春夏秋冬✦新✯浪漫百景

春夏秋冬✦新✯浪漫百景

月に叢雲花に風 さよならだけが人生だ

スワンの涙

楽曲:スワンの涙 1968年12月10日発売 

演奏:オックス 

ヴィレッジ・シンガーズの「落葉とくちづけ」と同名曲である松竹映画

「落葉とくちづけ(1969年3月29日公開)」の挿入歌として 

特別出演のオックスが「スワンの涙」を歌っている 。

 出演:尾崎奈々、藤岡弘、ヴィレッジ・シンガーズ、オックス(特別出演)

君の素敵な ブラック・コート二人で歩く 坂道に

こぼれるような 鐘の音 

誰も知らない 二人の午後は 港が見える 教会の

小さな庭で お話しましょう いつか君が 見たいと云った

遠い北国の湖に 悲しい姿スワンの涙

 

 
  メンバー
福井利男(ベース)
岩田裕二(ドラムス)
岡田志郎(ギター)
野口ヒデト(ボーカル)
田浦幸(オルガン)
旧メンバー
  赤松愛(オルガン)
杉山則夫(ギター)
栗山純(ボーカル)




       OX
 

「恋のむつごと四十八手」

 

「48手(四十八手)」は「しじゅうはって」と読み、元々は相撲の決まり手を指す言葉でした。

これが性行為の体位を表す言葉として使われるようになったのは、江戸時代初期のことです。

 

『見返り美人図』などの浮世絵で有名な画家・菱川師宣が、

当時行われていたセックスの体位を『恋のむつごと四十八手』という春画本にまとめ、

それによって「48手=性交体位」というイメージが一般に広まったと言われています。

さらに、菱川師宣が刊行した『好色いと柳』では、女性の口説き方とともに、

『恋のむつごと四十八手』で取り上げきれなかった体位が、

「裏四十八手」として紹介されました。

 これによって、『恋のむつごと四十八手』で紹介された体位は、

「表四十八手」「江戸四十八手」「大江戸四十八手」などと呼ばれるようになっていきます。

現在では、江戸四十八手と裏四十八手を合わせた96手に、近年新しく考案されたものを加えた100手ほどのセックス体位が存在していると言われています。

 

 現在でも一般的に行われている体位から「なぜこれをやろうと思ったの?」

と笑ってしまうような体位まで、さまざまなものが紹介されています。

48手を学ぶメリットは、なんと言ってもセックスのバリエーションが増やせることです。

いつも同じ流れや体位ではマンネリしがちですが、

できる体位を増やすことでエッチの幅が広がり、新鮮な気分で楽しむことができますよね。

 

”百閉”(ひゃくへい)

仰向けになった男性の上に女性が跨がって行います。

上になった女性が性器の外部の核の部分を男性の股間部に押し付けるようにしながら、

腰を前後に動かします。

男性の男性性器の裏側の筋をこするように動くとより効果的になり、

男性に強い刺激を与えることができるのだとか。

女性は腰を動かしながら、

膣の内部で気持ちがよいと感じるスポットに男性性器が当たるようにすることができますので、

女性が主導できるという点にこの体位の良さがあるようですね。

 因みに”時雨茶臼”や”茶臼のばし”も類似の体位、それもなかなか秀逸です。

 

余談...

 昔々、この形が好きな女としたことがあります。

1人は24歳、ナイトクラブの女性、初めての夜は普通だったんですが、

2度目の夜、彼女積極的に上になって、巧みに動き出しました。細くて華奢な柳腰がリズミカルに前後に...

もう1人は27歳、バツイチの美容師、彼女は最初の夜から大胆に騎乗、グラマラスな肢体が揺れるほど...

 この形、女性が必ず先にいっちゃいますよ...

