661年 百済再興の為に救援を決定
    決断した倭 道子(額田王)大君。

    称制の倭 友(中大兄)が推進


1月6日に難波津を立った倭 道子大君、
倭 友称制、倭 佐富、倭 建、餘 文忠
等を乗せた船は大伯海(通説は岡山
県邑久郡とされる)から伊予の熟田
津(御城田津)に到着します。

青色の破線は、現在の海岸線です。


九州の最前線で、激励した後に、倭 

佐富が率先して、倭 友称制、倭 建、

餘 文忠を(藤原 不比等)引き連れ3月

25日に娜ノ大津磐瀬行宮に入ったと

思われます。


百済再建の最前線で指揮を取る餘 

翹岐(百済 豊璋、中臣 鎌、藤原 鎌

足)の子、文忠の為に友称制は祭事

を取り仕切り、健やかな成長を祈願

しています。   (皇子塚)

青色の破線は、現在の海岸線です。


そして5月9日になって、そこ

から朝倉宮に移ります。


朝倉神社は、高知県高知市朝倉
にある神社。式内社で、土佐国
二宮と称される。旧社格は県社。
俗称として木の丸様。

朝倉や木の丸殿にわが居れば
名のりをしつつ行くや誰が子ぞ」

朝倉の丸木造りの御殿にいると、
名を告げながら通り過ぎて行く
のは誰の子だろう。

友の母の佐富で、餘 鎌(翹岐)
との子、文忠の事でしょう。

活動的な子なのに、母親ときた
らと皮肉を込めた歌となります。

現在の海岸線は青の破線


土佐国風土記』にも、古社
として紹介されています。

土佐の國の風土記に曰はく、
土佐の郡。 朝倉の郷あり。
郷の中に社あり。

由緒に「天智天皇の勅語により
斉明天皇を合祀された」事とさ
れております。

日本書紀には、5月9日から倭 佐富
(斉明天皇)が朝倉橘広庭宮に留まり
動こうとせず、前線指揮に戻りたい
友称制は、近侍の毒殺を始めます。

遂には、佐富も7月24日に朝倉宮
で毒殺(崩御)された事が記されて
居ります。

七十余体の木像が存在してます。 
特選神名牒で、神体が三座あり、
中央が女体、随身七十余座。 
境内の案内では、斉明天皇の
近侍の生像と有ります。


娜ノ大津磐瀬行宮に再度戻ります。


御寳塚は、倭 友が母の為に仮安置

して殯斂カリモガリしました。 

方五間位に小高く築く、これ祭事

終りて、神器を埋めたる跡也と記

録されてます。


10月になってから佐富(斉明天皇)
の亡骸が帰路に就き、飛鳥に運ば
れたと記述されてます。