邇波(三輪)氏は開拓の神とされる。

邇波 荒田大人(大荒田命•建御名方•
武御名方富命•健磐龍命)の別名に
加えて、神武と呼ばれた戦に強い
人物でした。

倭 武大君の殺害未遂で、主犯の
邇波 彌母里大人を焼き討ちし、
彌母里の弟、明国彦(長髄彦)の暗
殺にも成功し、彌母里大人の息子、
荒田の出雲に向かって進撃します。

日奉 刀見は、祭祀を司る氏族で、刀見(鳥見彦)が
邇波 開国彦(長脛彦)を支援し武と対立しました。
和解後倭 武大君の、宗教革命で邪馬台国祭祀の、
日奉祭祀は廃止されます。

倭 興(経津主)、餘王族の倭 武(武甕槌)
は、応神天皇の針間(播磨)巡幸は、事実
上の遠征で、吉備の勢力を討ち果たし、
出雲に入りますが、王荒田に大敗を喫します。

倭 興(経津主)、餘王族の倭 武(武甕槌)
は和睦に入り、国譲りの案を提出します。

王荒田は、出雲の国譲りを承諾し、定住地
を探して各地を開拓しましたが、三野(御野
とも大君の産土の地、高天原に含め意味を
持たせてます。美濃)でも、現在の揖斐川町
三輪(大野郡大神郷)の開拓も行い、入婿と
なった餘王族への備えをする場所を探します。



蒙古草原馬が朝鮮半島経由で渡来します。


体高約120〜140センチメートル
体重約200~300キロ

出雲と同緯度の科野国に居を定め、馬を
放牧して育て、軍馬の産地にして行きます。

有名な望月牧、山鹿牧、塩原牧、岡屋敷牧、
平井弓牧、笠原牧、高位牧、宮処牧、埴原牧、
大野牧、大室牧、猪鹿牧、萩倉牧、新治牧、
長倉牧、塩野牧、16牧が置かれます。

飯田市松尾の茶柄山古墳群から
馬の墓が10カ所発見されています。

623年の内紛には間に合わず、
672年の壬申革命戦では科野国
の軍馬が大活躍して居ります。

真の神武陵

宮山墳墓群の一号墳(消失)
この墳墓は神塚と呼ばれていました。

出雲地方で第二の規模の前方後方墳が
邇波 荒田の墳墓だと、個人的に感じています。