昨夜からの秋雨は一転し、爽天に南風が吹いています。
私が若松監督の訃報に接したのは、昨朝のことでした。テレ朝での短報に驚き、JVJAの山本宗補さんのRTで再確認。今、説明の付かない喪失感を噛みしめています。
今回アップの打字は、当初、監督がお亡くなりになる直前だった一昨夜の回に上げようかどうか悩んだ後に、中途で下書きに保存していたものです。
監督のアーカイブを知らない多くの方のために、まず監督のお仕事の全体像とその変遷をしっかりお伝えするのが先ではないか‥と判断し、一昨夜の平沢剛さんの詳察記事に差し替えてのアップでした。
まるで彗星のように逝かれてしまった監督の訃報に接する中で、僅かでも私自身が生活の中で、若松監督の命からの作用のような瞬間を感じられたのも、好戦傾倒の時代を倦み、特に311以降に極まる棄民の惨状に心を痛めてきたこの1年半への監督からのプレゼントだったのでは‥‥なんて勝手な思い違いを楽しんでいます。
若松孝二とは、いったいどういう出自の人で、どういう心と思考と主張の持ち主であったのか。
秋風と共に去りし若松監督の巨魂への追悼の意を込めつつ、その人と成りへの静かな対話の時間にできたらと思っています。
今回は、全7頁分の打ち込みになります。お時間の許す限り、人間・若松孝二にお付きあい下されば幸いです。
筆者
若松孝二監督作品『キャタピラー』のパンフレットより転載致します。
●若松孝二(わかまつ こうじ)
◎1936年(昭和11年)、宮城県生まれ。
高校時代、停学処分を3回受け、54年(昭和29年)に退学。家出して上京し、お菓子屋の小僧や日雇い労働などの職を転々とし、ヤクザの世界へ。
この極道時代に新宿で映画の撮影現場の用心棒をしたことがきっかけで、半年間の拘置所暮らしの後、足を洗って映像の世界へ。
63年(昭和38年)、『甘い罠』で監督デビュー。65年(同40年)に若松プロを設立し、『壁の中の秘事』がベルリン国際映画祭に出品され、国辱映画として騒がれる。
71年(同46年)、パレスチナゲリラの闘争を描いた『赤軍─PFLP 世界戦争宣言』を発表。
『胎児が密猟するとき』『天使の恍惚』『水のないプール』『17歳の風景』などの話題作を次々に世に送り出す。
『戒厳令の夜』『愛のコリーダ』などプロデュース作品も多数。
前作の『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』は、ベルリン国際映画祭のフォーラム部門で2冠を受賞した。
『正義の戦争なんて、どこにあるんですか?』
若松孝二 インタビュー
● ─「キャタピラー」の構想はいつ、頭の中に生まれたのでしょうか。
(若松) 実は「連合赤軍」を撮ってる最中から、漠然と考えていました。連合赤軍の若者たちの映画を撮りながら、この子らが出てきた背景には、親世代が犯した過ち、あの戦争があったのだろう、と感じていた。懲りずに再び戦争への道を進みつつあるという時代背景があったからこそ、60年代、学生たちは立ち上がった。
よし、次はこの親の時代を撮ろう、と
、寒風吹きすさぶロケの最中に考えていたんですよ。(笑)。
四肢を失った傷痍軍人という設定は、『ジョニーは戦場へ行った』という映画や、江戸川乱歩の『芋虫』などの作品から感じ取ったイメージの影響が頭の中にありました。
そこに、僕の子ども時代、実体験としての戦争の空気というものを加えていった。
● ─監督は宮城県遠田郡涌谷町の生まれですが、そこでの戦争の空気というと?
