。

サラダにしたり、炒め物にしたりといろいろ使えます。

また、かき揚げなどにするときはゆでずに生のまま、薄皮を取ってから使います。
さや付きのまま焼く、焼きそら豆もおすすめ。バーベキューなどにもぴったりです。

 

 

 

 

【暮らしの歳時記 そら豆博士より】

片想い

片想い (Sand Castle/1983)/浜田省吾

映像:吉岡美帆

1986年発売の12thアルバム「J. BOY」収録曲。

あの人のことなど もう忘れたいよ

だって どんなに想いを寄せても遠く叶わぬ恋なら 

気がついた時には もう愛していた

もっと早く「さよなら…」言えたならこんなに辛くはなかったのに...

ああ肩寄せ歩く恋人達すれ違う帰り道

寂しさ風のように いやされぬ心をもて遊ぶ… 

あの人の微笑 やさしさだけだと知っていたのに 

それだけでいいはずなのに愛を求めた片思い ...

消えました!

今回は跡形もなく見事に

完全消滅

 

笑うしかない😂

アメブロ2回目の消滅です

足掛け7年

今回は3年目、一瞬にして...

 

たくさんのフォロワーの方々に支えられて

楽しく自由奔放にやってきました

 

さて、これからどうするか?

以前から申しているように

ブログを継続するには、私の場合

元気・根気・色気

この3つの"気"が必要不可欠

 

Yahooブログからアメブロまで

凡そ19年

私も歳をとりました(笑)

 

まぁ、これからは

のんびり、ゆっくり

もう少し続けますので

よろしくお付き合いください

ブログがないと暇で退屈しちゃいますから