2人とも何度か関係しましたが、それ以上に発展しませんでした。

でも、時々思い出す若き日の淫らな恋姿、何故か印象に残っていますね。

 

 

菱川師宣(ひしかわ もろのぶ)

男女の和合を描いた「恋のむつごと四十八手」

菱川師宣は、寛永8(1631)年頃に、

安房国平北郡保田村(現在の千葉県安房郡鋸南町保田)に、

菱川道茂(ひしかわみちしげ)の長男(第4子)として誕生します。

通称は吉兵衛。実家は縫箔師(ぬいはくし)で、

金糸や銀糸を使った刺繍や金箔銀箔で着物地を装飾するなど、

高価な衣装を仕上げていました。師宣も後を継ぐべく、16歳頃に下絵修行として、

江戸に出向きます。

その後、家業を手伝いながら、狩野派や土佐派に学んだと言われています。

縫箔師の長男ではありましたが、幼い頃から絵を描くことが好きだった師宣は、

家業より、絵師への憧れが強かったのではないでしょうか。

 

バラ色の雲

1967年8月1日発売) 作詞:橋本淳、作曲:筒美京平、編曲:森岡賢一郎

Village Singers

バラ色の雲と 思い出をだいて僕は行きたい 君の故郷へ

野菊をかざった 小舟のかげでくちづけ交した 海辺の町へ 

初めて見つけた 恋のよろこび君はやさしく 涙をふいていた

バラ色の雲と 思い出をだいて逢いに行きたい 海辺の町へ

Village Singers

 

1979年9月18日から1980年4月1日まで

日本テレビ系列で全27話が放送されたテレビドラマ。

主演は松田優作。

 

概要

私立探偵の工藤俊作が、街の仲間達の協力を得たり、

彼を邪魔者扱いする刑事たちを手玉に取りつつ、

様々な事件を捜査していく様を描いたドラマである。

主演は日本テレビ火曜夜9時枠には『大都会 PARTII』(石原プロモーション製作)

以来のレギュラー出演となる松田優作が務めた。

 

当時、松田が所属していた夢屋事務所の代表・笹岡幸三郎が、

東映芸能ビデオに籍を置いていた黒澤満から、

テレビ製作の誘いを受けたことが企画の発端となる。

企画の具体化に伴い、

プロデューサー山口剛の早稲田大学在学時代からの友人で

ハードボイルド評論家・翻訳家である小鷹信光を招いてハードボイルド講習会を主催するなど、企画段階では小鷹自身のハードボイルド論に基づいて本格的な主人公の設定が提案された。

 

しかし、実際の映像ではアドリブが頻発するなど、

シリアスとユーモアが入り混じった独特の世界観が築かれた。

第12話「誘拐」では工藤俊作がアドリブでカメラに向かって

「日本のハードボイルドの夜明けはいつ来るんでしょうかね、小鷹信光さん」

と問いかける一幕もあった。

 

また松田が担当した予告編ナレーションは独特の口調で語られたものだが、

しかし、松田のナレーションは回を重ねるごとにエスカレートし、

後半はあらすじがまともに紹介されず、撮影現場の裏事情、愚痴、共演者の悪口、

松田自身の近況報告に終始するなど、楽屋ネタが連発された。

 

