昨年の今日に引きつづき、今年も、バイト先で某地方国立大学の解答速報を作成した。
Uさんと云う、おそらく私の両親とほぼ同世代の女性がいて、よく座席が隣同士になることもあり、いつも、非常にお世話になっている。京大の、たしか美学科を出ており、教養が豊かで、感受性が鋭く、一作も読んだことはないが、見た目は江國香織みたような人である。
十八時を過ぎたころだったと思うが、突然、Uさんは何かを呟いて、顔を両手で覆うと、大きく肩を震わせはじめた。手には携帯が握られており、Uさんの体の震えように、私は最初、いつものように、何か飛んだ面白いことでもあったのだろうかと疑ったが、すぐに察した。Uさんは、「父が、死んだ」、そうひと言呟いて、泣いているのだった。
そのまま、Uさんは、廊下へ出た。号泣する声が、オフィスの内側まで漏れて聞こえた。言いようのない空気が漂った。
解答作成は、現古漢の三チームに分かれて行う。Uさんは、私を含めた、現代文を担当するチームのリーダーだった。解答は、大分纏まってきたところだったが、十九時の校了は刻々と迫っていた。
現代文を担当する残されたスタッフたちは、みな、二十代の学生だった。突然の暴風にマストをなぎ倒された船のような動揺が、私たちを襲った。
そうは云っても仕方がない。今いる船員たちで、やるべきことをやるしかない。作業を分担し、私たちはふたたび仕事に取りかかった。
しばらくして、Uさんが戻ってきた。国語科の主任のところへ行って、何やら小声で仰っていた。すぐに帰るのだろうと私は思った。
だが、そうではなかった。Uさんは、何事もなかったように云った、「途中で物事を投げだすなというのが父の訓えでした」。私は胸を打たれる思いがした。
Uさんは、芯のある、負けん気の強い女性だった。強情と云うのではなしに、強い責任感を持ち、仕事に対しては常に妥協をゆるさなかった。だから、私たち若いスタッフの前で、弱さを見せるなどと云うことは絶えてなかった。
そう云う人が、人目を憚らず泣くと云うのが、私には非常なことに思われた。こうした瞬間に感情を曝け出すこと、あるいは曝け出さずにはいられないこと、これは人間の弱さなどではない。強さ、それも、女性の真の強さだと私は思った。
仕事中は、忙殺されて、それ以上何を思うと云うこともなかった。それでも、その件はずっと頭にこびりついており、頭痛がしていた。
帰り道、音楽で気を紛らわせようと思って、はっとしてある曲を選んだ。山崎まさよしの「One more time, One more chance」。
「これ以上何を失えば心は許されるの
どれ程の痛みならばもういちど君に会える
One more time 季節よ うつろわないで
One more time ふざけあった 時間よ」
歌の冒頭の歌詞であるが、これは失恋ソングではない。この曲は、山崎まさよしが、亡くなった妻のために書いた歌である。
「いつでも捜しているよどっかに君の姿を
向かいのホーム路地裏の窓
こんなとこにいるはずもないのに
願いがもしも叶うなら今すぐ君のもとへ
できないことはもう何もない
すべてかけて抱きしめてみせるよ」
歌詞をすべて載せるわけにはいかないが、亡き妻への哀歌だと思うと、異様に胸に迫ってくるものがある。それを知ったときと知らなかったときとでは、私のこの歌に対する印象はかなり変わった。以来、いい加減に、この曲を聴き流せなくなった。
愛するものを失う哀しみ、これは人間の哀しみのなかでも、相当に大きな哀しみである。幸福なことに、私はまだそうした哀しみを身に感じたことはない。けれども、他人の哀しみであっても、我が身に引き受けようと努めることはできる。そこから生きることの経験を学ぶことができる。
Uさんは、今ごろ、ふるさとの京都に発っているのだろうか。そう云えば、帰京するときはいつも、自分で車を運転して帰るのだと仰っていたのを思いだす。
車だと、東京から京都まで、六時間はかかるのではないか。それとも、新幹線に乗るのだろうか。ぜひともそうあって欲しい。
平成二十六年二月二十五日(火)