現在進行中の熊本・九州大震災の犠牲者とご家族の皆様にお悔やみを申し上げます。


《以下、転載致します》


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被災者をミスリード 安倍首相「全員屋内退避」に過失の目



▼熊本地震で死者が拡大したのは“人災”だったのか――。地震発生直後に安倍首相が命じた“全員屋内避難”が大問題になってきた。安倍首相は最初の震度7の前震が起きた15日、全ての屋外避難者を15日中に屋内の避難所に入れるよう指示。これをNHKなどが大きく報じた。その後、16日未明に本震が発生し被害が増大。安倍首相の指示が被災者を“ミスリード”した可能性がある。


 地震が発生したら、耐震が十分でない建物にいた場合には、屋外に避難するのは“常識”だ。その後の余震で建物が倒壊する可能性があるからだ。


 今回も14日の震度7発生直後に、政府の地震調査委員会の委員長を務める東大地震研究所地震予知研究センター長の平田直教授が「古い住宅などにいる方は、安全なところに避難してほしい」と注意を促している。


■大半は家屋倒壊で圧死


ところが、である。地震調査委の平田委員長のアドバイスに耳を貸さず、安倍首相は15日午前、河野太郎防災担当相に対し「現在、屋外で避難している全ての人を15日中に屋内の避難所に入れるよう」指示を出しているのだ。


 その上、安倍首相の指示を新聞テレビが報道。NHKの15日のニュースは〈首相 屋外の避難者をきょう中に屋内に〉という見出しだったから、これを見て「屋外はキケンなのか」「屋内に戻らなければ」と判断した被災者も少なくないだろう。耐震が十分でない家なら、16日の本震で倒壊した可能性だってある。死者の大半が圧死であることを考えると、背筋が寒くなってくる。


 河野の15日付のブログには「総理からは屋外に避難している人を確実に今日中に屋内に収容せよと指示がありました」と書かれてある。何をそんなに焦っていたのか。


 安倍首相は当初、16日に現地を視察する予定だった。その時に被災者が野宿しているのはマズイということなのか。まさか自らの“テレビ映り”を気にしてのことなのか。この疑惑についてツイッターで発信している慶大教授の金子勝氏がこう言う。


「耐震が不十分な建物の場合、屋外への避難を促すのは、専門家に聞けばすぐにわかる話です。でも、それすらもできていない。勝手な思い込みか何かで指示を出しているのでしょう。もし、これで被害者が出たら、まさに“人災”です。“独裁体質”の安倍政権では、首相が誤ったことをしても、周りに指摘する人も注意する人もいません。恐ろしいことです」

 こんな政権に任せておけない。✓



《以下、転載致します》


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素人博打で年金運用失敗 選挙終わるまで巨額損失隠しの露骨

株価下落で苦境に



▼安倍政権は一か八かの“年金ギャンブル”で巨額の損失を出した。それも素人ギャンブラーが落とし穴に見事に嵌ったような負け方なのだ。


 最初は確かに大勝ちしていた。株価が右肩上がりだった3年前の前回参院選の2か月前、麻生太郎・財務相が得意げに語った顔は今も忘れられない。

「7月に年金の運用状況が出てくるが、ウン兆円の黒字になる。アベノミクスは株だけではない。一番肝心の社会保障の元の元も稼ぎ出している」(2013年5月18日、札幌市での講演)


 予告通り、参院選の告示直前の「7月2日」に発表された年金運用益は11兆円を超える黒字で、自民党大勝利の呼び水となった。味を占めた官邸のギャンブラーたちは欲深になった。

「年金資金が足りないなら株で稼げばいい。株価も上がるから一石二鳥だ」


 そう考えた安倍首相と官邸の側近たちは賭け金を2倍にレイズする。原資は国民が将来のために積み立てた虎の子の年金保険料だ。厚労省の年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)に約140兆円の年金積立金の運用基準を大きく変更させ、「安全」な国債を売って短期間に17兆円もの資金を株につぎ込ませたのだ。おそらく“博打の賭け金”としては史上空前の金額だろう。


 巨額資金で買い進めば一時的に株価は上がる。それまで1万5000円台で足踏みしていた日経平均株価はグングン上がり、昨年夏には2万円を超えた。だが、官製相場はそう長く続かない。今年に入ると年初から株価は4000円近く急落、年金財政は巨額の含み損を抱え込んだ。

「このままでは参院選に深刻な影響が出る」


 官邸の面々は真っ青になった。しかも、今回も7月の参院選直前に運用状況を公表しなければならない。投資失敗で年金積立金に巨額の損失を出したことが明らかになれば、安倍政権は猛批判を浴び、3年前の選挙とは真逆の風が吹き荒れるのは目に見えている。


 官邸の苦境を見てGPIFが動く。厚労省から出向している三石博之・審議役を中心に、内部の会議で年金積立金の運用実績の公表を参院選後の「7月29日」に延期する方針を決定した。「選挙が終わるまで国民に巨額損失を隠し通す」という露骨な選挙対策である。


 民進党の山井和則・元厚労政務官は3月31日に開かれた党の年金運用問題の勉強会で厚労省幹部から直接聞かされた。

「厚労省の宮崎敦文・参事官に『年金の損失は重要な問題だから、参院選後に公表することがないようにしてほしい』と念を押したところ、参事官は『もう7月29日に公表することが決定し、塩崎(恭久)大臣に報告している』と言い出した。官邸と厚労省、GPIFのコンビプレーで隠すことにしたのだろうが、出席者はのけぞっていた」


 前回参院選前には麻生財務相が5月の段階で「ウン兆円の黒字」と積極的にリークし、官邸にも「黒字は10兆円以上」と概要が伝わっていた。麻生氏も官邸も、今回の損失の概要はもうわかっているはずだ。


 損失が出た以上、「アベノミクスで一番肝心の社会保障の元の元が消失した。申し訳ない」と潔く国民に謝罪したほうがいい。✓


※週刊ポスト2016年4月22日号




《以下、転載致します》



『兵士は戦場で何を見たのか』
 破壊される男たち

              鰐部 祥平



兵士は戦場で何を見たのか (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ II-7)