放送開始当初の視聴率は20%の大台に乗る好調なスタートを切っていたが、

中盤以降は10%台前半にまで大きく数字を落とし、

当時アクション路線を強調していた火曜夜9時枠の作品としては異色作扱いされ、

一時はマイナーな作品として見られていた。

しかし、松田の死後に追悼企画として再放送されたのを機に新規のファンが増加し、

現在では松田の入門的かつ代表的作品として各方面に強い影響を与えている。

登場人物

工藤 俊作 - 松田優作
東京に工藤探偵事務所を構える私立探偵。ユーモアと自由を愛する男。
横浜で育ち、サンフランシスコ市警察に刑事として勤務していた過去を持つ。
とある事件で仲間を殺害された悲しみから仲間を作ることを恐れるようになり、
日本に戻る。
黒いスーツ(白や茶のストライプスーツを着ることもある)
と派手なカラーシャツを着こなし(ベルトは使わずサスペンダーを着用)、
ソフト帽とサングラスを愛用。
冬季はスーツの上からダウンジャケットを着込む
(第23話、第24話のみテーラードコートを着用)。
移動手段はベスパP150X。タバコの銘柄はキャメルを好み、
カルティエ製のライターの火力は常に最大。
聞き込みの際には情報提供者にマイク付きテープレコーダーのマイクを傾ける。
風俗店の常連客でトルコ風呂(ソープランド)に好んで通っている。
万年金欠気味だが、依頼人から金を渡されても心情的に納得できない場合は、
受け取らないこともある。
死者には手を合わせず、脱帽してキリスト教式の十字を切って弔意を示す。
乙女座生まれの潔癖症(第12話)、血液型はAB型(第11話)で、
下半身が無毛症(第13話)。
「コーヒーに砂糖とミルクは入れない主義」「午前中と日曜日は仕事をしない主義」
「職業蔑視はしない主義」「手相は見ない主義」「相手にかかわらず約束は守る主義」
「家庭のトラブルは扱わない」など、多くの主義を持つ。
愛飲している飲み物はシェリー酒(主にティオペペ)と酪農牛乳。
また、コーヒーのブレンドにこだわりを持ち、
ブルーマウンテン、キリマンジャロ、モカをブレンド
(最終話でのマスター(演:柄本明)の台詞より)。
月に1回、独りで豪勢なディナーを食べるのがささやかな楽しみ。
就寝時はピンクのパジャマにアイマスクを愛用。
船酔いに弱く、乗っているだけでも嘔吐感を催し昏倒する。
イレギュラーな場面に遭遇し警察に嫌疑をかけられ新聞沙汰になる事も多々あるが、
前科はない。
(ただし、度々拳銃を不法に入手して発砲しており、服部がわざと見逃した事も)。
施錠されているドアをやすやすと外し、手錠をかけられても素手で外すことができる。
最終話にて殺された仲間たちの復讐を果たした後、終盤で男に刺されるが、
その後の生死は不明。
事務所の所在地は、第2話で本人が「渋谷」と発言しているが、
名刺には「東京都千代田区平河3-27」と印刷されている。
ナンシー - ナンシー・チェニー
工藤探偵事務所と同じビルに住むファッションモデルの卵。
頻繁に事務所を訪ね、居留守を決め込むつもりが、
勝手に事務所の電話に出るなど工藤の世話をやきたがる。
かほり - 竹田かほり
ナンシーと同居している女優の卵。ナンシー同様、
工藤の事務所を自分の部屋同然に思っているらしく、
二人そろって下着同然の姿で徘徊しては松本をドギマギさせていた。
第25話では出番の少ない工藤の探偵代理として、松本とともに活躍を見せる。
相木 マサ子 - 倍賞美津子
敏腕の女弁護士。愛称「ボインちゃん」。
才色兼備で活動的な女性だが、金にうるさい。愛車はマツダ・コスモAP。
初登場の第3話で大型トラックとヘリコプターとのカーチェイスの末に横転、
爆破させられてしまうが、第7話で全く同じ車 に乗っている。
単独でドヤ街の犯行現場に赴いたり、
犯罪者と知りながら直接行動を共にするなど大胆な面も持つ。
第3話、7話、13話、14話に登場。
服部刑事 - 成田三樹夫
「工藤ちゃん!」が口癖で、事あるごとに工藤に付きまとっては因縁をつける刑事。
常に横柄に振る舞っているが女性に対しては甘い。
工藤からは煙たがられているが、彼の違法行為を目こぼしするなど協力的な面もあり、
特に後半は工藤の理解者としての側面も強調されるようになる。
何度も工藤の上前をピンハネしたり、恐喝まがいで袖の下を受け取ったりと、
金に汚い悪徳警官ぶりが災いして、第25話で窮地に陥る。
松本と同じく事件に対する洞察力および推理力が極めて乏しく、
安易に工藤を誤認逮捕する事もしばしばあり腐れ縁のようになっているが、
最終回では逆にこの無能ぶりが工藤を救う結果となる。
極度の肩こりで、よく金槌で肩を叩いている。
松本刑事 - 山西道広
服部の部下。刑事としてのキャリアは5年少々(第17話)。
工藤のことを「乞食野郎」などと目の敵にしており、
何かと口実をつけて逮捕しようとする。
しかし、終盤になると工藤の腕前を認めているかのような行動を見せるようになり、
第25話で服部が罠に落ちた際には真っ先に工藤を頼ってきた。
女性に関してはウブな一面があり、
相木の色仕掛けにより学生時代の初体験を白状した上、
捜査情報を吐かされたこともある。
第20話では泥酔して破廉恥行為に及んだ弱みを工藤に握られ、
頭が上がらなくなってしまう。
服部の汚職行為を咎めもせず、おこぼれも頂戴しているなどダーティーな一面もあるが、刑事という自分の職業には情熱と誇りをもっており、
それゆえ社会的弱者を蔑視する傾向がある。
ダンディー - 重松収
工藤の昔からの腐れ縁。
ビリヤードを嗜み、イタリアンマフィアの様なファッションで決めているが、
4歳になる娘がいる。工藤以外には子持ちであることを秘密にしており、
工藤にそのことを弄られると「カンベンしてよ」と狼狽する。
工藤からの要請で盗聴の委託も引き受けたり、闇の世界の情報を提供する。
最終話の終盤、工藤と最後に言葉を交わした人物。
イイヅカ - 清水宏
表向きは骨董屋だが、裏では工藤に拳銃を渡しているブローカーでもある。
映画マニアで、視聴した作品の批評を工藤相手に展開することが多い。
その反面、自分がチェックしていない作品について工藤から突っ込まれると、
著しくヘコむ。酒を飲むと泣き上戸になる。
最終回では、工藤からの依頼でタケシ(古尾谷雅人)の身を匿ったことから、
事件に巻き込まれ落命する。
 

