第2894回 備前国日笠御庄住人進士行秀の作刀地を見学する。【岡山県和気町日笠】 | 模型公園のブログ

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第2894回 備前国日笠御庄住人 進士行秀の作刀地を見学する。

 

       【岡山県和気郡和気町日笠】三毛猫犬?

 

 

        2023年11月13日月曜日の投稿です。

 

 

 

 

 

三毛猫?

 

  今日のお話は遠い昔の平安時代から鎌倉時代まで

 

 続いていたという備前国日笠庄【ひがさのしょう】の

 

 刀工の屋敷跡を見学しに出向いたお話です。

 

 有名な、和気 清磨の政庁があったとされる藤野村

 

から北に、日笠川と言う川が流れていて、金剛川に

 

合流して、吉井川に注いでいます。

 

 

 

 

 

 

 

有名な和気神社【わけじんじゃ】の前を川に沿って北に

 

山中に入って数キロ行くと、その場所はあります。

 

 

 

 

 

 

 谷の中央に日笠川が流れて、左右に水田があり、

 

 そんな場所で、昔は、

 

 備前国日笠庄【びぜんこく  ひがさのしょう】

 

 と呼ばれていたそうです。

 

 

 

 

三毛猫上差し

 

上の写真の正面のこんもりした丘が、室町時代の

 

砦の跡で、鹿帰前丸山城跡 と言う城跡です。

 

いろんな説があるのですが、一説には、延原氏

 

と言う室町時代の国人の砦であったとされていたり、

 

日笠氏の砦であったとか、そんな説がありますが

 

はっきりしていないそうです。

 

 

 

 

ここのお城の西側に、延原家の墓石があります。

 

延原家は、室町時代の戦国大名の浦上宗景の筆頭

 

家老だったと言い伝えがあり、当時の当主は、

 

〇延原 景能 と書いて、「のぶはら かげよし。」

 

と言う武士が統治していたそうです。

 

 

 

 

 さらに北に進むと、日笠と言う地区に到達します。

 

 

 

 

上の写真の正面の山が、日笠庄 青山城と呼ばれる

 

山城の跡です。

 

 

 

 

 

日笠氏と呼ばれる武将のお城だったとされています。

 

以前紹介したように、昔の人々の集落の中心には

 

必ず、井戸があって、飲み水の周囲に人家が出来て

 

集落が出来ていました。

 

現在でも、「井戸端会議。」とか、言葉がありますが

 

その井戸を捜しました。

 

 

 

 

 

 

和気町の昭和の古い文章で、

 

 

「日笠 青山城の南側の集落に鍛冶井戸と

 

呼ばれる井戸があって、ここの井戸の近く

 

に刀工が昔住んでいたと言う言い伝えが

 

ある。」

 

 

と、あります。

 

それでそれを捜すことにしたのですが、三毛猫アセアセ

 

 

 

 

お城の南と言うと、今現在の日笠の集落の中と推測され

 

ますが、ここが、この井戸がそれですと証明することが

 

出来ませんでした。

 

それらしいところはありましたが、証拠不足でした。

 

ただし、現在の山の南側の日笠の郵便局の東方向の

 

集落の周辺の川沿いに刀工の屋敷があったのは

 

事実のようです。

 

 

 

【 日笠青山城の南東よりの風景を撮影する。】

 

 

 

 

作品を研究して見ると、古備前の2字在銘の平安時代の

 

古い所からこの地には刀工が住んでいて、平安時代の

 

中期の頃の刀工で 行秀【ゆきひで】と銘を切る刀工が

 

住んでいたそうです。

 

 

三毛猫ルンルン 平安時代の中期頃、

 

 

〇 天喜元年【1053年】 行 秀 【初代】

 

 

       同じ名前が数代連綿として続く。

 

 

〇 元暦元年【1184年】 行 秀 【後代】

 

 

 

 

134年程度続いて行秀と言う2字銘で名跡が続いていて、

 

複数の代が同じ名前で連綿として続いていたそうです。

 

平安時代から時代は鎌倉時代に入ると、

 

 

〇文応二年【1261年】 備州住 行真【ゆきざね】

 

と言う作品が残されています。

 

 

 

蒙古の襲来があった時代の弘安の頃、

 

 

〇弘安十年【1287年】日笠庄 行真【ゆきざね】

 

 

と言う作品が残っています。

 

前記と後記の作品の間が、26年の空白があります。

 

同人であったのか、初代と同銘の2代目だったのかは

 

今現在わかっていません。

 

 

 

 

 

〇正安三年【1301年】 備前国日笠御荘住人進士行秀

 

 

と言う書き下し銘で薙刀の作品が残されています。

 

鎌倉時代の後期まで、この地の日笠庄で作刀が行われて

 

いたことがわかっています。

 

ところで、この薙刀のなかごの銘にある、

 

「進士。」と言う文字ですが、苗字なのか、

 

屋号なのかと調べてみると、どうも朝廷から

 

授けられた身分のようでした。

 

朝廷には、いろんな身分がありますが、

 

「進士。」  

 

と呼ばれる身分が昔はあったそうです。

 

 

 

 

どうして平安時代の中期に、行秀 と名乗る刀工が、

 

この日笠庄にやって来て、住みだしたのか、

 

そして、子孫が連綿と続き、鎌倉時代の

 

後半まで続いて途絶えたのかと言う出来事を

 

調べていますが、今現在、世間が納得する

 

証拠はありません。

 

 

 

 

 

作品に、行〇 と銘を切って、代々 「行。」

 

と言う漢字を用いて、由緒のある刀工の集団ですが、

 

備前国の祐定や、清光などの大きな鍛冶集団とは

 

違って、作品の数から、親子数人の小さな鍛冶の

 

家だったように思われます。

 

 

 

 

仏教の教えのように、谷川に沿って歩いていますが、

 

遠いい平安時代の中期から、鎌倉時代の後半の頃の

 

昔の出来事の調査で、手掛かりが少なく、難航して

 

います。

 

何か情報があったら、投稿でご指導いただきますと

 

助かります。

 

 

 

 

 

   三毛猫 じゃあ みんな また 明日ね。ハートラブラブ

 

 

【次回に続く。】