作者:デイヴィッド・フィンケル
翻訳:古屋美登里
出版社:亜紀書房



【レビュー】

 2007年、カンザスのフォート・ライリーを拠点にしていた第16連隊第2大隊は、念願のイラク派兵に臨むことになった。

指揮官のカウズラリッチ中佐は40歳の勇猛な男で、特殊部隊の兵士としてアフガニスタンでの従軍経験もある。しかし、イラク進攻作戦では、彼の大隊は留守番組であった。

士官学校を卒業した多くの士官がペンタゴンで働くことを夢みる。だがカウズラリッチはそれを望まない。軍内部の政治を敬遠し前線で戦うことを常に求める。

「兵士の中の兵士」「彼について行けば地獄の底からでも戻ってこられる(後略)」と部下に呼ばれるような気質の男だという。

また彼は陸軍に入隊してから今まで、一人の部下も死なせたことがないという経歴の持主でもあった。

本書はピュリツァー賞経歴を持つジャーナリスト、デイヴィッド・フィンケルが派兵される第2大隊に同行し、兵士たちがどのように崩壊していくかを丹念に取材した従軍記である。


 カウズラリッチを待っていたのは、伝統的な戦争ではなく、政治的手腕が試される「対反乱作戦」であった。約束は一切果たさないが、貪欲にアメリカ軍から金品を貪ろうとする、地元の指導者とのあくなき交渉だ。正規軍同士の戦争ならばカウズラリッチはその並はずれた勇敢さとリーダーシップを武器に、大隊の先頭に立ち「俺についてこい」と部下たちに言えたであろう、と大隊の副司令のカミングズは考える。

だが部下の予想に反し、彼は政治活動を進んで行う。アラビア語を学び、ラジオ番組に出演し、政治家との交渉に赴き、イラクの治安部隊の指揮官と関係を築いていく。

カウズラリッチはアメリカの勝利を疑わなかったが、現実は違った。彼の部下たちはIED(簡易爆弾)やEFP(自己鍛造弾)やロケット弾で連日のように攻撃されるようになる。


 本書で特にその破壊力が強調されているのがEFPだ。WikipediaによるとEFPとは成形炸薬弾の一種で爆発レンズによる平面爆轟波とマイゼン・シュレーディング効果による爆轟波の集中による圧力で、爆破形成侵徹体を形成する兵器とある。

本書ではこの侵徹体がいかに兵士たちの肉体を生きたまま引き裂き、彼らを肉塊に変えていくかが克明に描かれている。

EFPの被害者の1人がジョシュア・リーヴズだ。彼はその日、妊娠していた妻が無事に赤ん坊を生んだと聞かされた。喜びもつかの間、EFPの犠牲になる。

EFPが彼の座る席の真横からハンヴィー(機高動多用途装輪車両)に飛び込み彼を引き裂いた。救護所に運ばれた時点ですでに脈はなく、顔は土色で脚はズタズタの状態だった。衛生兵が心臓マッサージを行うごとに、脚の肉片が床に崩れ落ちていく。足の指が見守る仲間たちの前に転がる。カウズラリッチもカミングズも涙をこらえるのに必死だった。医師たちの懸命の努力で再び心臓が動き出した。急いで後方の基地に搬送されたが、手術中に死亡した。


 19歳の兵士ダンカン・クロックストンはEFPの爆破で四肢の全てを失い、全身に火傷を負う。大男だった彼は子供の用に小さくなった。その姿に妻が、母が、戦友が衝撃を受ける。あまりにも非現実的な光景だったという。彼は本国に送還され懸命に生きようとしたが、感染症が全身を蝕み、最後は妻と母の決断により、治療が停止される。そして息絶えた。


 他にも多くの兵士が手をもがれ、脚をミンチにされ、顎を吹き飛ばされる。軽傷の者はハンヴィーから転げるように逃げ出し、意識をなくした者や重症で動けない者は、燃え盛る炎の中で炭になるまで焼かれる。その描写に多くの読者は涙を禁じ得ないだろう。兵士たちの恐怖と怒りが文章を通して、ひしひしと伝わってくる。その臨場感と感情の動きは、長い時間を彼らと共に過ごした著者だからこそ、見事に表現することができたのであろう。


 ジャーナリストとして、著者はアメリカ兵が見ようとしなかった者たちにも着目する。イラク人たちだ。イジーと呼ばれる男はカウズラリッチ専属の通訳だ。彼はかつてイラク政府から派遣され国連で働いていた経歴を持つ。しかし、その立場を独裁政権から疑われ逮捕された。釈放後に家族を残し国外に逃亡していたが、アメリカがイラクを解放したと喜び帰国する。

しかし待っていたのは混沌としたイラクであった。いつかアメリカに難民として渡れる日を夢みて彼は懸命に働く。そんな彼に兵士たちは石を投げつけ罵倒する。


 レイチェルという25歳の女性通訳は、アメリカの自由を信じてアメリカ軍に協力する。上記のリーヴスをハンヴィーから助け出したのも彼女だ。リーヴスの血が脚を伝わりブーツの中に流れ込んだと彼女は語る。年齢が近いという事もあり、兵士たちは友人のように彼女に接していた。しかし、死傷者が増えるにつれ、兵士たちの苛立ちはイラク人全般に向けられる。

彼女はある日、別の大隊の兵士たちに口汚く罵られる。イラク人たちの目を通して兵士たちの心が壊れていく姿が語られている。


 実は本書は以前、HONZの学生メンバーの峰尾健一がレビューした『帰還兵はなぜ自殺するのか』の前編にあたる作品だ。本書の特徴は「イマージョン・ジャーナリズム」と言われる手法だ。これは取材者の存在をその文体から消し去る事により、小説でも読むような感覚で取材対象者や事件を見る事ができるという点が特徴だ。

最初はノンフィクション作品として、やや違和感を覚えるが、圧倒的な臨場感と共に人物の心の動きをとらえる必要のある作品には、むいている手法ではないだろうか。欧米などでは時折り見られる手法でもある。

私が以前レビューした『いつまでも美しく』という作品においても、この手法が使われていた。


 ついにカウズラリッチほどの男でも、悪夢に苛まれ眠れないようになる。大隊最高の兵士と讃えられたアダム・シューマンはPTSDと診断され除隊する。肉体のみではなく兵士たちの精神が破壊されていく様も克明に記される。