主題歌

オープニングテーマ:「Bad City」
  • 作詞・作曲:Casey Rankin 編曲:大谷和夫 歌:SHŌGUN
エンディングテーマ:「Lonely Man」
  • 作詞:Casey Rankin 作曲:大谷和夫、芳野藤丸 編曲:大谷和夫 歌:SHŌGUN
 
最終話のラストシーンには、
ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「身も心も」が使用されたよ。

小さなスナック

1968年3月25日発売、作詞:牧ミエコ、作曲:今井久

オリコン週間最高2位。モデル:小林ひとみ。

僕が初めて君を見たのは白い扉の小さなスナック

ひとりぼっちのうしろ姿の

君のうなじがやけに細くていじらしかったよ

僕がその次君を見たのもバラにうもれたいつものスナック

ギターつま弾く君の指さき

ちょぴりふるえてつぶやくようで可愛いかったよ

Purple Shadows

内藤新宿

江戸時代に設けられた宿場の一つ。

甲州街道に存在した宿場のうち、江戸日本橋から数えて最初の宿場であり、

宿場内の新宿追分から甲州街道と分岐している成木街道(青梅街道)の起点でした。

現在の住所では、東京都新宿区新宿一丁目から新宿二丁目・三丁目の一帯。

東海道の品川宿・中山道の板橋宿・日光街道(奥州街道)の千住宿と並んで、

江戸四宿と呼ばれた。地名から四谷新宿と呼ばれることもあります。

内藤とは、天正十八年(一五九〇)に徳川家康が関東に入国したときに、

この地に広大な屋敷地を拝領した内藤清成の姓。 

現在の新宿御苑は内藤家の屋敷の一部で、

その北側に甲州街道に沿って造成された宿場が内藤新宿。

現在の新宿という地名の由来ともなりました。

 新宿御苑付近には内藤町という町名があり、今も内藤氏の名前が残っています。

 

四ツ谷内藤新宿

 

