昭和48年2月17日
時間は0時3分が夫が28歳で亡くなった、「死亡診断書」の時間です
正確だと2月16日23時50分の事故で、即死の状態だったかが今の三越の南側辺りにあった、仙台市立病院に運ばれて検視された時間です
あと10日で1歳の誕生日を迎える娘をおんぶして、従兄妹の車で叔母さんと3人で市立病院へ
廊下を歩く私たち3人の足音だけが、今でも忘れられない
連絡を貰った時は既に「亡くなった」って連絡でしたから、相手がいなければと意外と冷静取り乱すことはなかった
昔の南警察署の前に夫の車が移動されていて、従姉弟がまともにぶつかったんだぁって言っていた(市電の安全地帯に居眠りで)
病院に着いたら会社の庶務課長さんが来られていて、夫と対面も「寝ている」感じだった
顔に傷がちょっとあり頭には包帯が巻かれていた
流石に庶務課長さんは着替えの浴衣を持って来てくださっていて、着替える時お腹から胸は真っ赤でした
頭骸骨骨折(48針縫ったと)と頸椎骨折、内臓破裂だったが顔がきれいで(シートベルトがあったら死なずに済んだかも)・・
母達は叔父さんの車で夫の母親を迎えに行った(4月で3歳の息子も)
直ぐに霊柩車を用意して貰ったから、母や義母とは途中ですれ違ったようだが市立病院へ行って、戻ったらしかった
涙もろい私が全く涙を流さなかった
亡くなったとの連絡だったから「私がしっかりしなければ」って、思いだったのだろう
それから告別式が終わるまで前日からだから、4日4晩一睡もしなかったが若かったんだね
まだ靴が履けずお墓参り行って無いですが、今日はマイタケご飯を炊いて煮物も作りおくずかけも作った
今こうしていると涙が出ますが人前で泣くことも、殆どなかった
子育ては父親代わりで厳しく、息子など「往復ビンタ」何度も貰ったと(今なら虐待か)・・
中学になったら急に身長が伸びて手が届かなくなり、「食べさせているんだから親の言うこと聞いてもらわなくちゃ」って言っていた
両親も面倒を見てくれて横道にそれることなく、高校は交通遺児育英会の奨学金を借りて卒業(2人とも)
4月で息子は51歳・・26日で娘は49歳になります(同じ日に女孫が12歳)
あと1年何とか頑張って来年は、「50回忌法要」をやりたいと思う
その後は認知症などならないと良いが・・
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