戦争は国を、地域を、社会を、人間関係を、肉体を、そして人の心を破壊する。戦争の中で男たちが破壊されていく姿を、これほどまで見事に描いた作品を私は知らない。✓


以下、転載致します。



原発、別の道ないのか 89歳加古里子さん「若者よ考えて」


▼関西電力高浜原発4号機(福井県高浜町)が26日午後、再稼働する。

「これでいいのか、一人一人が考えてほしい」。福井県出身で、工学博士の絵本作家、加古里子(かこさとし)さん(89)=神奈川県藤沢市=は本紙を通じ、若者たちにそう呼び掛ける。


 政府や電力会社は楽天家なんでしょう。こんど原発の事故が起きたら、とは考えないんでしょうね。

 かつて勤めていた化学メーカーが原子炉で使う重水をつくっていました。優秀な部下たちが、一生懸命に研究しましたが、とんと目鼻が付かなかった。

 原子力って産業としてはなかなか成り立たないんです。原料のウランから取るのは熱だけでエネルギー効率は悪い。温水を出すから環境にも良くない。安価といわれますが、事故が起きたときのことを考えれば決して安くない。ない、ない、ないの三拍子そろっている。

 それなのにどうして止められないのか。原子力の技術を高めながら、同時にプルトニウムも手に入る。研究者の間で、核兵器を持つことが狙いだろうって話が出たこともあります。


 私は19歳で敗戦を迎えました。軍国少年の私は飛行機乗りになりたかった。大人の言うことを信用しきって現実を見ていなかったんです。

 敗戦で、大人たちは信用ならないと思った。多くの大人たちは勉強もしなければ、問題を解決しようともしない。それではもう未来はないと思って、子どもたちに(大人を妄信するという)私のような過ちはしてくれるなと訴えて生きてきました。

 今も似ています。大人たちが過去から学ばず、苦しいこと、嫌なこと、つらいことを後世に残そうとしている。原発で出た使用済み核燃料を(無害になるまでの)10万年置いておくと言うけれど、10年先だって分からないのに、10万年なんて…。偉い大人が真剣に考えて(使用済み核燃料を処理する)土地の皆さんを説得するか、原発を止めるかしないといけないけれど、突き詰めて考える姿勢が一つも見えない。

 だから若い人たちには未来を見つめてほしい。これでいいのか。もっと、いい道がないのか。多少、つらいこともあるかもしれないが、一歩一歩、小さいけれど、1ミリずつでもより良い道を探っていくのが一番の早道になるんじゃないか、と。

 何もしないのは見過ごすことと同じ。風力や太陽光発電を増やしながら、原発を1つずつでもなくしていく。できるはずです。身近な人と話をしたり、グループをつくったり、少しでも何かをしていこう。一人一人の自覚が高まれば未来は開けます。


 <かこ・さとし> 1926(大正15)年、福井県国高村(現越前市)生まれ。

東京大工学部卒業後、化学メーカーに勤務する傍ら、福祉向上の活動に取り組む。59年に絵本「だむのおじさんたち」でデビュー。

73年に退社し、創作活動に専念。代表作は「だるまちゃんとてんぐちゃん」などのだるまちゃんシリーズ、「からすのパンやさん」など。菊池寛賞など受賞多数。✓



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◆戦場から「壊れて」帰還する米の若者 自殺者も増加


オスカー・ロドリゲス(31)2009~11年、陸軍除隊後、再び体重が増えたが、再度入隊する際に減量するのはいとわない。陸軍で得た最大の教訓は、「人生をフルに生きるべきだ」ということ。従軍でも学位を取ることでも、夢に向かって努力すること。しかし、非軍人の生活では、それらを見失いがちだ(撮影/津山恵子)


人口3億人超に対し137万人という膨大な人数の軍隊を抱える米国。志願制が建前だが、中間・低所得層を狙い撃ちにするリクルート活動に支えられている。


 元陸軍兵オスカー・ロドリゲス(31)はニューヨーク市クイーンズ区のヒスパニック系移民や中間・貧困層が集中する界隈で生まれ育った。

「知ってる? この国では、高校2、3年の子どもがいる家に、軍隊からリクルート(新兵募集)の電話がかかってくるんだ」


 何度もかかってきたが、当時は興味がなかった。卒業して目的もなく近所で職を転々とし、ジョン・F・ケネディ国際空港の売店で働いていた時、電話をかけてきたリクルーターの言葉を思い出した。

「兵士になれば、海外も国内も、いろんなところに行って、違う世界を見ることができますよ」


 リクルートセンターに行くと、「体重を減らせ」と言われた。喜んで当時100キロ超あった体重を半年で77キロまで減らした。減量していることをリクルーターにアピールするため、センターの中のジムを使った。陸軍は、新しいことだらけだった。

「ニューヨークの駐屯地で、身体検査があった。前泊のホテルをとってくれて、食事もタダ。訓練では魚釣りも教わった。キャンプの仕方や射撃も覚えたし、止血や傷の洗浄など応急処置も覚えた。陸軍上等兵になれたんだ」


 軍装備のメンテナンス担当として、1年後の2010年、イラクへ。その話になると、突然、ロドリゲスの表情がこわばり、言葉がとぎれた。入隊までの話は、まるで日記を読むように細かい描写だったのに、呆然とこう言った。

「何人かを失った……爆弾が破裂して、ニュージャージー州から来た中尉が……助手席で真っ二つで即死……頭のいい、優しいやつだった……」


 ロドリゲスは、ハワイとドイツの基地駐屯を希望した。しかし、実際に赴任したのはテキサス州とケンタッキー州、そしてイラクだったと自嘲する。


 それなら別の「特典」を使おうと、バークレー・カレッジで、刑事司法を学び始めた。しかし、3年かかって卒業に必要な単位の5分の4を取ったところで、PTSD(心的外傷後ストレス障害)が道を阻んだ。


 不安、そして誰も自分を分かってくれないという寂しさから、ストリップクラブに通い、毎晩数百ドルをつぎ込んだ。貯金が尽きたため、生活用品店「ホームデポ」でアルバイトをしたが、秩序ある軍隊生活に慣れ切った彼にとって、同僚は耐え難く怠け者で、仕事の効率が悪い。仕事だけして、誰とも話さず帰宅する毎日が続いた。そして、カレッジから条件付き退校を告げられた。


 現在、復学の手続き中だが、卒業できたら、陸軍に再び入隊することを考えている。そこしか分かり合える仲間がいない。家族も友人も、「非軍人」はロドリゲスにとって、一緒にいることが寂しさにつながる。