遊女の取り締まり

甲州街道の内藤新宿では、次第に旅籠屋や茶屋が増え、岡場所としても賑わいました。

宿場に遊女を置くことは認められていなかったですが、

客に給仕をするという名目で飯盛女・茶屋女として置かれていました。

 享保3年(1718年)には、宿場内に旅籠屋が52軒という記録が残っています。

しかし、吉原がしばしば奉行所に提出していた遊女商売取り締まり願いの対象地になり、

これが宿場廃止の原因の一つになったようです。

したがって、

享保三年(1718年)10月に内藤新宿は幕府によって廃止されました。

長い髪の少女

1968年4月1日に発売されたザ・ゴールデン・カップスの3枚目のシングル。

作詞:橋本淳、作曲・編曲:鈴木邦彦

メンバー

ヴォーカル:デイヴ平尾、ギター:エディ藩、

ベース:ルイズルイス加部、ドラムス:マモル・マヌー、

キーボードが:ミッキー吉野(ギターのケネス伊東が脱退後)。

長い髪の少女 孤独な瞳うしろ姿 悲し恋の終り

どうぞ僕だけに 心をうち明けて

どうぞ聞かせてね 愛の物語

雨によごれた町で 貴女は一人なくした恋なのに 影をさがす

きっとあの人は 忘れたいのさ

甘いくちずけと やさしい言葉

長い髪の少女涙にぬれたたそがれの中で誰をさがす
  つらい恋だから あなたは祈る

つらい恋だから 愛の物語

The Golden Cups

 

 

幕末の犠牲者…17歳の芸妓「唐人お吉」が国難を救うために背負わされた哀しき運命幕末の犠牲者…17歳の芸妓「唐人お吉」国難を救うために背負わされた哀しき運命
 

幕末という名の風雲は、その時代を生きた多くの人間を呑み込み、彼らの人生を変えました。

時代が違えば名もなき寺子屋の先生で終わったような人物が攘夷志士になり、

泰平の世であれば良い政治家だった人物が難局を乗り越えられずに、

暗殺や失脚に追い込まれました。

下田の芸者、斎藤きちの場合もそうでした。

彼女は幕末に生まれたがために時代の波に巻き込まれ、

人々からこう呼ばれるようになります。「唐人お吉」と。

斎藤きち(Wikipediaより)

 きちの人生については多くの小説や映画などが発表されていますが、

真偽が混同されて伝わり、いまだ真相は分かりません。

今回は「唐人お吉」について記述した最初期の文献、

昭和5年出版の村松春水「実話 唐人お吉」に沿い、彼女の数奇で哀切な一生を紐解きます。

 

 天保12年、きちは下田・坂下町の船大工の家に生まれました。

7歳から養母に芸を仕込まれたきちは声が良く、

特に十八番の新内節「明烏」を唄わせれば下田で右に出るものはなし。

安政元年、14歳になる頃には、

「新内お吉」「明烏のお吉」と呼ばれる有名芸妓になっていました。

 同年3月、日本がアメリカと日米和親条約を結び、きちの暮らす下田が開港されると、

彼女の怒涛の人生が幕を開きます。

同年11月、開港されたばかりの町に大地震と津波が襲来。

下田は壊滅状態、きちは家も家族も失い、絶望の淵に追いやられます。

そんな時、彼女に光を投げかけたのは幼なじみの少年、鶴松でした。

彼は立派な船大工になっており、自腹できちに急ごしらえの家を作り、

お金も貸してくれたのです。きちは鶴松に救われ、なんとか生命を繋ぐ事ができました。

 

 しかし不幸は続きます…

翌安政2年には養母が病死。きちは15歳で天涯孤独になり、ふたたび芸妓になります。

深い悲しみを抱えつつも、気丈に働くきち。

玉のような美しさと健気さで、下田の役人の宴席には必ず呼ばれる人気芸妓に成長します。

そして一方では、幼なじみの鶴松に恩金の借りを完済。

2人は互いの想いを打ち明け、恋仲になりました。

 

