明治17年(1884年)、ワシントンでの万国子午線会議で世界の標準時の取り決めが行われました。日本ではこの決定に基づいて東経135度の子午線上の時刻を日本標準時として使用することになりました。この標柱は、明石郡小学校の先生方が給料を割いて建設したものです。その隣の交番の名は大蔵交番ですが、天文科学館の形をして通称「子午線交番」と呼ばれています。

↓「大日本中央標準時子午線通過地識標」と書かれた標柱。左が子午線交番です。
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↓天文科学館の形をした大蔵交番ですが、子午線交番の名で知られています。
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↓交番にかかる金文字の「子午線交番」の標識です。
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