 退役軍人のPTSDは、第2次世界大戦、ベトナム戦争の帰還兵の間でも見られた。しかし、米メディアによると、近年のイラク戦争、アフガニスタン侵攻に参加した退役軍人の間では、PTSDの罹患率が急増している。原因は定かではない。


自殺者も異常に多い。米ネットワークテレビ局CBSは、05年に6200人以上の退役軍人が自殺したと報じた。米退役軍人省(VA)の医師のメールから明らかになったもので、このほか退役軍人病院施設内で、月に1000人が「自殺未遂」を図っているという。


 ロドリゲスはいわゆる戦闘兵ではない。しかし、「爆発物はいつどこで爆発するのか分からない。白兵戦より怖い」(ロドリゲス)という状況で、何も知らない若い兵士が、戦闘兵と同じ恐怖を味わい、「壊れて」帰還する。


※AERA  2015年9月14日号より抜粋✓


以下、転載致します。


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被爆者 最終章の輝き 三鷹の女性 ドキュメンタリー製作


 広島、長崎の被爆者たちは、原爆に遭った後70年近い日々を生き抜き、人生の最終章を迎えている。


その人たちの今を刻みたい。そんな思いを「美しいひと」という題名に込めたドキュメンタリー映画を、東(あずま)志津さん(39)=東京都三鷹市=が製作した。


 きっかけは、原爆投下直後の長崎で撮影された1枚の写真だった。


 廃虚にぼうぜんと立ち尽くす若い女性とその足元にある黒焦げになった遺体。1945年8月9日に長崎へ原爆が投下された翌日、陸軍の従軍カメラマン山端庸介さんが撮影した写真に写っているのは、当時16歳だった龍(りゅう)智江子さん(84)。遺体はその母親だ。


 写真を見た東さんは、あらためて戦慄(せんりつ)を覚える一方、「原爆の悲惨さを伝えることだけが、彼女たちの人生のすべてではない」とも思った。


原爆に遭った人の「人生」に触れる記録映像を作りたい-。原爆にまつわる作品を撮りたいと思いながら定められずにいた自分なりの視点が見つかった。


 龍さんは被爆直後の恐怖感とともに、戦後の暮らしの過酷さを語った。


27歳で結婚した夫は、息子が生まれた3年後に急逝。原爆の後遺症で入退院を繰り返しながら、働き、ひとり息子を育ててきた。被爆二世の息子も中傷され、心を痛めながら生きてきた。


 しかし、自宅の周りを散歩したり、床の間の花を慈しむように生け替える龍さんの現在の姿からは、穏やかな時を過ごしていることが伝わってくる。


 作品には海外の被爆者も登場する。日本軍の捕虜になり長崎で原爆に遭ったオランダ人男性の1人、エバーハールト・ヘンリ・シュカウテンさんは、撮影の3週間後、90歳で亡くなった。


原爆の記憶に苦しみながら生きてきたが、海外在住者への支援は放置され、2011年にようやく被爆者と認められた。


 映画で、シュカウテンさんの息子は父に言う。「あなたがここにいる、そのことが素晴らしいのです」。シュカウテンさんは、「生きてきたということが重要なんだね」と表情を和らげる。


 東さんは「映画で描いた人だけでなく、つらい記憶とともに生きてきた多くの人たちがいる。その人生は、現代を生きる私たちに大きな励ましを与えてくれるはずです」と話す。


 5月31日から、東京・新宿の「K’s cinema」で上映。自主上映も呼びかけている。


問い合わせはS・Aプロダクション=電090(9689)8282=へ。




以下、転載致します。



若松孝二監督に迫る 仏ドキュメンタリー 横浜で初公開


▼交通事故で17日に急逝した若松孝二監督を、フランスの映画監督が追ったドキュメンタリー「火の家」が11月4日から、国内で初めて横浜市中区の「シネマジャック&ベティ」で上映される。2010年の作品だが、フランス政府公式機関との共催で、公開にこぎ着けた。


 火の家は、アントワーヌ・バロー監督の作品。1970年代に政治闘争へ参加したことをきっかけに、人を傷つけずに体制を攻撃する「武器としての映画」を撮り始めた若松監督の動機に迫る。


 ほかに寺山修司(故人)、小栗康平両監督も題材にしたバロー監督の連作の1つで、日本語上映されフランス語の字幕が付く。16分。11月4~6、8、9日の午後1時15分から。


 ジャック&ベティの梶原俊幸支配人は「若松監督の作品が見たいというたくさんのお客さまの声に応えていきたい」と話している。問い合わせはジャック&ベティ=電045(243)9800=へ。


 映画「キャタピラー」が公開された2010年夏、若松監督が終戦記念日に訪れた浜松市で約3時間、話を聞いた。当時74歳だったが、1日平均500キロを移動、全国の映画館で精力的に舞台あいさつに立っていた。


 戦争で四肢を失った疾病兵が帰国後、敵兵をあやめた罪悪感に耐えかねて土間を転がり回る。その姿をタイトルに冠した映画がキャタピラーだ。


ベルリン国際映画祭受賞作だが、大手資本に頼らず経営を続ける全国のミニシアターに、最初に配給された。どこも満員か立ち見が出た。上映後には、「むき出しの残酷さが伝われば成功。どんなに飾っても、戦争はただの殺し合いだ」と訴えた。


 終演後、焼酎を飲み、刺し身をつまみながら聞いたのは、人間についての話だった。


「社会の中でうまく立ち回ってる人間に興味はない。おれは赤塚不二夫さんみたいになりたいんだ」


 社会に違和感を覚え、不条理を変えようと行動を起こす人間が、集団になると敵をつくり排除へ向かう。内に敵が生まれれば連合赤軍のようなリンチやいじめに、外に敵が生まれれば戦争やテロに。


 「集団には負の側面がある。権力者が生まれ、人間はそこへすり寄る。新聞社も相撲部屋も警察も、どこもそうだよ」


 あがめる対象と攻撃する対象をつくらねば集団を保てない。そんな人間の弱さと、暴力性を薄めるユーモアの強さについて語ってくれた。


 キャタピラーには「ばかのふり」をして徴兵を免れる人物が登場するが、「大きな流れに逆らった彼こそ一番勇気があった」と若松監督。「これでいいのだ、ですか」。そう尋ねると、ニヤリと笑って言った。


 「おれもやりたいようにやってるけどね、若い人にはおれ以上に真っ向から社会に向かっていってもらいたいね」-。
              (了)









