戦争映画…いや戦争記録…
戦争の愚かさを学べる…必見!

1974年制作/作品時間112分
インドシナ戦争後の南北分断に端を発する戦争勃発の原因、アメリカの政治家や官僚たちのエゴイスティックな大義と、千年以上に渡って他国の侵略を受けてきたベトナム人たちの怒り、最前線から帰還した兵士たちの生々しい証言、村を焼かれ、子供を殺されたベトナムの人々の叫び…。なぜ、アメリカはベトナムと戦うことになったのか? そして、彼らはそこで何をしたのか? そこでの行為はどんな結果を生み、どんな影響を及ぼしたのか? 映画はアメリカ、ベトナム、大統領から庶民まで、賛成派、反対派、戦争を体験したあらゆる層の人々の証言を積み重ね、無意味な戦争の真実を浮かび上がらせていく。
 

監督:ピーター・デイヴィス   
撮影:リチャード・ピアース  
録音:トム・コーエン  
編集:リンジー・クリングマン、スーザン・マーティン  
製作:バート・シュナイダー、ピーター・デイヴィス  
  この作品は、アメリカの戦争責任を真っ向から問うものとして世界に衝撃を与えました。本作は1974年のカンヌ国際映画祭批評家週間でワールドプレミアが行われ大絶賛されたものの、政治的報復を恐れた配給会社が降りてしまいます。そして、ようやくワーナー・ブラザースによる配給が決まり、12月20日にロサンゼルス、ウエストウッドのUAシネマで特別上映。しかし、その後、ジョンソン元大統領の政策補佐官ウォルト・ロストウが自分の出演シーンの削除と、上映差し止め要求を裁判所に提出するなど、上映を妨害する行為が相次ぎました。製作サイドは再編集を拒否して裁判が行われ、翌年1月22日に最高裁が一般公開を認め、1月30日に一般公開が開始されました。1975年4月5日、アカデミー賞授賞式では、プロデューサーのバート・シュナイダーが受賞のあいさつでベトナム戦争とアメリカの良心について語り始めた時、司会を務めていたハリウッド最右翼のタカ派フランク・シナトラが「アカデミー賞に政治を持ち込むな」と抗議しますが、それに対してシャーリー・マクレーンが「映画は真実を見つめて平和に貢献しなければならない」と反論し、満場の喝采を浴びました。

(受賞歴)
第47 回(1974年)アカデミー賞 最優秀長編ドキュメンタリー映画賞受賞作品  

これを観てベトナム戦争の真を知るべし!

戦争の悲惨さ、人の醜さを撮す…
酷いなんてもんじゃない…
有名なショット…
爆撃…ナパーム…一般人が被害に…
子供が犠牲に…
ナパームに焼かれ…これも有名なショット
上の真ん中の少女…今は立派に…
前にテレビでこんな目に遭わされても
「もう許します」と語っていた…
心の広さ清さに感動した!

ファン・ティー・キムフックベトナム語Phan Thị Kim Phúc、音訳漢字潘氏金福1963年4月2日 - )は、ベトナムカナダ人。1972年ベトナム戦争の際にフィン・コン・ウトが撮影したピューリッツァー賞獲得の写真に写ったことで知られる。

国際的な反戦運動家で、キム財団を創設し、カナダヨーク大学名誉法学博士ユネスコ親善大使を務めている。 財団の名前がキム財団 (Kim Foundation) であることなどから、キム・フックキムさんと呼称されることも多いが、はファン(Phan、潘)。キムフック(Kim Phúc、金福)はである。

ベトナム戦争期編集

キムフックはベトナム戦争当時、タイニン省(西寧省)チャンバンで暮らしていた。

1972年6月8日、チャンバンにおいて南ベトナム軍と北ベトナム軍が交戦、南ベトナム軍の空軍機がナパーム弾を投下し、キムフックが暮らすチャンバンは空襲を受けた。この時、逃げ惑う村人らとともに裸で逃げる9歳(当時)の少女だったキムフックを撮影した写真AP通信のベトナム人カメラマンフィン・コン・ウト撮影)は「戦争の恐怖」(The Terror of War)と題され、全世界に配信された。この写真は翌1973年ピューリッツァー賞 ニュース速報写真部門を獲得している。

キムフックはこの空襲で重度の火傷を負い、一命は取りとめたものの、この後17回にも及ぶ手術を受けている。なお、このとき彼女を救ったのは当時イギリスITNテレビ記者のクリストファー・ウェイン(Christopher Wain)である。彼は南ベトナム政府の高官に直談判して、キムフックを設備の整っていない病院から、当時の旧サイゴン市内のバスキー病院に転院させることに尽力した。ウェインとキムフックは38年後の2010年に、イギリスで再会を果たした[1]

現在に至るまで編集

1992年結婚、現在では2児の母となった。ベトナム人の夫とともにカナダで暮らしている。

1996年、ベトナム戦争中に負った重度の火傷を治療する手術を施してくれた外科医との再会を果たす。

1997年にはカナダ国籍を取得。1997年11月10日ユネスコ親善大使に任じられる。

1999年、自伝を出版する。[2]

2004年10月22日、世界各地の戦争紛争に遭遇している子供たちを救済する活動が認められ、カナダ・トロントヨーク大学から名誉法学博士号を授与される。


彼女…十数回も手術し見事に生還

でも…まだ全身に火傷の跡が…

こういう人の語りは心に響く…