(若松) 毎日のように、戦地に兵隊が送られていった。戦時中、子どもだった僕は、しょっちゅう日の丸を振って、列車に乗せられた兵隊を見送りましたよ。
大人たちはずっと『勝ってる』『勝ってる』って言い続けていたし、毎日、僕らは天皇の写真に向かって頭を下げさせられていた。
時折、戦死者の遺骨が箱に入れられて届けられたりね。そんな光景を覚えています。
陸軍の師団が置かれていた仙台は、1945年(昭和20年)7月に米軍の大空襲を受けています。仙台市内がメチャクチャに爆撃された。
あのときは、空が真っ赤になっていました。涌谷の町からも、仙台上空から次々に投下される焼夷弾が見えました。それはまるで、線香花火のようだったんです。状況がよく理解できていない子どもの目には、その光景は美しく見えました。
仙台は壊滅的にやられた。それでもまだ、日本は『勝ってる』『勝ってる』と言い続けていました。仙台空襲でも、『帝国陸軍が敵機を何機撃ち落とした』とか、嘘の宣伝を続けていたのです。
そして何よりも、とにかく毎日ひもじかったですよ。食べ物は国に供出しなくちゃならないから、僕ら庶民には、ろくな食べ物がなかった。毎日、芋ばっかり食べていましたよ。サツマイモのツルとかね。
だから、当時、軍隊に志願した人の中には『お国のため』ということよりも、腹一杯ご飯が食べられると思って志願した人もいるんです。それほど、国家や軍隊に食糧が集中されていたわけですね。
● 一兵士である久蔵(大西信満)を通して、監督は何を描きたかったのでしょう。
(若松) 戦地で四肢を失い、軍神だとおだてられ、勲章をぶら下げて帰って来た久蔵。
国家から勲章をもらって喜んでいる人を見ると、僕は、なんていうのかな、無性に腹が立つんだよね。国家からの勲章なんて、もらうものじゃないよ。ちゃんと自分の考えをもっている人は、そんなものは断っていますよね。
僕だって、まあ、国家は僕に勲章なんかくれないだろうけれど、くれるって言っても断りますよ、賞金はもらうけれどね(笑)。
とにかく、僕は勲章は嫌いなのです。でも、そうした勲章にすがるしかなくなった久蔵、そんな中で、過去の自分の罪のフラッシュバックに苦しめられる久蔵、彼もまた、被害者ですよ。
1銭5厘のハガキで召集をかけられて、駒として戦地に送り込まれた。彼の命なんて、国家にとっては、1銭5厘の重さしかなかったんです。
そして、あの苦しみから逃れるためには、久蔵には「死」しかなかった。生きていることの方が苦しい。それは、苦しいですよ、生きるっていう事は。意識があるということは、苦しいものです。
大阪で子どもたちをたくさん殺してあっというまに死刑になった宅間元死刑囚(※)のことを、ふと思い出しました。
※ 2001年6月8日、大阪教育大学教育学部附属池田小学校で、児童や教員23名が、出刃包丁を持って校内に侵入した宅間守元死刑囚に殺傷された事件。
児童8名が殺害され、児童13名と教員2名が傷害を負わされた。
2003年8月28日、大阪地裁で死刑判決が言い渡された。翌9月10日、弁護士が控訴したが、同月26日に本人が控訴を取り下げ、死刑が確定した。
本人は早期の死刑執行を主張していた。死刑確定からおよそ1年後の2004年9月、異例のスピードで死刑が執行された。享年40。
彼は、早く死刑にしてくれ、と繰り返し訴えていましたよね。あんなにたくさんの小さな子を殺した。それは、もう、苦しくて生きてはいられなかっただろうと思います。
久蔵もそうです。あの苦しさから逃れるには、死ぬしかなかったのでしょう。
● 一方のシゲ子(寺島しのぶ)については、どうでしょうか。
(若松) 僕は、映画を撮るときはいつも、その中の登場人物の誰かになりかわって、僕がこの人だったらどう感じるかな…と考えながら撮ります。
「実録・連合赤軍」では、一番年下の少年兵でしたし、今回は、それがシゲ子でした。僕が彼女だったら、何を考え、何を感じ、どう動くだろう…と考えながら、この作品を作りました。
かつて、自分を殴った夫に対する憎しみ、手足を失っても求めてくる夫に対する嫌悪感、世間に対する見栄、死んで欲しいとさえ思っていたはずの夫に対して沸いてきた不思議な情。
彼女の胸の中にはいろんな思いが渦巻いていただろう、と。
そして何よりも、シゲ子の中に、僕は多分、強い母性を見出していたのだと思います。
シゲ子が、卵を久蔵の口に無理矢理押しつけるシーンがありますね。その後、シゲ子はハッとして、久蔵を抱きしめる。あれが女性だと思う。
男であれば、あの激情のままに相手を殺してしまうのではないでしょうか。
我に返って、その存在を胸に抱きしめるのが、母性だろうと感じています。そういう意味では、僕はマザコンなんですね、いつも言われていることですが(笑)。