 昨夜からの秋雨は一転し、爽天に南風が吹いています。


私が若松監督の訃報に接したのは、昨朝のことでした。テレ朝での短報に驚き、JVJAの山本宗補さんのRTで再確認。今、説明の付かない喪失感を噛みしめています。


今回アップの打字は、当初、監督がお亡くなりになる直前だった一昨夜の回に上げようかどうか悩んだ後に、中途で下書きに保存していたものです。

監督のアーカイブを知らない多くの方のために、まず監督のお仕事の全体像とその変遷をしっかりお伝えするのが先ではないか‥と判断し、一昨夜の平沢剛さんの詳察記事に差し替えてのアップでした。


まるで彗星のように逝かれてしまった監督の訃報に接する中で、僅かでも私自身が生活の中で、若松監督の命からの作用のような瞬間を感じられたのも、好戦傾倒の時代を倦み、特に311以降に極まる棄民の惨状に心を痛めてきたこの1年半への監督からのプレゼントだったのでは‥‥なんて勝手な思い違いを楽しんでいます。



若松孝二とは、いったいどういう出自の人で、どういう心と思考と主張の持ち主であったのか。



秋風と共に去りし若松監督の巨魂への追悼の意を込めつつ、その人と成りへの静かな対話の時間にできたらと思っています。


今回は、全7頁分の打ち込みになります。お時間の許す限り、人間・若松孝二にお付きあい下されば幸いです。

              筆者





若松孝二監督作品『キャタピラー』のパンフレットより転載致します。





●若松孝二(わかまつ こうじ)


◎1936年(昭和11年)、宮城県生まれ。


高校時代、停学処分を3回受け、54年(昭和29年)に退学。家出して上京し、お菓子屋の小僧や日雇い労働などの職を転々とし、ヤクザの世界へ。


この極道時代に新宿で映画の撮影現場の用心棒をしたことがきっかけで、半年間の拘置所暮らしの後、足を洗って映像の世界へ。


63年(昭和38年)、『甘い罠』で監督デビュー。65年(同40年)に若松プロを設立し、『壁の中の秘事』がベルリン国際映画祭に出品され、国辱映画として騒がれる。


71年(同46年)、パレスチナゲリラの闘争を描いた『赤軍─PFLP 世界戦争宣言』を発表。

『胎児が密猟するとき』『天使の恍惚』『水のないプール』『17歳の風景』などの話題作を次々に世に送り出す。

『戒厳令の夜』『愛のコリーダ』などプロデュース作品も多数。

前作の『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』は、ベルリン国際映画祭のフォーラム部門で2冠を受賞した。






『正義の戦争なんて、どこにあるんですか?』

      若松孝二 インタビュー





● ─「キャタピラー」の構想はいつ、頭の中に生まれたのでしょうか。



(若松) 実は「連合赤軍」を撮ってる最中から、漠然と考えていました。連合赤軍の若者たちの映画を撮りながら、この子らが出てきた背景には、親世代が犯した過ち、あの戦争があったのだろう、と感じていた。懲りずに再び戦争への道を進みつつあるという時代背景があったからこそ、60年代、学生たちは立ち上がった。

よし、次はこの親の時代を撮ろう、と
、寒風吹きすさぶロケの最中に考えていたんですよ。(笑)。


 四肢を失った傷痍軍人という設定は、『ジョニーは戦場へ行った』という映画や、江戸川乱歩の『芋虫』などの作品から感じ取ったイメージの影響が頭の中にありました。

そこに、僕の子ども時代、実体験としての戦争の空気というものを加えていった。



● ─監督は宮城県遠田郡涌谷町の生まれですが、そこでの戦争の空気というと?



(若松) 毎日のように、戦地に兵隊が送られていった。戦時中、子どもだった僕は、しょっちゅう日の丸を振って、列車に乗せられた兵隊を見送りましたよ。

大人たちはずっと『勝ってる』『勝ってる』って言い続けていたし、毎日、僕らは天皇の写真に向かって頭を下げさせられていた。

時折、戦死者の遺骨が箱に入れられて届けられたりね。そんな光景を覚えています。


 陸軍の師団が置かれていた仙台は、1945年(昭和20年)7月に米軍の大空襲を受けています。仙台市内がメチャクチャに爆撃された。

あのときは、空が真っ赤になっていました。涌谷の町からも、仙台上空から次々に投下される焼夷弾が見えました。それはまるで、線香花火のようだったんです。状況がよく理解できていない子どもの目には、その光景は美しく見えました。

仙台は壊滅的にやられた。それでもまだ、日本は『勝ってる』『勝ってる』と言い続けていました。仙台空襲でも、『帝国陸軍が敵機を何機撃ち落とした』とか、嘘の宣伝を続けていたのです。


 そして何よりも、とにかく毎日ひもじかったですよ。食べ物は国に供出しなくちゃならないから、僕ら庶民には、ろくな食べ物がなかった。毎日、芋ばっかり食べていましたよ。サツマイモのツルとかね。


 だから、当時、軍隊に志願した人の中には『お国のため』ということよりも、腹一杯ご飯が食べられると思って志願した人もいるんです。それほど、国家や軍隊に食糧が集中されていたわけですね。



● 一兵士である久蔵(大西信満)を通して、監督は何を描きたかったのでしょう。



(若松) 戦地で四肢を失い、軍神だとおだてられ、勲章をぶら下げて帰って来た久蔵。

国家から勲章をもらって喜んでいる人を見ると、僕は、なんていうのかな、無性に腹が立つんだよね。国家からの勲章なんて、もらうものじゃないよ。ちゃんと自分の考えをもっている人は、そんなものは断っていますよね。

僕だって、まあ、国家は僕に勲章なんかくれないだろうけれど、くれるって言っても断りますよ、賞金はもらうけれどね(笑)。


 とにかく、僕は勲章は嫌いなのです。でも、そうした勲章にすがるしかなくなった久蔵、そんな中で、過去の自分の罪のフラッシュバックに苦しめられる久蔵、彼もまた、被害者ですよ。

1銭5厘のハガキで召集をかけられて、駒として戦地に送り込まれた。彼の命なんて、国家にとっては、1銭5厘の重さしかなかったんです。


 そして、あの苦しみから逃れるためには、久蔵には「死」しかなかった。生きていることの方が苦しい。それは、苦しいですよ、生きるっていう事は。意識があるということは、苦しいものです。