 安政3年7月、

アメリカ駐日総領事・タウンゼント=ハリスが日米修好通商条約を締結すべく下田に着任。

一介の芸妓には関係がないように思えるこの事が、きちの人生を大きく変えました。

翌安政4年、下田で一番の芸妓だったきちは、

17歳にしてアメリカ駐日総領事・タウンゼント=ハリスの相手に抜擢されます。

ハリスが用意したのは支度金25両、1年の給金120両の大金。

顔なじみの下田の役人たちに「国難を救うと思って、身を捧げてくれ」と頼み込まれ、

きちは泣く泣く「参ります」と了承しました。

お吉自筆の給金請書 出典:村松春水「実話 唐人お吉」国会図書館蔵

 こうしてきちは、恋人鶴松に別れを告げ、

ハリスの待つ米国領事館・玉泉寺に向かったのです。

下田から少し離れた柿崎村の玉泉寺は、コウモリやネズミの棲む、それはひどい寺でした。

当時は流行歌の替え歌が流行っており、お吉が作ったとされる歌がこちら。

「行こか柿崎 帰ろか下田 思い惑うよ間戸が浜」

間戸が浜とは、柿崎領事館と下田のちょうど中間の地名。

決して喜んでハリスの元に行った訳ではないお吉は、

領事館へ向かう道中に悲しげにこの歌を歌ったのでした。

 実際に柿崎のアメリカ領事館に到着してみると、ハリスは病気で、

芸妓遊びどころではありませんでした。きちは驚いた事でしょう。

きちがどのくらいの期間ハリスの元に通ったかは、諸説あります。

3ヶ月世話をした説、1週間で暇を出された説、奉行所の記録によると、

たったの3日間だったとか。

 

 いずれにしてもわずかな期間ですが、きちは病気のハリスを寝ずに看病し、

ハリスが好きな牛乳を苦心して手に入れ大層喜ばせたと伝わります。

きちは、相手が外国人だからと言って対応を疎かにしない、

心優しく芯の強い女性だったのです。

 しかし周りの目はそうは見ません。

毎日美しく着飾り化粧したきちが、豪華な駕籠に乗りこみ、

武士にまで挨拶を受けて領事館へ向かう姿を見た町の人々は、

彼女が内心どんな心細い気持ちでいるか知るわけもなく、

偏見と嫉妬で彼女をこう呼ぶようになります。「唐人お吉」と。

 同時に、きちが高飛車に「日本人なんか相手にしません」

と言ったという根も葉もない噂まで広まってしまいます。

そのせいでハリスの看病の役目を解かれた後も客が付かなくなってしまったきちは、

現実から目を背けるように酒に溺れる日が増えました。

そして20歳の頃、ついに人々の前から姿を消します。

 時は流れ、御一新後の明治元年。

ただ1人、姿を消してしまったきちを探し続けていた人物がいました。

想いは通じ、彼はついにきちを横浜で見つけ出します。

その時又五郎32歳、きちは28歳になっていました。

2人は結婚し、しばらく横浜で暮らしたのち、互いの故郷である下田の大工町に家を持ちます。きちは夢だった新造らしい丸髷を結い、人生の中で最もきらめく時を過ごします。

 しかし、神様は意地悪です。

これでハッピーエンドかと思いきや、きちの酒乱が再発し、

明治7年に2人は別れてしまうのです。直後、又五郎は謎の死を遂げます。

それからのきちは、自分の事を「生きた屍」と言うようになり、

芸者、髪結い屋を経て、安直楼という小料理屋を開業するも上手くいかずに閉店。

やはり心のどこかでは又五郎の事を忘れられずにいたのでしょう。

安直楼 (Wikipediaより)

 きち47歳の時、長年の飲酒が高じてか脳卒中で倒れ、体がいうことをきかなくなります。

借金も返せず、乞食のような風体になったきちは、

明治23年、稲生沢川に身投げします。時にお吉50歳。

 

 彼女の遺書には、こうしたためられていました。

「あわれな女と思し召し、私の亡き後の香華の手向けをご無心申し上げます。

さらばお達者に過ごされませ。おさらば 乞食婆より」

思いがけないかたちで幕末の波に呑みこまれた佳人は、

波路の間の浮き藻の花と消えたのでした。

この話を聞くたびに、幕末で犠牲になったのは有名な志士だけではなく、

きちをはじめとする名もなき庶民の人々でもあったということを、

忘れてはいけないと思うのです。

昭和9年発見のお吉写真】 オリヴァー・スタットラー著「下田 ...

