モネ≪サン=ラザール駅≫ | 印象

「しばらくのあいだルボーは興味をひかれ、自分のル・アーヴル駅のことを思って、それと比較した。こんなふうにパリで一日を過ごしにやってきて、ヴィクトワールおばさんの家に泊まるたびに、ルボーはふたたび仕事に対する熱意を取りもどした。幹線のガラス屋根の下では、マントからの列車が到着して、プラットホームが活気づいたところだった。それから彼は、操車用の小さなタンク機関車と、その三連の低い車輪を眼で追った。それは車両の振り分けを始めており、あくせくと活発に働いて、引込み線の上で車両を引いたり、押し込んだりしていた。猛スピードで走る大きな二つの車輪を備えた、もう一台の強力な急行用機関車は、ぽつんと立ち止まって、煙突からまっすぐに、たいそうゆっくりと、黒い大きな煙をおだやかな空へ吐き出していた。しかし彼はカーン行き三時二十五分の列車にすっかり注意を奪われた。それはすでに旅行客でいっぱいで、機関車が着くのを待っていた。ヨーロッパ橋の向こう側で待機している機関車の姿は眼には見えない。だが機関車が待ちわびてじれたように軽くせわしげに鳴らす汽笛が耳に届いてくる。指令の叫び声が上がると、機関車は汽笛で短く了解したと応じる。それから動き出す前に一瞬の静寂があり、ドレンバルブが開かれ、耳を聾する噴出音とともに地面すれすれに蒸気が吐きだされる。この白い煙がもくもくと渦を巻いて湧きだし、橋からあふれ、綿毛のような雪となって鉄橋の骨組みを通り抜けて飛んでいくところが見えた。広い空間の片隅がそれで真っ白になると、もう一台の機関車からもうもうと出てきた煙が、今度は黒いベールを繰り広げる。その後方では、警笛の長く尾を曳く音、それから号令の叫びやターンテーブルの振動音がひしめき合うように聞こえる。すると突如空間が引き裂かれた。奥のほうで、ヴェルサイユ線の上り列車とオトゥーユ線の下り列車とがすれちがっていったのだった」(寺田光徳訳、エミール・ゾラ『獣人』第一章)

十八世紀半ばのイギリスに始まる産業革命の荒波が、どのように欧州諸国を呑みこみ、また世界的規模で波及していったのか、その渦中にあった当時の人びとの驚きを想像するには余りある。むろん、芸術家とて社会的渦動を制作の内側から排除することは不可能であり、機関車発祥の国イギリスのロマン派の雄ウィリアム・ターナーは、雨の煙る景色の奥底から唸り声をあげて疾駆する列車を、おそらくはいまだかつて人類の体験しなかっただろう異常な興奮をもって、それを画布の上に再現してみせたのだった。

 よく知られているように、世界初の旅客輸送がストックトン―ダーリントン間に開通するのは、一八二五年のことである。海峡ひとつ隔てたフランスにおいても、十数年のちの一八三七年、パリと郊外のサン=ジェルマン=アン=アレー間に、約十八キロにわたる西武鉄道路線が開通する。鉄道は、一八四三年になるとパリ―ルーアン間に飛躍的に延長され、さらに一八四七年には、ルーアンからル・アーヴルまで拡張、ここに、約二百五十キロに及ぶ一大鉄路が完成する。

 鉄道は、人や物の物的運搬以上に、はるかに人間生命にとって緊要な、ある抜き差しならない意義を人びとにもたらした。何か。云うまでもなく、時間意識である。

 考えてみれば、今日でも、夢から覚めたわれわれが一日の生命活動の始まりに気疎く感じるのは、通勤通学のための、何時何分の電車に乗らねばならないという意識だろう。もはやそれは、ほとんど無意識化された強迫観念となっている。そうしてあたふたと身支度をして、決まった時間の決まった電車の決まった車両に乗りこむと、大抵、いつも見る顔ぶれがそこにはひしめいており、そこから恋のひとつやふたつでも生まれてくれればいいものの、なかなかどうして現実はそう甘くはない。一駅止まるごとに、確実にそこには、精励恪勤の亡霊に憑かれた中年サラリーマンたちが隊伍を組んで待ち構えており、われわれは酸素欠乏症と圧死の恐怖に怖れおののきながら、目的の駅まで無事配送されることを日々願うのだ。

 冒頭に引用した『獣人』が発刊されたのは一八九〇年のことであるが、小説の時代は、一八六〇年代の末に設定されている。舞台はパリからル・アーヴルにかけての鉄道沿線に限定され、鉄道の運行時間にかかわる細密な記述が、小説世界の展開そのものを少なからず支配している。今ここでその詳細な内容に立ち入ることはしないけれども、小説の主題は、タイトルに象徴されるように、いかに近代社会が目まぐるしい変化を遂げようとも、人間の内に在る太古からの獣性は消えるものではない、と云うものだ。作者エミール・ゾラは、日々無数の人間を運搬する化け物じみた黒く巨大な機関車をモティーフに選ぶことで、それとて、それ以上に黒く熾烈に駆けめぐる人間本能の獣の疾走を凌駕しえないことを、フローベル以来の伝統的な自然主義の手法によって鋭く描きだしてみせたのである。