 大阪で子どもたちをたくさん殺してあっというまに死刑になった宅間元死刑囚(※)のことを、ふと思い出しました。




※ 2001年6月8日、大阪教育大学教育学部附属池田小学校で、児童や教員23名が、出刃包丁を持って校内に侵入した宅間守元死刑囚に殺傷された事件。

児童8名が殺害され、児童13名と教員2名が傷害を負わされた。

2003年8月28日、大阪地裁で死刑判決が言い渡された。翌9月10日、弁護士が控訴したが、同月26日に本人が控訴を取り下げ、死刑が確定した。

本人は早期の死刑執行を主張していた。死刑確定からおよそ1年後の2004年9月、異例のスピードで死刑が執行された。享年40。





彼は、早く死刑にしてくれ、と繰り返し訴えていましたよね。あんなにたくさんの小さな子を殺した。それは、もう、苦しくて生きてはいられなかっただろうと思います。

久蔵もそうです。あの苦しさから逃れるには、死ぬしかなかったのでしょう。



● 一方のシゲ子(寺島しのぶ)については、どうでしょうか。



(若松) 僕は、映画を撮るときはいつも、その中の登場人物の誰かになりかわって、僕がこの人だったらどう感じるかな…と考えながら撮ります。

「実録・連合赤軍」では、一番年下の少年兵でしたし、今回は、それがシゲ子でした。僕が彼女だったら、何を考え、何を感じ、どう動くだろう…と考えながら、この作品を作りました。


 かつて、自分を殴った夫に対する憎しみ、手足を失っても求めてくる夫に対する嫌悪感、世間に対する見栄、死んで欲しいとさえ思っていたはずの夫に対して沸いてきた不思議な情。

彼女の胸の中にはいろんな思いが渦巻いていただろう、と。


 そして何よりも、シゲ子の中に、僕は多分、強い母性を見出していたのだと思います。

シゲ子が、卵を久蔵の口に無理矢理押しつけるシーンがありますね。その後、シゲ子はハッとして、久蔵を抱きしめる。あれが女性だと思う。

男であれば、あの激情のままに相手を殺してしまうのではないでしょうか。

我に返って、その存在を胸に抱きしめるのが、母性だろうと感じています。そういう意味では、僕はマザコンなんですね、いつも言われていることですが(笑)。



 僕のオヤジは、酒を飲んでは暴れて、よくお袋を殴りつけていた。僕は、なんでお袋はこんなオヤジと別れないのかと思っていましたよ。

お袋は、お前たち(子ども)のために我慢しているんだと言っていましたが。

僕は、オヤジをぶち殺してやろうと、マサカリを持って追いかけ回したことがあります。それほど、オヤジのお袋に対する暴力はひどかった。


 当時の国家、社会における女性の扱いは、そんなものだったのだろうと思うのです。男の性欲のはけ口、飯炊き女、跡継ぎを産む道具。ひどく抑圧されていた存在です。


 シゲ子が敗戦を知ったとき、「バンザーイ、バンザーイ」とやって来たクマ(篠原勝之)に向かって、笑顔を見せるでしょう。シゲ子にとっての敗戦は、そうした抑圧からの、小さな解放だったのだと思います。



● ─クマさんの存在は? もともとは、台本にもなかったそうですが。



(若松) 台本には出てきませんよ、ただの一行も。

クマの文章(P58)にもありますが、クランクインの直前、彼と新宿で飲んでいるときに、ふと思いついたんです。


 戦時中、僕の地元にもいたんですよ。いつも赤い襦袢(じゅばん)を着て、おかしな言動をしている人が。

なんだか良くわからないけれど、子ども心に、なんか変な人だと思っていた。大人たちなんて、平気で「あいつは頭がおかしいから、近づくな」なんて言ってね。

でも、終戦後、その人は普通の服着て野良仕事をしていたんですよ。


 後になって考えると、彼は本当の意味で戦争に反対していた人だったんじゃないか、と。人を殺すのも殺されるのもイヤだから、バカなふりをして徴兵逃れをしていたんじゃないか。

自分でイヤなものはイヤだと言う、流れに逆らう、それができる人こそ、一番勇気のある人じゃないですか。


 僕はね、社会の中でうまく立ち回っている人間には、ちっとも興味を感じないんです。如才なくうまく動いている人間は、ちっとも面白くない。


 表現する人間は、大きいものの中でうまくやっていこうとしたら、だめですよ。その人であることの価値がなくなっちゃうと思います。


 僕は赤塚(不二夫)さんなどのように、こんな風に生きていきたいな、というお手本のような人との出会いに恵まれました。

僕なんて、当時は、マニアックな人たちにしか知られていない存在だったけれど、赤塚さんは、すでに超有名人でしたからね。

でも、そんなことちっとも気にしないで、僕と一緒に、ホームレスのところに一升瓶を持って行って酒を飲むんです。

それで、意気投合すると、自分の家に連れて帰ってお風呂に入れてご飯食べさせたりね。そういう人だった。

人間はこういう風に生きられるんだな
、ということを教えてもらった。


そのほかにも(佐々木)守さんとかね、僕の周りにいい人間がたくさんいたのです。守さんも、本当に温かい人でしたよ。

守さんは、脚本家としてせっせと働いては、パレスチナのために頑張っている連中にカンパしていた。


 一方で、今回の作品がベルリン映画祭で「銀熊賞」を取ったら、これまで、僕なんか相手にしなかったような人たちが、「ギンクマ」の権威にすり寄ってくるんですよ。

僕には、そういう人間のイヤらしさがよく見えます。そういう人たちは、すぐに僕から去っていくんですけれどね、不思議なことに。



● ─海外の映画祭では、映画から、反戦のみならず、監督の天皇制への批判的なまなざしを読み取った人たちもかなりいたようですが?



(若松) 僕自身は別に、天皇が悪いとか何だとか言っているつもりはありません。

でも、幼少期、無理矢理、わけもわからず日々頭を下げさせられた、そういった原体験として自分の中にあります。


 さらに、やっぱり、みんな「天皇の赤子」として、戦争に駆り出された。一億総玉砕、国体護持…と、洗脳されていったんです。


 20世紀は大きな戦争がいくつもありました。たくさんの人が殺されました。数千万人という人間が、人間によって殺されたのです。

でも、そんな経験をしてもまだ、世界から戦争はなくならない。

核兵器も、その他の兵器もなくならない。国による殺人が続いています。

それどころか、日本では、憲法9条を変えて、軍隊を持って戦争ができる国にしようという声も大きくなってきている。


 チャップリンの映画に『一人殺せば殺人者、100万人殺せば英雄』(『殺人狂時代』)という台詞がありますよね。それが戦争です。戦争をするための道具が軍隊です。

それが、なぜ、今の日本に必要なんですか?