「昭和9年発見お吉写真」

 

 

 

ハリスのその後...

ハリスはずっと日本に滞在したわけではありません。

来日から5年9か月後の1862年(文久2)9月、故郷のニューヨークへ戻っています。

この時彼は58歳。もともと条約交渉中から彼は体調の不調を訴えており、

いったんは回復したものの、再び悪化したようです。

また、当時のアメリカは南北戦争の真っただ中でした。

自分とは党派が異なる共和党のリンカーンが大統領だったこともあり、

南北戦争の故郷の心配があった可能性もあります。

 さて、独身だったハリスは、帰国後はニューヨーク四番街のアパートで,

ひっそりと暮らしていました。

そして帰国から5年後、アメリカ議会はハリスの功績を称え、

ハリス自身の収入で賄っていた日本滞在中の費用をすべて支払っています。

以後、彼は特に公職には就かず、ローマやパリへ旅行したり、

動物愛護団体の会員になったりしながら、悠々自適の生活を送りました。

 ハリスは、日記に日本人のことを「喜望峰以東で最も優れた民族」と書いていたほどで、

日本のことをいつも気にかけ、

親しい人々に日本のことを話すのを楽しみにしていたといいます。

[千葉県佐倉市に千葉県佐倉市にあるハリス像]

仕事で赴任していたとはいえ、

おそらく彼にとっても日本での日々は充実したものだったのでしょう。

晩年は、保養地のフロリダへ移住してのんびりと暮らし、74歳で亡くなりました。

生涯独身で家族はいなかったので、姪が法定相続人となっています。

夜と朝のあいだに

発売:1969年10月1日 作詞:なかにし礼 作曲:村井邦彦

ピーター(池畑慎之介)

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 夜と朝の間に ひとりの私 天使の歌をきいている 死人のように

 夜と朝の間に ひとりの私 指を折ってはくりかえす 数はつきない 

遠くこだまをひいている 鎖につながれた むく犬よ 

お前も静かに眠れ お前も静かに眠れ 

夜と朝の間に ひとりの私 散るのを忘れた一枚の 花びらみたい 

夜と朝の間に ひとりの私 星が流れて消えても 祈りはしない

夜の寒さにたえかねて 夜明けを待ちわびる 小鳥たち

 お前も静かに眠れ お前も静かに眠れ

 ******************************

フランス語の「La nuit (夜)」が女性名詞、「Le matin(朝)」が男性名詞、

「夜と朝のあいだに」は女と男の間という意味があったと、

なかにし礼から教えられたことを後に池畑が語っている。

 

古典古代における世界の七不思議

 

一般に「世界の七不思議」と言えば、

古代ギリシア人が選んだ「古代世界の七不思議」

ギザの大ピラミッド

バビロンの空中庭園

オリンピアのゼウス像

エフェソスのアルテミス神殿

ハリカルナッソスのマウソロス霊廟

ロドス島の巨像

アレクサンドリアの大灯台

を指すことが多いです。

 

 世界の「七不思議」の中で、唯一いまも現存しているとされるのは、

エジプトのギザのピラミッドです。

他の六つの古代世界七不思議は、地震や戦乱などで失われたとされています。

 

ギザの大ピラミッド

ギザの大ピラミッド

(英語: Great Pyramid of Giza)は、

エジプトのギザに建設されたピラミッド。

世界遺産メンフィスとその墓地遺跡の構成要素でもある。

古代エジプトの第4王朝(紀元前2500年頃)の王、

クフの墓とされ、 クフ王のピラミッドとも呼ばれる。

 