 かくして筆を走らせるゾラの念頭には、おそらく、かつてモネの描いた《サン=ラザール駅》のイメージが、それこそ定期列車のごとくに何度も通過したにちがいない。第三回印象派展に出品された《サン=ラザール駅》について、一八七七年四月一十九日付の『マルセイユ通信』紙上で、彼はモネを評して次のように云っている。

「クロード・モネ氏はこの集団において最も際立った個性をもつ人物である。今年出品したのは鉄道の駅を描いた極上の作品だ。駅に入ってくる列車の轟音が今にも聞こえてきそうである。列車からは煙がもくもくと吐き出され、広大な車庫に煙がたちこめている。今ここに、現代を主題とする迫力に満ちた壮大な絵画が誕生したのだ。我々の時代の芸術家たちは、かつて我らの父が森や大河に詩情を発見したように、鉄道の駅に詩情を発見したのである」(藤原貞朗訳)

 モネは、一八七一年の末からアルジャントゥイユに居を構えていた。何作か、アルジャントゥイユの鉄橋を描いた絵もあるようだが、パリまで通じる鉄道の運行を夙夜眺めながら、それに乗って、夢見る都会へと出立しないでいるという法もなかっただろう。一八七七年、モネはサン=ラザール駅に降りたち、早速駅ちかくのアパートメントの一室を借りると、幾つかの連作を試みるに至った。

 例えばそのなかに、オルセー美術館所蔵の一作がある。

 画面の下部中央で、黒い蒸気機関車が淡い青いろの煙を立ちのぼらせながら、警笛を鳴らしてこちらへ近づいてくるのが見える。駅舎の上層には堅固な鉄鋼が縦横に張りめぐらされ、ガラスの天窓から射しこむ昼の陽ざしが、路面の小石を黄に橙に彩っている。遠景にそれとなく人びとの姿も散見されるが、その表情は定かではなく、光の砂粒を正確に鏤めたように立ちこめた煙と蒸気の向こう側で、彼らはただ頼りなく霞んでいる。

 モネがこの連作で描きだしたのは、何んだったろうか。もちろんその制作の動機は、マネが《鉄道》で描いたような、人物に対する何んらかの関心によるものではなかっただろう。現代的な都市空間の最たる象徴としての鉄道駅に、泡沫のように浮かんでは消える煙や蒸気、その瞬間的な表情に彼は取り憑かれたのである。しかし、連作とは云っても、積み藁やポプラ並木を描いた九十年代以降のそれとは、まったくおもむきを異にしている。ひと口に云えば、サン=ラザール駅に佇んだ彼は、まだ、完全には光の海に溺れきってはいないのだ。なぜなら、駅舎に飛びこむ蒸気機関車や煙や汽笛、これらは、光の純然な戯れを愉しむためには、画家の鋭敏な感覚に、いささか余計な刺戟を与えすぎるからだ。

「光を追ひ求めて行つたモネは、しまひには、何んの奇もない平凡な画題、例へば、畠の中に積み上げられた一束の藁があれば充分だ、といふ事になつた。太陽の光さへ浴びてゐれば、それは、限りなく多彩な魅惑で輝やき、これを追つて行けば、光の推移につれて、作画の動機として、いくらでも異つたものが現れて来る。ルアンの寺院の連作も有名だが、晩年は、自分の家の池に咲いた睡蓮ばかり描く様になつた。パリのオランヂュリイ美術館に、その最後の八つの大壁画がある。楕円形に作られた二つの大広間の四方の壁に描かれた池は、真夏の太陽にきらめき、千変万化する驚くべき色光を発してゐる。(中略)光の戯れといふものは、これほど淋しいものか、と見入つてゐるとぼんやりして来る。すると、親しい友達にも笑はれながら、一人で池ばかり眺めてゐるモネの姿が思はれる。彼は第一次世界大戦も知らずにゐたかも知れない。そんな風に思はれて来る。世界には光だけしか見えない、だから光だけがある、よくもそんな道を、狂人の様に一筋に辿れたものだ。彼は何を考へてゐたのだろうか。瞬時も止まらず移ろひ行く、何一つ定かなもののない色の世界こそ、これも又果なく移ろひ行く絵かきに似つかはしい唯一の主題だと信じてゐたのであらうか。そして、それは、瞬間こそ永遠、と信ずる道だったのだらうか」(小林秀雄「モネ」)

 すべて移ろい行くものは永遠なるものの比喩に過ぎず、とゲーテは云った。サン=ラザール駅に出入する機関車の蒸気を見つめながら、おそらくモネもまた、漠然とそう云う予感を身内に感じていたにちがいない。だが、彼は畢竟、画家である。思索は言葉と云う形を取らない。絵筆の然らしめるところ、ついに最晩年の彼は、ジヴェルニーの自邸の庭に浮かぶ睡蓮に到達したのである。それが果たして幸福であったかどうかは、誰にも、知る由はないけれど。


平成二十六年二月五日(水)