「北朝鮮」が脅威だ? アメリカに守ってもらわなければ、自国の平和が保てない? バカを言うな、と思いますよ。


 日本に、何か資源がありますか? わざわざ、外国が、軍隊出して、兵器を使って日本を乗っ取って、何か良いことがある?

まさか、乗っ取って、日本人を皆殺しするわけにもいかないんだから、1億人の国民を食わせるだけでも大変でしょう。

日本の資源なんて、せいぜいが、頭脳や技術です。これだって、イヤだったら頭を使わなきゃいいんだから、天然資源みたいに無理矢理強奪するわけにもいかない。

そんな国を、わざわざ軍隊を出動して外国が占領するなんて、そんな荒唐無稽な話しはないですよ。


 もちろん、アメリカがどこかと戦争して、そのために日本の米軍基地が攻撃の対象になることはあり得るでしょう。

米軍基地があるために、日本が逆に危険にさらされるんです。アメリカ軍によって日本が外国の脅威から守られているなんていうのは、ごまかしでしかないと思いますよ。


 もしも基地によって安全が守られていると主張するのなら、普天間(基地)の移転先を東京湾に作ればいいじゃないですか。国会もあるし皇居もある。そういう国の中枢の近くに、安全を守ってくれる基地を作ればいいでしょう。


 でも、そうはしない。基地によって安全が守られるなんて、建前でしかなきことを、国もわかっているから。

単に、武器商人が儲けるため、つまり経済のために武器が売られ、戦争が起こされているということがわかっているからです。

そして、沖縄は、基地の島にされて、捨て石にされているんじゃないですか。かつての戦争の時と同じですよ。沖縄戦なんて、本土を守るための捨て石だったじゃないですか。それで、多くの犠牲を出したのです。


 特攻隊をお国のために死ぬ英雄のように描いたり、巨大な戦艦大和をかっこよく描いたりと、戦争を描く映画もいろいろあるけれど、僕は、そうした権力に都合のよい側を描くことだけはしたくないんです。


 戦争なんて、何かスケールの大きなかっこいいものではありません。


 当たり前ですが、人が人を殺すのです。個人的に憎み合っているわけでもない、名前も何も知らない相手を、上からの命令によって、武器を使って殺すんです。兵器というのは、人を殺す道具なのです。


 本当に当たり前のそのことが、今や、何かリアルに感じられなくなっている。まるで、外交戦略として、やむを得ない、というような感覚で、武力行使が語られています。



● ─監督は、権力に対する武装闘争を肯定していたのでは?



(若松) 自衛のためのテロというのかな、例えば、シャティーラキャンプの大虐殺で、目の前のお母さんをレイプされ殺された。その子どもはきっと、大きくなっても強い恨みを抱き続けるでしょう。

その子が、自爆攻撃をする、そういう思いは、僕は、理解できてしまうんです。


 僕も、身近な大切な人間を殺られたら、それは、相手を殺りに行きますよ。国家によって死刑にして欲しいなんて、思わない。僕が殺ってやる、と思う。

そういう闘争ではなくて、国家が「お国のために死んでこい」という戦争、この事だけは、絶対にダメだ、二度と戦争に加担してはダメだ、と、そのことだけは、どうしても言い続けないわけにはいかない。


 僕は、1982年(昭和57年)、パレスチナ難民キャンプ、シャティーラキャンプの大虐殺の直後に現地入りをしたんです。

キャンプの中は死体の山ですよ。しかも、女性や子どもばかり。子どもは将来フェダイーン(戦士)になるから、そして女性は、フェダイーンとなる子どもを産むからという理由でイスラエル軍によって殺された。一番弱い存在が、攻撃を受けたのです。


 戦争とはそういう事です。


 日本は、アジアを欧米支配から解放するのだといって、戦争を始めた。


 大国によって分断され、泥沼の朝鮮戦争が始まった。


 アメリカは、ベトナムの解放だといって北ベトナムを爆撃した。


 大量破壊兵器を捨てさせるべく、イラク戦争が始まった。


 いろいろな国の大義名分が付けられますが、でも、正義の戦争なんて、どこにあるんですか。

繰り返しになりますが、戦争は、殺すか殺されるかなのです。人間が人間を殺すんですよ。


 この映画では、戦争とは何なのか、戦争によって人間が破壊されていくとはどういうことなのかを、正面から描きたかったのです。それも、派手な戦闘シーンなどではなく、人間を通して描きたかった。


 戦争を知らない世代の人でも、シゲ子の状況は、なんとなく理解できるでしょう? 

抑圧され続けてきた彼女の思い、彼女を取り巻く空気の重たさ、そういうものは、なんとなくリアルに感じ取ることができるのではないかと思っています。


 これが戦争なんだ、ということを、戦争を直接知らない若い人たちにも理解して欲しい。

どうか、あの悲惨な戦争のことを忘れないで欲しい。

そして、国家による殺し合いに、加担する側にはいかないで欲しい、そういう思いを込めたのが、この作品なのです。



● ─最後に、次の作品の構想について教えてください。



(若松) それはいろいろありますよ(笑)。僕は、人間が好きだから、人間を描くのが好きだから。


 そして今は、日本の戦後の転換期ともいえる1960年代、あの時代に、純粋に生きていた人たちのことが、非常に気になっている。

連合赤軍の裏側ともいうべき存在ですね。まあ、楽しみにしていてください。
           (若松孝二)




●2010年8月10日 初版発行

若松孝二 『キャタピラー』
     パンフレットより転記 ✓




若松孝二監督作品『キャタピラー』のパンフレットより転載致します。





若松映画の現在形としての『キャタピラー』

       映画研究  平沢 剛




▼『キャタピラー』(2010)は、第二次世界大戦中に、中国から四肢を失って帰還し、生ける軍神として祭り上げられていく兵士と献身的に介護をする妻の姿を通じて、戦争とは何かという問題を描いている。


『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』(08)において、戦後の運動史、新左翼史の総括を試みた若松孝二が、最新作として戦争の歴史に取り組んだことに、驚きの声も上がっているが、『キャタピラー』から若松映画を改めて振り返ったとき、これまでの様々な作品において、戦争という主題が重要な位置をしめてきたことを見ることができよう。