バビロンの空中庭園

バビロンの空中庭園(Hanging Gardens of Babylon)は、

古代ギリシアの数学者・フィロンが選んだ

「世界の七不思議」の建造物の一つの伝承上の屋上庭園。

バビロンの吊り庭園(バビロンのつりていえん)ともいう。

古代土木技術の偉業とされる。何層もの階段上に庭園が配置され、

様々な種類の樹木、つる植物が植えられた。

泥れんがを積んで大きな緑の山に似せて造られ、

今日のイラクのバービル県ヒッラ付近にあった、

古代都市バビロンの中に建設されたと言われている。

 

オリンピアのゼウス像

紀元前435年に古代の高名な彫刻家ペイディアスによって建造された、

天空神ゼウスの彫像。

主に古代オリンピックにおける奉納競技の本尊とされていたとされる。

紀元前5世紀頃、オリンピアにゼウス神殿が建造された。

ゼウス像はこの神殿の奥に収められ、その全幅は神殿の通路の幅とほぼ同じだった。

座像でありながら、全長は約12メートル(約40フィート)もあった。

 

エフェソスのアルテミス神殿

アルテミス神殿(ギリシア語: ναός της Αρτέμιδος、ラテン語: Artemisium)は、

紀元前7世紀から紀元3世紀にかけてエフェソス(現在のトルコ西部)に存在した、

アルテミスを奉った総大理石の神殿である。

残骸を積み上げ、柱をいくらか復元してあるが、原形をとどめていない。

最初の神殿は紀元前700年頃に建てられ、

紀元前650年頃にキンメリア人によって破壊された後、

紀元前550年頃にリディアのクロイソス王によって再建された。

その後、紀元前356年に放火で再び失われ、紀元前323年に三度建てられた。

 

ハリカルナッソスのマウソロス霊廟

【模型 ボドルム考古学博物館】

マウソロス霊廟(マウソロスれいびょう)は、

カリアを支配したヘカトムノス朝のマウソロスとその妻アルテミシアの

遺体を安置するために造られた霊廟である。

ギリシア人建築家のプリエネのピュティオスとサテュロスによって設計され、

スコパス、レオカレス、ブリュアクシス、ティモテオスという4人の高名な彫刻家によって

フリーズ(彫刻帯)が施された。

この霊廟は、マウソロスの死後に妃アルテミシアが夫のために建造したといわれているが、

実際にはマウソロスの生存中に建造が開始されたと考えられている。

マウソロスの死から3年後、

アルテミシアの死から1年後にあたる紀元前350年に完成したといわれている。

 

ロドス島の巨像

ロドスの巨像の想像図 (The Grolier Society's 1911 Book of Knowledge)

ロドス島の巨像(、Colossus of Rhodes)は、

紀元前3世紀頃にリンドスのカレス(英語版)によって、

エーゲ海南東部のロドス島に建造されたとされる。

太陽神ヘーリオスをかたどった彫像(コロッソス)。

現在まで実在を示す遺構などはないものの、一般的に知られているのは、

全長は34メートル。台座まで含めると約50メートルになり、

現代のニューヨークの自由の女神像に匹敵する大きさであった。

ヘーリオスは同じ太陽神のソルやアポロン(ローマ名アポロ)と混同されたため、

アポロの巨像とも呼ばれる。

 

アレクサンドリアの大灯台

アレクサンドリアの大灯台の復元予想図

アレクサンドリアの大灯台(英: Lighthouse of Alexandria)は、

紀元前3世紀頃にエジプトのアレクサンドリア湾岸のファロス島に建造された灯台。

ファロス島の大灯台、あるいはアレクサンドリアのファロスとも呼ばれる。

14世紀の二度の地震によって全壊したが、

七不思議の中ではギザの大ピラミッド、マウソロス霊廟に次ぐ長命な建造物だった。

 

世界の七不思議に関連する年表と地図