僕のオヤジは、酒を飲んでは暴れて、よくお袋を殴りつけていた。僕は、なんでお袋はこんなオヤジと別れないのかと思っていましたよ。
お袋は、お前たち(子ども)のために我慢しているんだと言っていましたが。
僕は、オヤジをぶち殺してやろうと、マサカリを持って追いかけ回したことがあります。それほど、オヤジのお袋に対する暴力はひどかった。
当時の国家、社会における女性の扱いは、そんなものだったのだろうと思うのです。男の性欲のはけ口、飯炊き女、跡継ぎを産む道具。ひどく抑圧されていた存在です。
シゲ子が敗戦を知ったとき、「バンザーイ、バンザーイ」とやって来たクマ(篠原勝之)に向かって、笑顔を見せるでしょう。シゲ子にとっての敗戦は、そうした抑圧からの、小さな解放だったのだと思います。
● ─クマさんの存在は? もともとは、台本にもなかったそうですが。
(若松) 台本には出てきませんよ、ただの一行も。
クマの文章(P58)にもありますが、クランクインの直前、彼と新宿で飲んでいるときに、ふと思いついたんです。
戦時中、僕の地元にもいたんですよ。いつも赤い襦袢(じゅばん)を着て、おかしな言動をしている人が。
なんだか良くわからないけれど、子ども心に、なんか変な人だと思っていた。大人たちなんて、平気で「あいつは頭がおかしいから、近づくな」なんて言ってね。
でも、終戦後、その人は普通の服着て野良仕事をしていたんですよ。
後になって考えると、彼は本当の意味で戦争に反対していた人だったんじゃないか、と。人を殺すのも殺されるのもイヤだから、バカなふりをして徴兵逃れをしていたんじゃないか。
自分でイヤなものはイヤだと言う、流れに逆らう、それができる人こそ、一番勇気のある人じゃないですか。
僕はね、社会の中でうまく立ち回っている人間には、ちっとも興味を感じないんです。如才なくうまく動いている人間は、ちっとも面白くない。
表現する人間は、大きいものの中でうまくやっていこうとしたら、だめですよ。その人であることの価値がなくなっちゃうと思います。
僕は赤塚(不二夫)さんなどのように、こんな風に生きていきたいな、というお手本のような人との出会いに恵まれました。
僕なんて、当時は、マニアックな人たちにしか知られていない存在だったけれど、赤塚さんは、すでに超有名人でしたからね。
でも、そんなことちっとも気にしないで、僕と一緒に、ホームレスのところに一升瓶を持って行って酒を飲むんです。
それで、意気投合すると、自分の家に連れて帰ってお風呂に入れてご飯食べさせたりね。そういう人だった。
人間はこういう風に生きられるんだな
、ということを教えてもらった。
そのほかにも(佐々木)守さんとかね、僕の周りにいい人間がたくさんいたのです。守さんも、本当に温かい人でしたよ。
守さんは、脚本家としてせっせと働いては、パレスチナのために頑張っている連中にカンパしていた。
一方で、今回の作品がベルリン映画祭で「銀熊賞」を取ったら、これまで、僕なんか相手にしなかったような人たちが、「ギンクマ」の権威にすり寄ってくるんですよ。
僕には、そういう人間のイヤらしさがよく見えます。そういう人たちは、すぐに僕から去っていくんですけれどね、不思議なことに。
● ─海外の映画祭では、映画から、反戦のみならず、監督の天皇制への批判的なまなざしを読み取った人たちもかなりいたようですが?
(若松) 僕自身は別に、天皇が悪いとか何だとか言っているつもりはありません。
でも、幼少期、無理矢理、わけもわからず日々頭を下げさせられた、そういった原体験として自分の中にあります。
さらに、やっぱり、みんな「天皇の赤子」として、戦争に駆り出された。一億総玉砕、国体護持…と、洗脳されていったんです。
20世紀は大きな戦争がいくつもありました。たくさんの人が殺されました。数千万人という人間が、人間によって殺されたのです。
でも、そんな経験をしてもまだ、世界から戦争はなくならない。
核兵器も、その他の兵器もなくならない。国による殺人が続いています。
それどころか、日本では、憲法9条を変えて、軍隊を持って戦争ができる国にしようという声も大きくなってきている。
チャップリンの映画に『一人殺せば殺人者、100万人殺せば英雄』(『殺人狂時代』)という台詞がありますよね。それが戦争です。戦争をするための道具が軍隊です。
それが、なぜ、今の日本に必要なんですか?
「北朝鮮」が脅威だ? アメリカに守ってもらわなければ、自国の平和が保てない? バカを言うな、と思いますよ。
日本に、何か資源がありますか? わざわざ、外国が、軍隊出して、兵器を使って日本を乗っ取って、何か良いことがある?
