百済遺民の反抗勢力の先鋒、又、
戦犯として、誘拐拉致されて、
殺害された友称制(天智天皇)



倭 友称制の、只1人の忠臣
(仲間を傘増しする為に中臣
姓を遡って創作されています) 

餘 翹岐で、中臣 鎌、豊璋とも呼ばれ
た者の息子の、文忠(不比等)は、母
を高貴な血統に持てたとは言え、出世
は非常に厳しいものでした。

父の逆賊の汚名を背負い壬申革命
戦時には、百済(天智系)の王統を
絶やす事から守られて山科で軟禁
状態の下に有り粛正を免れます。

中臣氏

御食子は、蔓木 摩理勢(蘇我 馬子)です。
意美麻呂は、神威 毛人(賀茂 毛人、役
小角)で、文忠の妻(昌子)の父です。

稗田 阿札は、文忠の事です。

文忠は無位無官時代が続き、倭 稚建大君
(高市皇子、持統帝)の時代689年に、従
五位下の判事(直広騨)に為りました。

696年に直広戴の位に就きます。

新羅王族の金 多遂は、白村江で、大敗北
した大倭に渡来し密約で、扶餘王族(天武
系)守護と大陸に無理に、派兵させた烏桓
、百済(天智系)の王統を絶やす目的での
永住でした。

渡来自体が、壬申革命戦の準備開始でした。
軍馬の訓練と軍師として、科野国造(壬申戦
総大将)の配下で有能に働き壬神革命戦に、
突入しました。

戦後、下毛野国に移住させられ
役割が果たせ無くなります。