 まず最初に挙げられるべきなのが、『裸の影/恐るべき遺産』(1964)(昭和34年)である。


原爆の後遺症に悩み自殺していく少女の物語として、広島ロケが行われ、初期における社会的作品の一本として撮られている。


しかし、バレー部の合宿シーンにおいて、後遺症によってみんなと入浴できない主人公を描くため、30人の少女を裸にしたことが児童福祉法違反の疑いありと非難され、作品そのものの評価とは関わりのないところで大きなスキャンダルを巻き起こしている。


次にベルリン国際映画祭への出品によって、国辱映画と呼ばれ、既存の大手映画業界からバッシングを受けた『壁の中の秘事』(1965)では、主人公が原爆被害にあった男と出会い、社会主義革命を目指し、生涯を共にするため避妊手術まで行う。


しかし、高度経済成長下において、ベトナム戦争を株取引の材料に使うようになった男の退廃した姿に、理想も燃え尽きていく様を描いている。



 天皇家をアレゴリーとする呪われた親子四代の血の物語『日本暴行暗黒史 異常者の血』(1967)から始まるシリーズでは、『暴虐魔』(67)で小平義雄、『復讐鬼』(68)で津山三十人殺しに材を得るなどして、戦時中の軍国主義やそれによって引き起こされる諸問題を一貫して描いている。


『性輪廻/死にたい女』(1971)では、心中で死にきれなかった二組の男女を主人公に、右翼クーデタを呼びかけて自死した三島由紀夫への批判的応答がなされる。


『性家族』(71)では、戦後史、昭和という時代を終焉させようとした大島渚の『儀式』(71)へ呼応し、性を通じた封建主義的家族制度の解体が目指されている。



 また、1968~69年の政治の季節における『テロルの季節』(69)、『狂走情死考』(69)、『セックスジャック』(70)、『天使の恍惚』(72)などでは、ベトナム反戦運動、日米安保闘争が描かれている。


プロデュース作品として、ベトナム戦争の取材から戻って来たキャメラマンを描いた大和屋竺『裏切りの季節』(66)、高校生の山岳ゲリラ訓練と脱走した自衛隊を描いた足立正生『女学生ゲリラ』(69)、1936年(昭和11年)の阿部定事件を描いた大島渚『愛のコリーダ』(74)なども挙げておくべきだろう。



 そして、暗黒史シリーズを引きついだ『拷問百年史』(75)、『女刑御禁制百年』(77)、『聖少女拷問』(1980)(昭和55年)では、侵略戦争へと突き進んでいく帝国主義の暗部が、抑圧された女性の主人公を媒介に描かれている。


『餌食』(79)では、戦時中の上官への復讐を果たすべく古い拳銃を磨き続ける老人が登場する。



 このように、60年代から始まる若松映画は戦争という問題系を描いてきているのだが、よって『キャタピラー』は連続性のなかにある作品の一本だと言えよう。


しかし一方で、これまでの作品が戦後民主主義の欺瞞を徹底的に批判し、あるいは性によって大文字の政治や歴史を反転させようとしていたのと異なり、戦争という歴史、反戦という主題を真正面から捉え、これまでより踏み込んだアプローチが取られていることも事実である。


それを若松映画の変化と見ることも出来るだろうが、他方で、封建主義的家族制度のなかで、虐げられてきた男と女の従属関係、主従関係が反転していく様は、『胎児が密猟する時』(66)から、『完全なる飼育 赤い殺意』(2004)に至るまであまりに知られた構図である。


若松映画において侵略戦争の加害者である夫が、帰国して、肉体という監獄に閉じ込められながら神として祭られ、戦時中における自らの暴力のトラウマに苛まれ、被害者になっていく様は、あるいはその妻が、貞淑な軍神の妻という神話化を転用させ、自らの解放へと繋げていく様は、二元論的に一方を擁護、批判するのではなく、加害と被害の複雑な関係性を描いてきたこれまでの系譜に、同じく位置づけることができよう。



 よって、『キャタピラー』という作品は、17歳の少年が自転車で全国を横断し、批評家の針生一郎や元従軍慰安婦で在日朝鮮人の老婆など様々な人々に出会うことで、戦後60年を問おうとした『17歳の風景』(2004)を更に発展させ、戦争の歴史、日本の戦後史の総括を目指すとともに、これまでの問題系をも織り交ぜたまぎれもない若松映画の現在形なのだと言えよう。
           (平沢 剛)




●2010年8月10日 初版発行

若松孝二 「キャタピラー」
     パンフレットより転記 ✓




若松孝二監督作品「キャタピラー」のパンフレットより転載致します。





●寺脇研(てらわき けん)

 1952年(昭和27年)生まれ。
映画評論家。ジャパン・フィルムコミッション理事長。

ブログに『寺脇研の人生タノシミスト!』





▼前作『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』(2008)で1950年代から70年代へかけての政治運動史をていねいに辿った若松孝二監督が、今度は1930年代から40年代の戦争時代史を綴ってみせた。

 前作が連合赤軍の若者たちを通して歴史の決着をつけたように、今度は農村に暮らす夫婦の愛情を描く中で歴史のうねりを示す。

 中国戦線で重傷を負い人間としての機能をほとんど失った夫と、健康で常識的な妻。それが「軍神」と「軍神の妻」に祭り上げられるプロセス自体、戦争に駆り立てられた時代を象徴する。

 1937年の日中開戦から45年の終戦まで、日本中が戦争の狂気をたぎらせた時期が片田舎の農家を舞台に男女の肉体スペクタクルとして表現されるのである。

 戦争の狂気を鮮烈に表してみごと。


 そしてその狂気は、現在もある。イラク、アフガニスタン、パレスチナ、チェチェン……、あるいは戦地へ派遣される兵士を送り出すアメリカに、ロシアに。「聖戦」に赴く出征兵士を見送り「軍神」を讃える村人たちの画一的な思考停止状態を笑うなかれ。アメリカに追随する今の日本の思考停止状態とどう違う?

 この映画は、すぐれた反戦映画である。戦場も戦闘も出さずに、静かな農村の生活だけで戦争の愚かさをえぐり出してみせたのだ。
            (寺脇研)




●2010年8月10日 初版発行

若松孝二 「キャタピラー」
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