まさか、乗っ取って、日本人を皆殺しするわけにもいかないんだから、1億人の国民を食わせるだけでも大変でしょう。
日本の資源なんて、せいぜいが、頭脳や技術です。これだって、イヤだったら頭を使わなきゃいいんだから、天然資源みたいに無理矢理強奪するわけにもいかない。
そんな国を、わざわざ軍隊を出動して外国が占領するなんて、そんな荒唐無稽な話しはないですよ。
もちろん、アメリカがどこかと戦争して、そのために日本の米軍基地が攻撃の対象になることはあり得るでしょう。
米軍基地があるために、日本が逆に危険にさらされるんです。アメリカ軍によって日本が外国の脅威から守られているなんていうのは、ごまかしでしかないと思いますよ。
もしも基地によって安全が守られていると主張するのなら、普天間(基地)の移転先を東京湾に作ればいいじゃないですか。国会もあるし皇居もある。そういう国の中枢の近くに、安全を守ってくれる基地を作ればいいでしょう。
でも、そうはしない。基地によって安全が守られるなんて、建前でしかなきことを、国もわかっているから。
単に、武器商人が儲けるため、つまり経済のために武器が売られ、戦争が起こされているということがわかっているからです。
そして、沖縄は、基地の島にされて、捨て石にされているんじゃないですか。かつての戦争の時と同じですよ。沖縄戦なんて、本土を守るための捨て石だったじゃないですか。それで、多くの犠牲を出したのです。
特攻隊をお国のために死ぬ英雄のように描いたり、巨大な戦艦大和をかっこよく描いたりと、戦争を描く映画もいろいろあるけれど、僕は、そうした権力に都合のよい側を描くことだけはしたくないんです。
戦争なんて、何かスケールの大きなかっこいいものではありません。
当たり前ですが、人が人を殺すのです。個人的に憎み合っているわけでもない、名前も何も知らない相手を、上からの命令によって、武器を使って殺すんです。兵器というのは、人を殺す道具なのです。
本当に当たり前のそのことが、今や、何かリアルに感じられなくなっている。まるで、外交戦略として、やむを得ない、というような感覚で、武力行使が語られています。
● ─監督は、権力に対する武装闘争を肯定していたのでは?
(若松) 自衛のためのテロというのかな、例えば、シャティーラキャンプの大虐殺で、目の前のお母さんをレイプされ殺された。その子どもはきっと、大きくなっても強い恨みを抱き続けるでしょう。
その子が、自爆攻撃をする、そういう思いは、僕は、理解できてしまうんです。
僕も、身近な大切な人間を殺られたら、それは、相手を殺りに行きますよ。国家によって死刑にして欲しいなんて、思わない。僕が殺ってやる、と思う。
そういう闘争ではなくて、国家が「お国のために死んでこい」という戦争、この事だけは、絶対にダメだ、二度と戦争に加担してはダメだ、と、そのことだけは、どうしても言い続けないわけにはいかない。
僕は、1982年(昭和57年)、パレスチナ難民キャンプ、シャティーラキャンプの大虐殺の直後に現地入りをしたんです。
キャンプの中は死体の山ですよ。しかも、女性や子どもばかり。子どもは将来フェダイーン(戦士)になるから、そして女性は、フェダイーンとなる子どもを産むからという理由でイスラエル軍によって殺された。一番弱い存在が、攻撃を受けたのです。
戦争とはそういう事です。
日本は、アジアを欧米支配から解放するのだといって、戦争を始めた。
大国によって分断され、泥沼の朝鮮戦争が始まった。
アメリカは、ベトナムの解放だといって北ベトナムを爆撃した。
大量破壊兵器を捨てさせるべく、イラク戦争が始まった。
いろいろな国の大義名分が付けられますが、でも、正義の戦争なんて、どこにあるんですか。
繰り返しになりますが、戦争は、殺すか殺されるかなのです。人間が人間を殺すんですよ。
この映画では、戦争とは何なのか、戦争によって人間が破壊されていくとはどういうことなのかを、正面から描きたかったのです。それも、派手な戦闘シーンなどではなく、人間を通して描きたかった。
戦争を知らない世代の人でも、シゲ子の状況は、なんとなく理解できるでしょう?
抑圧され続けてきた彼女の思い、彼女を取り巻く空気の重たさ、そういうものは、なんとなくリアルに感じ取ることができるのではないかと思っています。
これが戦争なんだ、ということを、戦争を直接知らない若い人たちにも理解して欲しい。
どうか、あの悲惨な戦争のことを忘れないで欲しい。
そして、国家による殺し合いに、加担する側にはいかないで欲しい、そういう思いを込めたのが、この作品なのです。
● ─最後に、次の作品の構想について教えてください。
(若松) それはいろいろありますよ(笑)。僕は、人間が好きだから、人間を描くのが好きだから。
そして今は、日本の戦後の転換期ともいえる1960年代、あの時代に、純粋に生きていた人たちのことが、非常に気になっている。
連合赤軍の裏側ともいうべき存在ですね。まあ、楽しみにしていてください。
(若松孝二)
●2010年8月10日 初版発行
若松孝二 『キャタピラー』
パンフレットより転記 ✓